第二章 シャーロット・ホームズ 7月1日午後5時10分
「あーら、発育不良娘さん、お元気ィ?」
シャーロットはイギリス人のようだが、実に達者な日本語で茜をからかった。茜はプウッと剥れて、
「私、発育不良娘じゃありませんてばァ」
しかしシャーロットはそれには応じないでサッサとソファに座り、脚を組んでふんぞり返った。
「あのおじさんが話さなかったことって何?」
葵はシャーロットの横にデンと立ったまま尋ねた。シャーロットはフフッと笑って、葵を見上げ、
「まァ、座りなさいよ。日本人のくせに落ち着きがないわね」
「何よ、それ」
葵はムッとしてソファに戻った。茜はバーカと声に出さずにシャーロットの背中に言うと、葵の目配せに応じて給湯室の方に歩き出した。それに気づいたシャーロットが、
「私、ミルクティーね」
声を張り上げて言った。茜は嫌そうな顔をして、
「はァい」
ベーッと舌を出した。葵は茜が給湯室に消えたのを見届けてから、
「貴女、あのおじさんのこと、何か知っているの?」
「ええ、イスバハンの王女様は我が国にもいらしてるのよ。英国王室の招きでね」
シャーロットはまるで盗聴を警戒するかのように小声で言った。葵もシャーロットの様子に気づき、
「どうしたの?」
「あのおじさん、情報部の部長だって言ってたでしょ?」
「ええ。それで?」
葵が先を促すと、シャーロットは葵に顔を近づけて、
「その前には何をしていたと思う?」
「焦らさないでよ。何してたの?」
葵は給湯室から茜が出て来たのを見てから尋ねた。シャーロットもチラッと茜を見て、
「フランスの
「えっ? じゃああの人、戦争屋だったの?」
葵は意外そうに言った。そして考え込むようにして、
「少なくとも、どこにもそんな臭いはしなかったわ。血の臭い、硝煙の臭い……。そして人を何人も殺した人間にありがちな、殺気のようなものもね」
「それはそうよ。あのおじさん、戦争屋って言っても、ドンパチする兵隊じゃなくて、暗殺部隊だったのだから」
「暗殺?」
葵は茜に出されたコーヒーに目もくれず、シャーロットを見た。シヤーロットはミルクティーのカップを手に取り、
「そうよ」
葵はセシオが言っていた「王女を狙う殺し屋」の話が、眉唾ものではないかと考え始めていた。
「王女の命を狙う殺し屋の話は本当なの?」
「それは本当よ。私は何度か王女を助けているわ」
シャーロットはカップをテーブルに置いて言った。葵はコーヒーカップを手にして、
「でも暗殺のプロだった男が、王女のボディーガードを他所に頼むなんて、変じゃない?」
「それはね。でも、王女は女性ですからね。男では守り切れないところもあるでしょ?」
「それはそうだけど……。何か裏があるような気がするわ」
葵はコーヒーを一口飲んで言った。
「かもね。でも、貴女は依頼を受けたのだから、王女を護衛するだけでいいの。他のことは考えない方が身のためよ」
シャーロットは真顔で言った。葵も真剣な顔つきになり、
「一筋縄じゃいかないってことね」
「ええ」
シャーロットは悪戯っぽく笑って、
「イスバハンについての裏情報なら、貴女の彼が私より詳しいはずよ」
上目遣いで葵を見た。葵はキッとシャーロットを睨みつけ、
「彼って誰よ?」
強い調子で言い放つ。シャーロットは実に面白そうにクスクス笑いながら、
「防衛省統合幕僚会議情報本部の、彼よ」
葵は顔を赤くして、
「あ、あいつは彼なんかじゃないわよ! 変な誤解しないでよね」
「そうなのォ? 少なくとも、彼はそう思っていないんじゃないかなァ」
シャーロットは完全に葵をからかうような口調になっていた。葵はコーヒーを一口飲んでから再びシャーロットを睨みつけて、
「それはあいつの思い込みよ。私は別に、あいつのことなんか、だだの同郷の男としか思ってないし、おいしい情報源でしかないわ」
「フフーン、そうかなァ」
シャーロットはミルクティーを飲み干すと、音を立てずにカップをテーブルに戻した。
「まァ、その話は置いといてと」
彼女はまた真顔になり、
「ここからが本題なんだけど。あのおじさん、貴女達のこと、いろいろ知っていたでしょ?」
