第三章 外務省の男  7月 1日 午後7時

 葵と茜はドレスアップして事務所を出ると、通りを一本奥に入りタクシーを拾った。シャーロットがまだどこかから二人を監視しているかも知れないからだ。

 葵の警戒心はさらにその上を用意していた。

「新宿駅までお願い」

「はい」

 茜はもうすっかり驚いていた。

「場所も違うんですか?」

「ええ。あの女に、銀座中探されたら困るものね。美咲には、メールで新宿に行くように指示出してあるわ」

 葵は某メーカーのピンクの携帯電話を茜に見せて言った。

「さっすが、所長ですね」

 とうとう茜は褒めざるを得ないと思ったのか、そう言った。

「ただ、シャーロットが言ってた『外務省のお偉いさん』というのは、役に立ちそうね。あいつ、美咲のためなら、国を裏切りかねない男だから」

 葵は携帯をスーツの内ポケットにしまいながら言った。茜も楽しそうに笑って、

「そうですね。あの人、ホントに美咲さんにゾッコンですよね」

「すごいエリートなのに、女にはウブなのよね」

 葵はウンザリ顔で言った。ところが茜は、

「あら、美咲さんなら、ウブじゃない男だって、イチコロですよ」

「かもね。あの子、男に『守ってあげたい!』っていう気にさせる何かを持っているのよね」

 葵も同意して言った。


 新宿の高層ビル街にあるホテルの最上階に、美咲、神無月美咲かんなづきみさきはいた。軽くウェーブがかかった奇麗な黒髪を肩まで伸ばし、ややウルウル気味の瞳と、小さい小鼻、新鮮なサクランボのように潤いのある唇。葵より三つ年下の彼女は、葵と違って落ち着いた雰囲気だ。服装も性格のように、淡色系のツーピースで、スカートの丈は膝よりほんの少しだけ上程度である。

「ホントだ。ここのフランス料理、僕がいつも貴女と行っている銀座のものより、うまい!」

 真夏日を記録し、夜になったとは言え、まだ二十七度ほどある日なのに、律儀にスーツを着込み、決してネクタイは緩めない。実直と言えば聞こえがいいが、要するに融通の利かない男の典型がこいつだ、と葵はよく美咲に言う。

「さすが、神無月さんだ。僕も今度からここを贔屓ひいきにしよう」

 男は実に嬉しそうにそう言った。

「そ、そうですか」

 美咲は後ろめたそうに言った。彼女にしてみれば、目の前にいる男は、雲の上の存在に近いエリートだ。それほどの男が、今こうして、探偵事務所の一調査員のために、上司に嘘をついてまで、夕食を共にしようとしてくれているのは、彼女にとって結構負担であった。

( このお店、私も初めてなのよね……)

 美咲は心の中でそう思い、葵が来るのを心待ちにしていた。

( 急に新宿に場所を変えるようにってメールで指示して来て、びっくりしてしまったわ。一体どうしたのかしら、所長達?)

「神無月さん、今夜こそお返事聞かせてください」

 男は真面目な顔で美咲を見つめて言った。美咲はビクッとして彼を見た。

「お返事?」

「ええ。貴女とお付き合いを始めて、もう半年近くになります。そろそろ、その……」

と男は言葉を濁した。美咲はこの男に下心があることを前から気づいていたのだが、今まではうまくかわしていたのだ。

「貴女が欲しいんです」

 男は声をひそめてそう言った。美咲はカッと赤くなった。演技ではない。言ってしまえば、彼女の方が茜よりウブなのである。

「す、すみません。ストレート過ぎました。でも、貴女に対する気持ちは遊びじゃありません。本気なんです」

 美咲はここで必ずある一言を言い、この男の誘いをあしらって来た。

「でも、神戸(ごうと)さんにはフィアンセの方が……」

 この一言で、神戸──神戸 つかさは一瞬にして萎んでしまうのだが、何故か今日はそうならなかった。

「あの女とは、夕べ別れました」

「ええっ?」

 美咲は仰天した。この手の男は、「遊び」は「遊び」と割り切って付き合うものだが、何か歯車が狂い始めたのだ。

「もう貴女しかいないんです」

「そ、そんな……」

 美咲は思ってもみない展開に、すっかりうろたえていた。

(どうしよう? 所長はまだ来ていないの?)

