第七章 襲撃    7月 2日 午後7時

 その頃葵はファラと共に彼女の宿泊先である赤坂のホテルのツインルームにいた。

「ごめんなさい、葵さん。もう少し広い部屋を予約すれば良かったのですが……」

 ファラは申し訳なさそうに言った。しかし葵は微笑んで、

「いえ、大丈夫です。むしろ、このくらいの方が王女様を守るのが楽になります。お気遣いなく」

 ファラはニッコリして、

「ありがとう、葵さん。お腹がすいていませんか? 何かお部屋に持って来てもらいましょう」

 ベッドの脇にある電話に近づいた。

「伏せてください!」

 葵がファラに飛びつき、彼女と共にベッドの間に伏せた。次の瞬間、窓ガラスが粉々に砕けて、二人の黒づくめの男が上から垂れ下がったロープを伝って、飛び込んで来た。

「王女はここに伏せていてください」

 葵はファラにそう言い聞かせると、バッと立ち上がった。

「へェ。顔まで隠しちゃってどういうつもり? このホテルのルームサービスは、いつから窓を割って入って来るようになったのよ?」

 葵が挑発めいたことを言ったが、二人の男は黙ったままピアノ線のようなものを出し、ピーンと張った。

「そいつで首を絞めて殺すつもりなの? もっとスマートな殺し方考えなさいよ」

 葵は至って冷静だった。

( この手の連中はあっさり片づけられる。問題は廊下にいる奴ね )

 彼女は既に別の殺し屋が部屋の前に来ていることも承知していた。

「!」

 二人の男は目で合図を交わすと、バッと葵達の方へ突進して来た。葵はすぐさまベッドのシーツを引き剥がし、二人に投げつけた。

「うわっ!」

 いきなり視界を奪われた二人は、葵の回し蹴りの餌食になり、シーツごと床に崩れ落ちた。

「葵さん?」

 ファラが顔を上げると、葵は、

「まだ伏せていてください。廊下にも一人、もっと手強いのがいます」

「えっ?」

 ファラは一瞬キョトンとしたが、すぐに身を伏せた。葵はそれを確認し、シーツの中で気絶している二人を調べた上で、部屋のドアに目を向けた。

( こいつ、何を探っているの? 何で仕掛けて来ない? )

 次の瞬間、別の気配が背後に現れたので、葵はビクンとして振り返った。

「お前が、日本の女ニンジャか?」

 イントネーションは多少おかしいが、流暢な日本語を使う、真っ黒なスーツに身を包んだ、金髪で長身の男が窓のそばにに立っていた。

「い、いつの間に……」

 葵は、手が汗でジットリと湿っているのを感じた。この金髪男は、全く存在を感じさせずに、部屋の中に入って来たのだ。葵にとって、男の強さよりも、そのことが衝撃的であった。

「ターゲットはお前ではない。その姫様だ。お前は消えろ」

「何ですって?」

 葵はドアの外の殺し屋の気配がしなくなったのを知り、金髪男に全神経を集中させることにした。

( ファラと男の距離は2m。私とファラの距離は1m。ドアの外の奴に向かわなくて正解だった。でも……)

 しかし葵は目の前の金髪男より、ドアの外にいた殺し屋の方が気がかりだった。

( まさかあいつ、この男の存在に気づいていたの? )

「一緒に死ぬのか?」

 金髪の男はサングラスすらかけていない。端正な顔立ちで、シャーロットの好みだ。私の趣味じゃない。あの女の好みだと思うと、心置きなく顔面を殴れる。

「あんた、顔に自信があるみたいね。王女に会いに来るバカ共は、ほとんど仮面を着けてるみたいだけど」

「私の顔を見た者は全て神に召されるから、隠す必要はない」

 男は自信満々に言った。葵はムッとして、

「その癇に障る自信過剰もこれまでよ」

 身構えた。男はニヤリとして葵を見据えると、

「そんなに神に召されたいのか?」

「残念ねェ、私は仏教徒なのよ。神になんか召されたくないわ!」

 葵が応じると、金髪男は、

「ならば地獄に落ちるがいい!」

 突進して来た。葵はスッと一歩引き、左へ飛んだ。

「かわせんぞ!」

 男はまるで自動追尾装置付きのミサイルのように、葵を追いかけて来た。

( 読まれてる? )