「貴女が喋ったんでしょ?」
葵は呆れて言った。しかしシャーロットは首を横に振り、
「私は貴女達が日本で最高の探偵だとしか言ってないわ」
葵の顔に驚きの色が浮かんだ。茜もびっくりしてソファに近づき、二人の話に耳を傾けている。
「私達のことを調べたのね?」
「そうね。でも、どこをどう調べれば、貴女達の正体が掴めるのかしら?」
シャーロットが言ったので、葵と茜が彼女をジッと疑いの眼差しで見た。
「ちょ、ちょっと、本当に私は他に何も話していないわよ」
「だって他に漏洩源が思い当たらないんだもの」
葵のきっぱりとした言い方に、シャーロットは苦笑いをして、
「そうかァ。でもね、もう一つ、漏洩源があるわよ」
「誰よ?」
葵は全く信用していない目でシャーロットを見た。シャーロットは肩を竦めて、
「そうは思いたくないんだけど、我が親愛なる女王陛下よ」
葵は茜と顔を見合わせて、
「そうか。女王陛下、私達のこと、ご存じなのよね」
葵達三人は、以前イギリスでシャーロットと協力して、王室を狙うテロリストを撃退したことがある。その時、女王にだけは、三人の正体を明かしてあったのだ。
「イスバハンの王女、ファラ・ピクノ・ルミナが、英国にいらした時、女王陛下とお話なさっているわ。その時、貴女達の活躍の話が出たとしても、不思議じゃ ないわよね」
「そうね……」
葵が考え込もうとした時、シャーロットが、
「じゃあ、謝ってもらいましょうか」
「えっ?」
葵は虚を突かれたようにシャーロットを見た。シャーロットは得意満面の顔で、
「私を疑ったことをよ」
葵は仕方なさそうに、
「はいはい。ごめんなさいね、疑ったりして」
「全然気持ちがこもっていないなァ。ま、いっか」
シャーロットのいいところはとてもあっさりしているところだけだ、と葵はその時思った。そして、
「今度は私から質問するけど、いいかしら?」
「ええ、どうぞ。何なりと」
シャーロットはニッコリして応えた。葵は軽く頷いて、
「貴女は何のために日本に来たの?」
シャーロットは茜を見てカップを差し出し、ニコッとして渡すと、
「王女に同行を求められたのよ。彼女、日本に来る前に、我が国に立ち寄っているわ」
「なるほどね。イスバハンは今、イギリスと一番親しいのかしら?」
「でしょうね。一番近い西欧の王国だし、不仲のフランスに対抗するには、一番おあつらえ向きの国だものね」
シャーロットは、不満そうに給湯室に向かう茜に手を振って言った。
「セシオにも訊いたことだけど、イスバハンとフランスの間に、確執はないの?」
「ないわね。少なくとも私の知る限りではね」
シャーロットの言い回しには、含むところがあるようだった。葵はそれに気づき、
「本当は何かあった、あるいはあるのね?」
「かもね。イスバハンの独立当時のことを調べればわかるわよ」
シャーロットはフッと笑って言った。
「その辺に、王女が殺し屋に狙われる理由があると考えられるけど、セシオはそれを否定した……」
葵は腕組みをして考え込んだ。シャーロットは茜が突き出したカップをニコッとして受け取り、
「あのおじさん、信じちゃだめよ。何か胡散臭いわ」
「ええ、そうね……」
葵はそう言って頷きながら、
「貴女、そこまで知っていてどうして王女に同行したの? 断れば良かったんじゃないの?」
「だって面白そうだったんだもの。それに、貴女と会えるって聞いたから」
茶目っ気たっぷりの目で、シャーロットは答えた。葵は半ば呆れ顔で、
「ホントに、貴女ってお気楽な人ね。呆れちゃうわ」
「ハハハ。よく言われる。お前、生まれる国を間違えたって言われたこともあるわ」
シャーロットは頭を掻きながら言った。
「断わった方が良かったんじゃないですか、所長」
茜が口を挟んだ。葵は彼女を見上げて、
「そうはいかないわよ。何か妙なのよね。私達の正体を探っていたらしいこと、この事務所の特別な仕組みにすぐ気づいたこと。このまま手を引いたら、今度は 私達がイスバハンの情報部に狙われることになってしまうかもよ」
「その可能性は大いにあるわね」
シャーロットが同意した。茜は怖そうな顔で、
「やだなァ。なーんか、危なっかしい仕事で」
