分岐点
手紙が人形になり、人形がマフラになり、マフラが時計になった。十年待って、手紙が時計になるまではあっという間で、リカコはこの結果を考えずにはいられなかった。再びナンブ・オートマタの老婆の言葉が思いだされる。グレゴリなんとか。そう確か最後は置換とかそういった言葉だったはずだとリカコは考えた。
もしかして、とリカコは考えたがその想像は少し怖かった。だが祖母ならありえないことではないと思う。
祖母はこうなることがすべてわかっていたのではないだろうか。だから十年経つまで手紙を開けてはいけないと言ったのではないだろうか。
だけど自分が手紙を開ける日にちまでわかっていたということだろうか。祖母は、「十年後」としか言わなかった。「十年後」はほぼ三百六十五日ある。たまたま今日だったからリカコは公園で老婆に会った。ここであの親子に会った。もしこれが明日であれば、人形はいったいなにに換わっていた?
背中に強い衝撃を受けた。「痛っ!」と声をあげると同時にリカコは倒れ、手に持っていた時計が地面を滑った。
あっという間だった。肩にかけていたバッグが引っ張りとられて自分の現状を悟った。顔をあげるとリカコのバッグを持った男が地面に落ちた腕時計を奪い走り去ろうとしていた。顔は見えない。
「泥棒!」
反射的に叫んでいた。これはいくらなんでもあんまりだった。祖母が十年待つようにといった結末がこれなんて信じたくなかった。もし明日だったらなにかが違った? 約束を破って手紙を読んでいたら、いったいどうなっていた?
なぜか涙がでてきた。周囲がざわつきはじめ、リカコはやっと立ち上がった。今度は膝だけでなく全身が汚れていたので両手で払い、涙をぬぐった。ハンカチを出そうにもバッグも持って行かれているのでなにもない。散々だとリカコはもう一度涙を拭った。「おばあちゃん」とリカコは呟いた。
前に人が立つ気配があってリカコは顔をあげた。長身の男がリカコにハンカチを差し出していた。そして、
「ごめん。バッグは取り返せたんだけど、時計は持って行かれちゃった」
と言って、リカコのバッグを差し出した。
「あ、ありがとうございます……」
男は優しい笑顔をたたえていた。今しがた泥棒に押し倒されたばかりなのに、いまこの瞬間、リカコは目の前のこの男を絵に描いてみたいと思った。そして、その瞳の奥を見つめると何かが心の中で動いた。そしてそれは、確かに相手も感じたようにリカコには思えた。
「いや、気にしないで。怪我はない? えっと、どこかで少し休んだほうがいいんじゃないかな? カフェとか、デパートのベンチとか……。良ければそこまで送るけど。その、嫌じゃなければ」
「だったらええと、その、ああ、そうだ。お礼、させてもらえませんか? コーヒーを一杯ご馳走させてもらえれば嬉しいです。その、嫌じゃなければ」
リカコが男と同じような仕草でそう言って笑うと、男も吹き出すように小さく笑った。今日はじめてユーモアが通じたことにリカコは喜びを感じた。
これだ、とリカコは思った。時計は最後、目の前の男にかわった。祖母はこの結末をわかっていたのに違いない。これはきっと、明日でも明後日でも変わらず、祖母が見た十年後の未来だったに違いない。
「人助けをして悪いことはないみたいだ、なんて言ったら不謹慎かな?」
「あなたが今日一日のわたしの話を聞いたら、わたしのほうが不謹慎だって言うかも」
二人が連れ立ってカフェに入ろうとしたとき、バッグの中で携帯電話が震えた。「ごめんなさい」と言って電話を確認した。画廊からだった。
「もしもし。すみません、いまちょっと忙しくて……」
「忙しい? ああそうかい。だけどおれの話を聞けばお前はすべての用事を放り投げておれのもとに駆けつけるだろうさ!」
店主は興奮していた。
「はい?」
「フランス人だ! フランス人がお前の絵に目をつけたんだ! うちにあるお前の絵をすべて買い取りたいと言っている。さらには留学費用を出すからぜひフランスで勉強してほしいと言ってくれているんだ! やったなリカコ! 売れない絵描き人生とはさよならだぞ。お前はこの国を代表する絵描きになるかもしれないチャンスを掴んだんだ! さぁ今すぐ来い。フランス人のバイヤは来週帰国すると言っている。そのときにお前も一緒に連れて行きたそうだ。大急ぎで準備をしなくちゃならない」
分岐点 咲部眞歩 @sakibemaayu
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