「神無月さん……」

 神戸の右手が美咲の左手に触れた。彼女はハッとして手を引いた。

( 何か口実を作って、この場を離れないと……)

「ご、ごめんなさい、ちょっと失礼します」

 美咲はハンドバッグを持ち、席を立って化粧室に向かった。神戸は美咲の後ろ姿をしばらく見ていたが、フーッと溜息を吐き、目を伏せた。

「やっぱり、ちょっと急ぎ過ぎたかな……」

 彼は彼なりに、美咲に気を使ったつもりだった。


「ハァ……」

 美咲は化粧室の鏡の中の自分を見て、溜息を吐いた。

( 何か、疲れているなァ……)

 他の探偵事務所に決してできない依頼を受け、それを完璧に実行する。それが葵のモットーである。そのために彼女達は、自分達の女としての魅力を最大限に生かし、官僚達の情報を引き出し、警察すら知らないような事実を入手することができる。美咲が神戸と食事をしたり、カクテルバーで酒を飲んだりするのも「仕事」なのである。そのための必要経費は全額事務所持ちだ。だからこそ、水無月探偵事務所の経理は不明朗にしておかなければならないのである。何故なら、これはある意味で「贈賄」であり、情報のリークは相手の官僚にとって命取りになりかねないからだ。

「お疲れ、美咲」

 突然、彼女の後ろに葵と茜が現れた。美咲はビクンとして振り返り、

「所長、茜ちゃん……。いつ来たんですか?」

 美咲は二人の派手なドレス姿に唖然としてしまった。葵は背中の大きく開いた白のドレスを着ている。茜は、可愛いフリルの着いたピンクのワンピースを着ている。

「たった今よ。貴女がここに入るのを見かけてね」

「……」

 美咲は目をいつもよりウルウルさせている。葵はその様子にすぐに気づき、

「どうしたの、美咲? あいつが何かしたの?」

「セクハラされたんですか、美咲さん?」

 茜は好奇心むき出しで尋ねた。美咲は、

「彼、本気になってしまいました。フィアンセと別れたって……」

「あらま……」

 葵もさすがにびっくりしたようだ。しかし茜はケラケラ笑って、

「美咲さん、モテるゥ! 」

 無責任発言をしている。美咲は困った顔で茜を見て、

「茜ちゃんたら、面白がらないでよ」

「ごめんなさァい」

 茜はチロッと舌を出した。美咲は葵を見て、

「どうしたらいいでしょうか?」

「まァ、仕方ないわね。結婚してあげたら?」

「そ、そんなァ……」

 もう美咲は泣き出しそうだ。葵はクスッと笑って、

「もちろん、ホントに結婚する必要なんかないわ。あいつからこっちが知りたいことを全て聞き出せるまで、その気にさせとけばいいのよ」

「難しいですよ。神戸さんて、結構堅いし……」

「そこが腕の見せ所よ。私を悪者にしていいからさ」

 葵はウィンクしてみせた。美咲はキョトンとして、

「えっ? どういうことですか?」

 葵は悪戯っぽく笑って、

「ウチの所長がどうしても訊き出して来いって言ったんですゥとか、目をウルウルさせながらお願いして、ちょっとだけ胸の谷間見せるとか、あいつの腕にしがみついて、おっぱい押しつけちゃうとかすれば、外務大臣の預金口座の暗証番号だって教えてくれるわよ」

