第一章 水無月探偵事務所 7月 1日 午後3時55分
「まだ終わりませんか?」
「はァ、後もう少しで……。四時になったら帰ります」
奇妙な会話が、ビルの一室で交わされていた。
ここは、東京都文京区本郷にあるグランドビルワンの五階の「
「しかし、いくら何でも経理が
机の一つにあらゆる書類を広げて、その一つ一つを吟味していた税務署の調査官が、顔を上げて言った。
「はい。以後、気をつけます」
ニッコリ微笑んで答えたのが、水無月葵、この事務所のオーナーであり、所長である。
彼女は今年二十七歳の、痩身の美人で、長いストレートの黒髪、ちょっと大きめの黒々とした瞳、高くスリムな鼻、薄くて小さめの唇の持ち主。いつも明るいスーツを着込み、職業柄かそれとも好みなのか、ヒールの低い革靴を愛用している。
「明日また来ます。請求書関係を見させていただきますので……」
調査官はまだ若い男で、葵の微笑みに顔を赤らめ、視線を外して言った。葵はそんな彼の心を見透かしたのか、クスクス笑って、
「はい、お待ちしております」
調査官を送り出した。
「ひっどーい、所長ってば」
税務署員が出て行くと同時に、文句の声が上がった。それはこの事務所の経理を担当している、
彼女はまだ二十歳の、ホントに子供子供した女の子だ。見た目は高校生、いや化粧をしていなければ中学生に見えるかも知れない。服装は事務所の制服らしく、紺のスカートに白のブラウス、そして紺のベスト。髪がショートカットなのも、子供っぽく見える理由の一つかも知れない。
「ごめん、茜。後で埋め合わせするからさ」
葵は手を合わせて片目を瞑り、下手に出た言葉遣いで、むくれる茜をなだめた。しかし、
「あれじゃまるで私ってバカみたいじゃないですかァ。出納帳もつけられない経理事務員がいるって、あの税務署の人、思ってますよ、きっと」
茜はますますむくれていく。葵は肩をすくめて、
「まァ、仕方ないのよ。ウチの経理を正直に書いたら、国税局が来ちゃうんだから。いや、検察庁かな?」
「それはわかってますけどォ……。せめて、現金出納帳くらいはもう少しまともにつけさせてくださいよォ」
茜は少し穏やかに言った。葵は自分の席の椅子に腰を下ろして、
「わかったわ。その辺は茜に任せる。うまくやって」
ウィンクした。茜はニコッとして、
「わっかりましたァ!」
嬉しそうに自分の席に戻った。
「二重帳簿を作るのは難しいからいい加減な出納帳のフリをさせてるってこと、わかってね」
葵が言うと、茜は、
「はい。わかってます。でも私って、簿記一級なんですから、任せといてくださいよ。三重帳簿だって作れますから」
胸を張ってみせる。葵はクスッと笑って、
「はいはい。先生の思うようになさってください」
「はァい!」
茜は元気よくそう返事をすると、早速出納帳を書き直し始めた。
「そう言えば、美咲はどうしたの? 遅いわね」
葵はもう一つある誰も座っていない机に目を向けて言った。茜もその机を見て、
「美咲さんは今日は外務省デーなんです。遅くなるかも知れないって言ってましたよ」
葵は頷いて、
「そうか、今日は外務省デーか。じゃ、帰って来ないわね」
「明日は私が警察庁デーです」
茜は悲しそうに言った。葵は腕組みをして、
「ということは、明後日は私が防衛省デーってことか……」
表情を暗くした。そして、
「じゃ、今日はもう早じまいしちゃいましょうか」
立ち上がる。茜はムッとして、
「何ですかァ、それって!? 私がせっかく仕事を始めたのにィ!」
「そんなの、あとあと。今から美咲が行くと思われるレストランに先回りよ」
葵の悪戯っぽい笑みに茜も思わずニヤリとして、
「それっていいですね。面白そう」
出納帳を閉じ、立ち上がった。
「帰りましょうか」
葵がロッカールームに近づいた時、ドアフォンが鳴った。
「……」
葵と茜は顔を見合わせた。
「お客様みたいね」
「はい」
二人はがっかりした顔で客を出迎えるためにドアに近づいた。そして、葵がドアを開くと、そこにはドアの高さと同じくらいの身長のダークスーツを着た男が立っていた。
「わっ!」
茜は思わず叫んでしまった。
「日本語、わかりますか?」
葵はその男が一見して外国人だとわかったので、そう尋ねた。男は浅黒い顔に白い歯を見せて、
「大丈夫です。私は日本に留学し、源氏物語を学んだことがありますので」
