其の弐 【タベル】

 俺は途方に暮れていた。

先月、ついに預金残高が底をついてしまい、電気も水道も随分前から料金不払いで止められた。

それもこれも、細々と描いていたマンガの連載が打ち切りとなり、時々小さな突発的な原稿の依頼があるくらいで、それすらも尽きた。元々、売れない漫画家で、いつも巻末で読み飛ばされるような、自分で言うのもなんだが、面白みのないマンガだ。

「俺には才能がない・・・。」

呟いてみたが、誰も慰めてくれる者はいない。


 以前より、人見知りで友人という友人はおらず、金の借り方すらわからない。というより、金を借りてまで生きて行くなどということは、自分のポリシーに反することだった。

「金は貸すな借りるな」というのが、親の口癖だった。まあ、もっとも今の俺には人に貸す金などない。


 電気の止まった安アパートは、西日が燦々と刺し込み、うだるような暑さだった。無論、電気が止まっているので、エアコンも扇風機でさえ、無用の長物である。団扇で、顔を仰いでみたが、腕を動かすと、体が熱を持ち、余計でも暑い。


 俺は仕方なく、空きっ腹を抱えて、ふらふらと外へ歩いて行き、外の風で涼むことにした。高架橋の下で、しばらくこの夕暮れを過ごせば、夜半にはあの安アパートも少しは冷えることだろう。何も盗られるものもないので、玄関も窓も開け放して、よく風が通るようにして出掛けた。


 何度も実家を頼ろうかとも思った。しかし、俺には実家に帰れない理由がある。両親は離婚しており、父方に引き取られた俺は、新しい継母に酷く苛められて、追い出されるように家を出たのだ。あの家には帰れない。それかと言って、女一人で生きて行くのもままならない母親を頼るわけにも行かず。


 ふらふらと歩いていると、炭火で何かを焼くような良い匂いがしてきた。その匂いに釣られ、歩いて行くと、河川敷には所狭しと屋台が立ち並んでいた。

「そうか。今日は、花火の日だ。」

花火客目当ての屋台がずらりと立ち並び、そこは花火を待つ人で溢れていた。

いつの間にか、闇が深くなり、もう少ししたら、花火が上がりだすのだろう。


 道行く家族連れが、全て幸せそうに、屋台に並び、イカ焼きや焼きとうもろこし、たこ焼きなどを買い求めて、美味そうに頬張っていた。ああ、俺も両親がまだ離婚する前の幼い頃は、ああして両親に手を引かれ、花火を見に行ったっけ。今の自分の情けなさを思うと、涙がこぼれそうになった。


 夢を追ってばかりいないで定職に就こうとも思った。一応連載があったので、かつかつ食えていたのだが、食えないとなると、もう漫画家の道は諦めて働くしかない。そんなことは、もうとっくにわかっていて、ハローワークにも足しげく通ったのだ。しかし、新卒でもない、三十路の男を正社員として雇ってくれるような会社は皆無。あったとしても、非力な俺にはまず無理だと思われる現場仕事であったり、そういう職場でこそ経験者優遇なので、面接もことごとく落ちた。アルバイトをしても、ことごとく失敗を繰り返し、いつも辞めざるを得ない方向に追いやられた。

 

 俺は何のために生まれてきたのだろう。そんな絶望的な思いばかりが押し寄せる。せめて、日、一日食えるだけの糧が欲しい。それが、今の俺の望みだ。金もなく、ただフラフラと人混みを歩き、小銭でも落ちていないだろうかと、下ばかりを向いて歩いていると、ふとある露店が目に留まった。


 そこは、他の店より薄暗く、店先には真っ白な卵が所狭しと並んでいた。店先には、男とも女とも若いとも老いているともわからない店主がこちらを見ている。

「おや、お兄さんは、このお店が見えるのかい?」

その店主は不思議なことを俺に言って来た。

何を言ってるんだ、こいつ。

「どうやら、お兄さんは特別な目を持っていると見受けた。第四の色を見ることができるんだね。」

「第四の色?」

俺はそこで、初めて、その店主に問いかけた。

「そう、第四の色さ。人類の4%は色盲であり、96%は色覚健常者と言われているが、これは間違いなんだよ。

三原色ってあるだろう?この世の色は、赤、青、黄色で成り立っている。しかし、実際には0.7%の人間が、赤でも青でも黄でもない第4の色を見ることができる。つまり、その0.7%の人間の一人がアンタさ。」

店主は得意気にそう説明すると笑った。

「それとこの店が見えることとどう関係あるんだい?」

俺が問うと、店主はにやりと笑った。くすんだ歯茎が丸出しになり、不気味さを増した。

「つまりは、この店は、そんな色で出来ているのさ。かく言うアタシもね。」

腹が減っている時に、与太話につき合わされてイライラしたので、無視して帰ろうとした。

すると、店主は卵を差し出してきた。

「お兄さんは、この卵が白く見えるかもしれないけど、果たしてそうかね?」

「知らねえよ。」

俺は、ついにブチ切れて悪態をついた。

「持ってお行き。」

そう言うと、その卵を一つ、俺に手渡してきた。

「俺、金持ってないよ?」

「御代はいらないよ。夜の卵。願いが叶う卵さ。ただし、タダではないけどね。」

俺の今の願い?それは、日々安定して、食うに困らない生活。

どういう意味かはわからないが、御代が要らないということなので、腹が減った俺は遠慮なくそれをいただいた。 


 結局小銭は見つからず、ただ無駄に歩いても腹が減るので、俺は花火が上がり始めるのを合図に、河川敷を離れ、家路についた。花火では腹が太らない。後ろを振り向きながら、幸せだった日々を思い出し切なくなった。