「ええっ?」

 美咲はもう、まさに目を白黒させて仰天していた。

「それ、面白いですね」

 茜はまたまた無責任発言である。さすがに美咲もムッとして茜を睨み、

「じゃあ代わりに茜ちゃんやってくれない?」

 すると茜は苦笑いして、

「私じゃダメですよォ。神戸さんて、美咲さんみたいな、穏やかァな人が好みなんですから」

「そうそう。茜を好むような男は、少しロリコンの気があるのよね」

 葵が言ったので、今度は茜がムッとした。

「何ですかァ、そのロリコンてェ! 私、二十歳ですよォ。ロリコン男の対象じゃありませんてばァ」

「ハハハ、そうね」

 葵は愉快そうに笑って言った。そして真剣な顔で美咲を見て、

「実はね、神戸君から聞き出してもらいたいことがあるのよ」

 イスバハンのことを簡単に説明した。その時、二人の女性が入って来たので、葵達は話を存在しない上司の悪口に切り替え、二人の女性が出て行くと、再び本題に入った。

「私達のことをそこまで調べられる情報収集能力と、事務所のシステムに気づく勘の良さは、ちょっと危険ですね」

 美咲は感想を述べた。彼女の顔はさっきまでのオドオドした女の顔から、すっかり頭脳明晰な探偵の顔に変貌していた。葵はその言葉に軽く頷いて、

「ええ。それもそうなんだけど、もっと気になるのは、セシオの前身よ。フランスの外人部隊にいて、暗殺を担当していたらしいから」

「なるほど。イスバハンという国のことと、情報部のことがわかればいいんですね?」

「そうね。あと、ファラ王女のこともね。どんな子なのか、知っておきたいわ」

「そんなこと訊いてどうするのって言われたらどうしますか?」

 美咲が尋ねると、葵はニコッとして、

「それは教えられませんって、またおっぱい押しつければいいのよ」

「もう、所長ったら!」

 美咲は剥れた顔をして、化粧室を出て行った。すると茜が、

「所長って、美咲さんの胸にこだわりますね? コンプレックスですか?」

 葵はビクッとしてから茜をキッと睨みつけ、

「違うわよ!」

 しかし、否定したにも関わらず、葵は自分の胸をジッと見つめてしまった。

「女は胸の大きさじゃありませんよ、所長」

 茜がそれに気づいたのか、そう言った。葵はフーッと溜息を吐き、

「あんたに言われたくないわよ」

 茜はペロッと舌を出して肩を竦めた。

「何かフランス料理食べるの、嫌になっちゃったなァ。このまま帰ろうかなァ」

 葵はとぼけてそう言った。茜は仰天して、

「ええっ? そ、そんなァ。どうしてですかァ?」

「何か今、すっごく不愉快な気分になったからよ」

「ええっ?」

 茜は自分の余分な一言が葵の気まぐれを引き起こしてしまったのに気づき、慌てふためいた。

「ご、ごめんなさい、所長。許してください」

「何のこと?」

 葵はまだとぼけている。茜は泣き出しそうな顔で、

「所長ォ……」

 すがるように葵を見つめた。葵はそれでも構わず、スタスタと化粧室を出て、レストランの入り口に向かって歩いた。

「所長ってばァ……」

 再び茜が話しかけると、葵はそこでやっと携帯電話を茜に見せて、

「あいつが接触を持ちかけて来たのよ」

「えっ?」

 茜はキョトンとした。葵は茜の顔を見ないで、

「とにかくここを出るわよ。話は私のマンションで」

「……?」

 茜はそれでもチンプンカンプンのようで、ポカンとした顔で、葵を追いかけた。


 一方美咲は、神戸にイスバハンのことを話し始めたところだった。

( 話してくれなかったら、所長の言ったようにするしかないのかなァ……)

 美咲が思案していると、意外にも神戸はスラスラとイスバハンのことについて話し始めた。

「どうして貴女がイスバハンなんていう、日本人の大半が知らない国に興味を持ったのかはわかりませんが、僕とすれば、あまりイスバハンには関わらない方がいいと思いますよ」

「えっ? どうしてですか?」

 美咲はいかにも不思議そうに小首を傾げた。神戸はそんな彼女の仕草にドキッとして赤面しながらも、

「あの国とは、まだ日本政府は正式に国交を開いていません。ただ、日本人がイスバハンに行くことはできますけどね。イスバハンの一般市民は、日本に入国することはできないんです。我が外務省が、イスバハンを調査中なんです」

「調査中?」

「ええ。イスバハンは今から二十年ほど前にフランスから独立した、北アフリカの小さな王国ですが、国情がよくわからないんです」

「わからないって、どういうことですか?」

 美咲はついに身を乗り出して尋ねた。神戸は近づいた彼女の顔をジッと見つめて、

「イスバハンには、観光名所があるわけでも、貿易の目玉になるような特産品があるわけでもありません。でも国は富んでいて、王室はかなり優雅な生活をしていますし、国民の生活レベルもモロッコに次ぐくらいのものです。何故そんなに豊かなのか、理由がはっきりしないんです」

 美咲は背筋が寒くなる思いがした。

( 所長の話と考え合わせると、イスバハンて、一体どういう国なのかしら?)

「これは極秘情報なのですが、今そのイスバハンの王女であるファラ・ピクノ・ルミナが、日本に来ているんです」

「そうなんですか」

 美咲はあっさりと嘘をついた。神戸はテーブルの上の料理を見つめて、

「外務省は、王女の目的が何であるのか、目下調査中です。そして、彼女に同行して来た、セシオ・レ・クリオという情報部の部長には、防衛省のスタッフが監視をつけているようです」

( 篠原さんかしら? )

 美咲は思った。篠原というのはシャーロットが葵をからかった時に言った「防衛省統合幕僚会議情報本部の彼」のことである。

「そんなわけですから、どういう事情でイスバハンのことを調べているのか知りませんが、もし依頼を受けているのであれば、キャンセル料を支払ってでも、手を引くべきだと思いますよ」

 神戸は美咲を再び見つめて言った。美咲は真顔になり、

「それは危険だから、ということですか?」

「ええ、そのとおりです」

 神戸も真顔で応えた。美咲はニコッとして、

「ご忠告ありがとうございます。所長に神戸さんのご意見、伝えます」

「やはり仕事がらみなのですか?」

 神戸は本当に心配そうに尋ねた。美咲は少々困った顔をして、

「ええ、そうですとしか、お答えできないんです」

「……」

 神戸は黙って頷いた。彼もまた、そういう世界の男である。美咲の立場をよく理解しているのだ。

「美咲さん」

「はい?」

「今度こそ、お返事聞かせてくださいね」

 神戸は微笑んで言った。美咲は苦笑いをして、

「は、はい」

と応えた。

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