葵は微笑んで、
「どうぞ。御用件を伺いましょう」
来客用のソファを右手で示した。その外国人男性は、茜に向かってニコッとしてから、ソファに近づいた。しかし当の茜は、まるで金縛りに合ったかのように無反応で立っていた。
「茜、何かお飲物を用意して」
葵もソファに近づきながら言った。すると外国人男性は、
「お気遣いなく。用がすみましたら、すぐに帰りますので」
そしてソファにゆっくりと腰を下ろし、フロア全体を眺めた。
「きれいな事務所ですね。女性らしさに溢れていて、それでいて実に機能的にできている」
男性のその発言に葵は急に険しい顔つきになり、向かいのソファに座って脚を組んだ。
「この事務所を見渡しただけでそこまでおわかりになった方、今まで何人もいらっしゃいませんのよ。貴方は一体どういう関係の方なのですか?」
男性は葵の反応にさほど驚いた様子も見せず、逆に微笑んでみせ、
「そう警戒なさらないでください。これは所謂職業病でしてね」
「職業病?」
葵は眉をひそめ、おうむ返しに尋ねた。男性は軽く頷き、
「そうです。申し遅れましたが、私は、北アフリカにある王国、イスバハンの情報部の部長で、セシオ・レ・クリオと申します」
と内ポケットから身分証明書を出し、開いてみせた。葵はそれを覗き込んで、
「イスバハンの情報部の方が、私のような一介の探偵に、一体何のご用ですか?」
とセシオの顔に目を向けた。するとセシオは急に不敵な笑みを口元に浮かべて、
「おとぼけにならなくてもいいのですよ、水無月さん。私共は、貴女方の正体、存じておりますので」
葵の顔がこわばり、ぼんやりとして立っていた茜までがサッと身構えた。まさに一触即発の空気がフロアを支配した。
「喧嘩を売るつもり、セシオさん?」
葵の鋭い目が、セシオを睨みつけた。セシオは再びニッコリして、
「そうではありませんよ。私は貴女方のその類い稀な才能を知り、あることをお願いに参ったのです。早合点なさらないでください」
「依頼をしたいってこと?」
葵は茜に身構えるのをやめさせてから、再びセシオを見た。セシオは大きく頷いて、
「そのとおりです。用件に入ってよろしいですか?」
「ええ、どうぞ」
葵は脚を組み直して促した。セシオは軽く咳払いをしてから、
「この部屋、盗聴は大丈夫ですか?」
葵は頷いて、
「ええ。ご心配なら、ジャマーを作動させて、一切の通信を遮断することも可能です」
「なるほど。しかしそこまでしていただくことはないでしょう」
セシオはもう一度フロアを見渡しながら言った。そして葵に目を向け、
「実は我が国の王女、ファラ・ピクノ・ルミナが、日本に来ています」
小声で話した。葵はソファに身を沈めたままで、
「王女様が? 一体何をなさりに?」
素っ気なく尋ねる。セシオは苦笑いをして、
「我が国は二十年前にフランスの統治領から独立国になり、立憲君主制を採用して、王家と政治を分離して成り立って来ました。王女は法学に興味があり、様々な国の憲法を学んでおります」
「なるほど」
葵はまだ退屈そうである。セシオはそれでも、
「王女はとりわけ、日本の憲法に注目し、それを直接日本で学ぼうと考え、来日したのです」
「そうですか」
葵はあまり興味を示さない。もちろん、これは彼女一流のポーズで、依頼人に残さず話を吐き出させるための手段なのである。
「いい加減、核心に触れてもらえませんか? 奥歯にものの挟まったような言い方、私、あまり好きじゃありませんのよ」
葵はわざと冷たく言った。セシオは肩を竦めて、
「わかりました。単刀直入に申し上げましょう。王女の警護をお願いしたいのです」
「警護?」
葵は少し意外そうな顔で言った。セシオは頷いて、
「そうです。王女は殺し屋に狙われております」
「殺し屋に? 一体どうして?」
葵はとうとう身を乗り出して尋ねた。茜もソファのそばに来て、二人の会話を聞いている。
「王女が狙われる理由はわかりませんが、王女を狙う動機はわかりました」
「動機?」
と葵がチラリと茜を見て言うと、セシオは内ポケットから紙を取り出し、テーブルの上で広げた。
「王女に賞金を賭けた人物がいるのです」
「!?」
葵はその紙を見て目を見張った。そこには王女と思われる、まだ茜と同年代くらいの、可愛らしい少女の写真が印刷されており、その下に、百万ドルと書かれていたのである。