「終わりだ!」

 男は右手をガッと開いた。人差し指の先に、キラリと光る鋭い刃が見えた。

「くっ!」

 葵は男の攻撃をギリギリのところでかわした。しかしスーツは裂け、彼女の髪の毛も何本か切られた。

「遅いな。ニンジャとは、その程度なのか?」

 金髪男は右手の指をクネクネと動かしながら言った。葵は切り裂かれたスーツのジャケットを脱ぎ捨て、

「この服、高かったのよ。その分、あんたには地獄を見せてあげるわ」

 キッと男を睨んだ。金髪男はフッと笑い、

「ほォ。地獄とはどんなものか、見てみたいものだな」

「望み通りにしてあげるわよ!」

 葵はそう言うと、フッと姿を消した。男はビクッとした。

「ど、どこだ?」

「ここよ」

 声は天井の方からした。男はハッとして上を見た。しかし葵はそこにはいなかった。

「何!?」

「バーカ」

 葵は男の真後ろにいた。男が気づいた時は、すでに遅かった。葵の渾身の右フックが、男の鳩尾に決まっていたのだ。

「グエエエッ!」

 男は胃液を吐きながら膝を折った。そして絞り出すような声で、

「バカな……。声は確かに天井から……」

 葵はその男の顔面に回し蹴りを入れた。男はそのまま後ろにドサッと倒れ、白目を剥いて動かなくなった。葵はペロッと舌を出して、

「ほーんと、バカね。今の忍者はハイテクも使うのよ」

 超小型のスピーカーをピンと指で弾いて壁に張りつけてみせた。

「王女、もう大丈夫ですよ」

 葵はベッドの方を見やり、ファラに声をかけた。ファラはそっと起き上がり、葵を見つけるや、彼女に抱きついた。

「怖かったわ、葵さん!」

「もう大丈夫ですよ、王女」

 葵は苦笑いをしてファラを優しく抱きしめ返し、頭を撫でた。

「長い間うずくまっていらしたので、汗をかかれていますよ。シャワーをお浴びください。私が浴室の外でガードしますから」

 葵が進言すると、ファラは目をウルウルさせて、

「葵さんも一緒にシャワー浴びてください。怖いの……」

 怯えた様子で言った。葵は一瞬呆気にとられたが、すぐに気を取り直し、

「わかりました。私も一緒に入ります」

 肩を竦めて答えた。ファラは葵を見上げてニコッとした。


 美咲達は葵と連絡を取ろうとしていたが、運悪く葵は殺し屋との戦いの最中で、メールの着信に気づいていなかった。

「所長に何かあったみたいね」

 美咲は携帯電話をスーツの内ポケットにしまって呟いた。茜が大きく頷いて、

「そうですね。給湯室で私が小声で悪口言っても聞き逃さない所長が、メールの着信音に気づかない訳ありませんよね」

「そ、そうね」

 茜の妙な話に美咲は思わず大原と顔を見合わせた。

「ここにいても仕方がないから、水無月さんのいるホテルに行こうか」

 大原が言った。美咲と茜は、黙って頷いた。


 葵達がいるホテルの浴室は部屋から入るとまず洗面台がある。トイレは別になっており、安ホテルのユニットバスとは違う。ファラは葵の目の前で服を脱ぎ始めた。姫様は別に葵に見られていることを恥じる様子もなく、スパッと衣服を脱ぎ、ブラジャーを外し、パンティーを落とした。彼女は普段から多くのお付きの前で裸になっているから、人が見ていてもあまり気にならないのであろうか。

( はァ、十代って感じねェ……)

 葵はファラの裸体に見とれてしまった。ツンと上がった乳房はまさに若さの象徴だ。腰のくびれ方は、某メーカーの清涼飲料水のビンそっくりだ。尻もほどよく肉がついており、全く垂れていない。腿も、脹ら脛も、申し分のない太さだ。足首がキュッとしまっているのも羨ましい。ファラはそのまま浴室のドアを開けて中に入った。そして顔だけ出して、

「葵さんもすぐ来てくださいね」

 そう言い残し、ドアを閉じた。まもなく、シャワーの音が聞こえて来た。

「フゥッ……」

 葵は思わず溜息を吐いてしまった。ファラの裸身を見てしまった以上、自分が裸になって後から入って行く自信がない。それはあまりにも恥ずかしいことだ。茜に言われると腹が立つのだが、ファラに現実というものを見せつけられると、自分の身体がそろそろピークを過ぎていることを実感せざるを得なかった。

「何迷ってるんだか……」

 葵は我に返り、服を脱ぎかけた。その彼女の隙が、後々まで響くことになるのだが、今の葵にそんなことを知る余地はなかった。

「キャーッ!」

 中からファラの悲鳴が聞こえた。葵はハッとしてドアに近づいた。

「開かない!?」

 浴室のドアは何故かロックされており、開かなくなっていた。

「チッ!」

 葵はスッと肘を構えて、思い切りドアにぶつけた。しかし高級ホテルの浴室のドアは思いの外丈夫で、ビクともしない。

「それなら!」

 葵は半歩離れて、ドアを回し蹴りした。ドアがミシッと音をたてて少し歪んだ。

「もう一発!」

 次はジャンプして両足で蹴った。やっとドアが枠から外れ、葵はドアをどけて中に飛び込んだ。

「王女!」

 大声で叫んだが、バスタブとの間のカーテンの向こうからは、シャワーの音が聞こえて来るだけだ。上を見ると、天井にある点検用の出入り口の板が外されており、何者かが侵入して来たのか、煤のようなものがタイルの上に落ちていた。