米は底をついてもう無いし、だいいち米を炊くにも電気がつかない。仕方なく俺は自宅から鍋を持ち出し、川原で水を汲み、適当なゴミと木切れを燃やして卵を茹でて食べた。何も味がついていないが、久しぶりのまともな食事だった。


 初夏のおり、昼間の暑さはさらに過酷だった。暑い。このままこの安アパートに居ては死んでしまう。俺は仕方なく気温が上がる前にスーパーに寄り、野菜売り場に捨ててある、キャベツの外の葉を拾った。今日はこれでやり過ごそう。ビニールいっぱいにキャベツの葉を詰めて持ち帰る。スーパーは長居することができない。フードコートも隣で美味そうに飯を食われると、余計に腹が減る。


 俺は昨日の卵の味を思い出していた。あの卵、美味かったな。黄身が少し黒くて変な色だったが。安アパートは、地獄のように暑くなっており、俺はスーパーで拾ったキャベツをかじって、夕方の分を残して部屋を後にした。このアパートもそろそろ追い出されることだろう。


 少し腹を満たした俺は、今度は病院の待合室で涼を取ることにした。ここなら病人のフリをして、いくらでも長居ができる。これだけ大勢の患者が居るのだから、俺一人、居たくらいでは何とも思われないだろう。それに、この柔らかいソファーは快適だ。少し、ここで居眠りすることにしよう。どうせ、あの灼熱地獄のアパートでは夜もよく眠れないだろうから。


 ソファーに座り、ぼんやりと待合室のテレビを見ていると、今飛ぶ鳥を落とす勢いのお笑い芸人が出ていた。その芸人は、芸人でありながら、作家でもあり二足のわらじで、あの芥川賞を受賞したのだ。羨ましい限りだ。

「実はですね、僕、この漫画家の大ファンなんですよ。」

そう言って、掲げたのは、紛れも無く俺の漫画であった。俺は思わず立ち上がって、身を乗り出した。

「めっちゃシュールで、凄く好きで。でも、最近、この先生、描かれてないみたいで。すごく残念。」

嬉しかった。自分の漫画はつまらないと悲観していたが、見る人が見れば、俺の作品も面白いのか。

俺は久しぶりに、胸が高鳴り、興奮していた。


 病院から帰ると、俺の部屋の前で、以前執筆していた少年誌の担当が待っていた。

「ずっとお待ちしてましたよ、先生。」


 その日から俺の生活はがらりと変わった。あのお笑い芸人が推してくれたおかげで、俺の漫画は連載が復活し、生活は安定してきた。何故か俺の漫画は大ブレイクし、いろんな編集社から原稿の依頼が来た。締め切りに追われる毎日。そんな俺の生活に小さな異変が訪れた。


 その日は、朝から体調が悪く、どうしようもなく吐き気に襲われていた。俺は耐え切れずに、洗面所に駆けて行った。

「おええええええ!」

胃から食道を痛みが走り、俺はそれを吐き出した。

洗面所にからりと音を立てて、それは吐き出された。


「卵?」

俺はわけがわからずに混乱した。

何故胃の中から卵が?

殻は割れて、その中から真っ黒な闇があふれ出してきた。その闇はどんどん洗面台から広がり、ついには足元まで広がり渦を巻いて俺を飲み込んだ。


気付いた時には、自分のベッドの上だった。

夢?だったのか?

洗面所を見たが、どこにも卵の殻らしきものはなかった。


生活は豊かになり、俺は安アパートは引き払い、そこそこ良いマンションに引越すことができた。俺の暮らしは豊かになったが、多忙を極めた。そして、俺の描く漫画は以前の俺の漫画とは程遠いものになった。

「シュール系だけじゃあねえ。皆に飽きられてしまうんですよ。これからは、エンタメですよ、先生。

笑いの中にも、シリアス、バトルがなければみんな飽きてしまう。お笑いだけじゃ、生き残れませんよ。」

良かれと思った原稿は却下され、今の俺は編集社の操り人形のようだった。


こんなのは、俺の漫画じゃない。

そんな疑問を感じるたびに、俺は卵を吐いた。


苦しい。生活は豊かになった。

じゃあ何故、こんなに苦しいのだ。

何故、俺は毎日卵を吐いて闇に飲み込まれる悪夢を見るのだ。


闇に飲み込まれるたびに、俺の視力は衰えていった。

そして、ついに本当の闇が訪れた。

俺は視力を失ったのだ。


もう俺には漫画を書くことはできない。

俺はすっかり世間から忘れられてしまった。

だが、目が見えなくなったことにより、国の庇護の下、皮肉にも日々安定して食うに困らない生活を手に入れた。


一つだけわかったことがある。

視力は失ったが、俺は第四の色だけは認識することが出来るようだ。

その第四の色により、認識できる女と今は幸せに暮らしている。

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