「ファラ王女の首に百万ドル? しかも、DEAD OR ALIVE ( 生死を問わず )なの?」
「はい。何者かが王女の死を願っているようなのです」
「正体はわからないの?」
葵は当然の質問をした。しかしセシオは首を横に振り、
「わからないのです。反王権派、左派、右派、フランスと様々なところに調査の手を伸ばしたのですが、全くわかりませんでした」
「そう」
葵は腕組みをし、ファラのあどけない顔を見た。
「それで、私に警護を頼む理由は?」
「日本の警察は信用できません。いえ、政府そのものが信用できないのです。だから日本で最高の実力の持ち主である貴女方に、警護をお願いしたいのです」
セシオは葵の顔を覗き込むようにして言った。葵もセシオを見て、
「買い被り過ぎじゃないの?」
「そんなことはありません。貴女方の実力はよくわかっているつもりです」
セシオは真顔で答えた。葵は肩を竦めて、
「私達の事、どこまで御存じなの?」
セシオはニヤリとして、
「貴女方が、政府の各機関にコネクションをお持ちのこと、そしてそれは非合法すれすれのこと。貴女方が実は忍びの一族であること、そして政府の情報機関以上に裏の世界にネットワークをお持ちのこと」
葵は茜と顔を見合わせた。そして、
「そんなことまで知っている人、日本政府にもいないわよ。一体どこからそれだけの情報を手に入れたの?」
「私共は、英国王室とはかなり親しくさせていただいておりますので」
セシオは実に楽しそうに微笑んだが、葵は不愉快そうな顔をした。そして、
「あの女が喋ったのね?」
「はい」
セシオは恐縮して言った。葵はドスンとソファにもたれかかって、
「確かにとぼけても仕方ないみたいね。わかりました。依頼はお引き受けしましょう」
「ありがとうございます。それでは前金として、十万ポンド、すぐにご用意いたします」
セシオはニコッとして言った。葵はまた身を乗り出し、
「フランス領だったのに、ポンドなの?」
「はい。我が国の王室は、フランスには憎しみしか抱いておりませんので、外国とはポンドで取り引きしております」
セシオは丁寧な物言いで答えた。
「命を狙っているの、フランスの誰かじゃないの? 独立の時、もめなかった?」
葵が尋ねると、セシオは首を横に振って、
「いいえ。独立は平穏の内に勝ち取りました。我が国はフランスを憎んでおりますが、フランスは我が国を憎んではおりません」
「そう……」
葵は腕組みして考え込んだ。それから顔を上げて、
「彼女も日本に来ているの?」
「は? 誰ですか?」
セシオはわざとなのか、本当にわからないのか、とぼけた返事をした。葵はセシオに顔を近づけて、
「大英帝国の、跳ねっ返り女よ!」
「ああ……」
セシオはニヤリとして、
「あの方も王女に護衛を頼まれて、日本にいらしてますよ」
「護衛を? 彼女がボディーガードなら、私達は必要ないでしょ?」
葵は不満そうだ。「跳ねっ返り女」とは、いろいろと因縁があるためである。
「貴女を推薦されたのは、あの方なのですよ」
セシオの言葉に、葵は完全に呆れてしまった顔で、
「何て女なの。きっと自分が日本で遊びたいから、私に仕事を押しつけるつもりなんだわ」
するとその時ドアフォンが鳴った。葵は茜に目配せした。茜は頷いてドアに近づいた。彼女がドアを開くと、そこには太ももむき出しのミニスカートに、胸の谷間が丸っきり見えているタンクトップを着た、茶髪巻き毛の、青い瞳の白人女性が立っていた。
「やっばり貴女だったのね?」
葵が不快そうに言うと、その女性は、
「お久しぶりね、葵。一年ぶりくらいかしら?」
嬉しそうに応じた。葵はフーッと溜息を吐き、
「相変わらずね、シャーロット・ホームズ。スコットランドヤード特別局の敏腕警部補が、何のご用?」
すると二人の様子を見ていたセシオが立ち上がり、
「それでは私はこれで失礼致します。またご連絡させていただきますので」
シャーロットに会釈して、事務所を出て行ってしまった。
「何よ、あの男。胡散臭いわね」
葵が呟くと、シャーロットはソファに近づいて、
「まァまァ。あのおじさんが話さなかったこと、私が教えてあげるわよ」
ウィンクして言った。何故か葵はうんざり顔で、茜と顔を見合わせた。
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