「仕方ないじゃないの、探偵なんだから。私、浮気調査や、素行調査なんて、絶対したくないんだから。こういう仕事をするために、探偵事務所を始めたのよ」
葵が言うと、シャーロットが、
「そォ? ホントはさ、一番実体がわからない仕事だから、選んだんじゃないの?」
「それもあるけどね」
葵はペロッと舌を出した。そして腕時計を見て、
「あっ、もうこんな時間。茜、行くわよ」
立ち上がった。シャーロットも立ち上がり、
「どこ行くのよ?」
葵はロッカールームのドアを開いて中に入りながら、
「美咲のところよ」
「そう言えば彼女、いないわね。どこに行ったの?」
シャーロットは興味津々の顔で尋ねた。すると茜が、
「デカ乳女には関係ないでしょ?」
シャーロットはしかし、微笑んだまま茜を見て、
「そういうこと言ってると、早死にするわよ、発育不良さん?」
茜は、
「フンだ!」
ロッカールームに入って行った。
「ねェ、ホントにどこに行くのよ?」
シャーロットはもう一度、ロッカールームからショルダーバッグを持って出て来た葵に尋ねた。葵は仕方なさそうに、
「銀座のレストランよ。美咲はそこで、外務省の官僚とデート中なの」
「あらま、そういうこと」
シャーロットは嬉しそうに言った。そして、
「私も一緒に行っていい?」
小首を傾げて尋ねた。葵はしかしきっぱりと、
「ダァメ!」
シャーロットは少しだけムッとして、
「何でよ?」
「茜が言ったでしょ? 貴女には関係ないことなの」
葵はシャーロットを無視するようにドアに近づいた。
「そんなこと言っちゃっていいのかなァ」
シャーロットは葵に背を向けたままで言った。葵はドアノブから手を放して振り返り、
「何よ?」
シャーロットはニヤニヤして、
「外務省のお偉いさんなら、イスバハンのこと知っているんじゃないの?」
「そうかも知れないわね。それがどうしたの?」
葵はかなり気分を害したという顔つきで、シャーロットを見た。シャーロットは肩をすくめて、
「でもさ、それを教えてもらえるかどうかは信頼関係があるかないかにかかって来るわねェ」
「何訳のわかんないこと言ってんですかァ?」
ロッカールームから出て来た茜がバカにしたような口ぶりでシャーロットを見上げた。二人の身長差は、20cm近くあるかも知れない。
「私、時と場合によっては、とっても口が軽くなったりするのよねェ」
シャーロットは茜を無視して、葵を見つめた。葵は怒りを通り越して、呆れていた。
「私を脅迫するつもり?」
「まっさかァ。そんな命知らずなことしないわよ。たださ、お夕食、一緒に食べたいなァッて、思ったりしただけよ」
シャーロットはニコニコしながら言った。しかしさすが探偵事務所の所長である。葵は見事に逆襲した。
「これから行くの、中華料理のレストランよ」
その言葉はまるで呪文のようで、シャーロットの微笑が凍てついた。彼女は中華が大の苦手なのである。
「それでも一緒に行く?」
葵は勝ち誇ったように尋ねた。シャーロットは顔を引きつらせながら笑い、
「え、遠慮しとくわ。やっぱり、貴女にご馳走になるの、悪いし、気が引けるから」
葵はニンマリとして、
「あらそう、残念ね」
そう言ってから、茜を見て、
「さァ、行くわよ」
「はァい!」
茜はやり込められて苦笑いしているシャーロットを鼻で笑い、ドアを開いた。
「さァ、ホームズさん、お帰りはこちらですよォ」
「……」
シャーロットは無言のままドアから出た。
「また来るわ」
彼女はフラフラしながらビルの外廊下を歩いて行った。葵はシャーロットが見えなくなってから、
「さてと。茜、早く着替えましょ。こんな格好じゃ、フランス料理のフルコースを食べるの、恥ずかしいから」
「えっ? 中華じゃないんですか?」
茜は呆気にとられて言った。葵はフッと笑って、
「当然。さっきのは、あの跳ねっ返り女を追い払うための嘘よ。まんまと引っかかってくれて、良かったわ」
「……」
茜は感心するよりも、葵の機転の早さに少し身震いした。
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