( しまった! 一瞬でも隙を作った私のミスだ……)

 葵は意を決して、カーテンを引いた。そこには、バスタブに半分浸かり、顔にシャワーを浴びせかけられて気を失ったままのファラがいた。どうやら殺されてはいないようだ。

「王女!」

 葵はファラの脈を診て、瞳孔反応を調べた。異常は見られない。

「王女、しっかりしてください」

「うっ……」

 軽く呻いて、ファラは目を開いた。葵はずぶ濡れになりながらもシャワーを止め、ファラを抱き上げてそのままベッドまで運んだ。そしてバスタオルで身体を拭き、バスローブをかけた。

「王女様、大丈夫ですか?」

「葵さん……。私、さっき誰かに……」

「お考えにならない方がよろしいですよ。お休みください。フロントに電話をして、部屋を替えてもらいますから」

 葵はもう一度浴室に戻り、中を調べた。天井から侵入者。そして、さっきは気づかなかったが、窓も破られており、そこからも誰か侵入した形跡がある。葵は部屋に戻り、ジャケットのポケットから携帯を取り出し、

「警視庁ですか? 総監室につないで! えっ? 私は水無月葵よ。そう言えばわかるわ」

 彼女はいつになく腹が立っていた。誰にでもなく、自分自身に。

( こんなヘマ、初めてだわ。ファラが無事だったから良かったけど……)


 しばらくして警察が来た。その中にシャーロットの姿もあった。もちろん、葵が呼んだのだ。

「大変なことになっているわね」

 窓ガラスの破片を眺めて、シャーロットは言った。葵は濡れた髪を触りながら、

「全くよ。殺し屋共、さっさと連行してね」

 その時、鑑識課員の一人がシャーロットに近づき、耳打ちした。シャーロットは鑑識課員に頷いてから葵を見た。

「何?」

 シャーロットの妙に嬉しそうな顔に、嫌な予感がしたため、葵の声には棘があった。

「葵、とうとうやっちゃったのね」

「えっ? どういうこと?」

 シャーロットの言っている意味が、おとぼけでなく、わからなかった。シャーロットは辺りをはばかるように、

「殺し屋達は三人とも、首の骨を捻られて死んでいたそうよ。浴室の天井裏にも一体、首を捻られた死体が転がっていたんですって」

 小声で言った。葵は仰天した。

「まさか!? 私、誰も殺していないわよ。それは貴女もよくわかっているはずよ」

「もちろん、貴女達が決して人を殺めたりしないのはよくわかってるわよ。でも、状況が状況だけに、貴女の容疑は濃厚よ。ただ、正当防衛は成立するでしょうけどね」

 葵はムッとしてシャーロットを睨んだ。シャーロットは肩を竦めて、刑事の一人に説明を求めた。

「どの殺し屋も、まるで巨人にでも捻られたように首が真後ろを向いてしまっています。恐らくこの連中は全員、自分が死んだと認識する間もなかったでしょう」

 刑事は答えた。それでも葵はムッとしたままだった。シャーロットは刑事に礼を言って立ち去らせ、葵を見た。

「そんな地獄の門番みたいな顔で睨まないでよ。貴女も探偵なら、自分が今すごく微妙な立場にいるってことくらい、わかるでしょ? 取り敢えず、事情聴取は受けてよね」

「わかったわよ」

 葵は部屋の隅ですっかり驚愕して動けなくなっているファラに近づき、

「王女様、申し訳ありません。こんな状況なので、私はシャーロットと警察に行って来ます。もうすぐ私の部下がここに参りますので、その者と一緒に私のマンションへ行ってください。今はあそこが一番安全だと思いますので」

 ファラは震えながら頷き、

「わかりました」

 葵はシャーロットに目配せして、部屋を出た。廊下には人だかりができており、葵は好奇の目に晒された。そこへ美咲と茜が大原と共に現れた。

「所長、一体何があったんですか?」

 美咲が小声で尋ねた。茜はニコニコしているシャーロットを睨みつけてから、葵を見た。大原は身分証を見せて、近くにいた刑事に何かを訊いている。

「詳しく話している時間はないわ。王女を連れて、私のマンションに行ってちょうだい。私も後からすぐ行くから」

 葵は言い残し、シャーロットと共に去って行った。美咲と茜は顔を見合わせた。

「どうやら水無月さん、事情聴取のようだよ。ファラ王女を襲撃した殺し屋が全員、首を捻られて殺されたらしい」

 大原が説明した。美咲と茜はすっかり驚いてしまった。

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