腕時計
そんなことを考えながら街中をぶらぶらした。祖母がなくなってから十年。日常はだい好きだった人の死の悲しみを忘れさせるほどに残酷だ。祖母がいまの自分をみたらどう思うだろう。なんて言うだろう。叱責するだろうか、激励するだろうか。
「いやだ!」
不意に子どもの声がリカコの耳に入ってきた。目をやると四、五歳の女の子がその場で地団太を踏むようにして泣いている。向かいに立っている父親らしき人物は両手に荷物を持って困った顔をしている。
「もう歩けない! 足痛いの! 寒いの!」
「でもね、お母さん待ってるよ? お父さん、荷物たくさん持っているから抱っこできないよ」
「いやだ!」
女の子の泣き声はまさに火が着いたようで、周囲の人々は親子をちらっと見ては通り過ぎて行く。父親は周囲の目が気になるのかしきりに、「静かにしなさい」と娘に言っている。
「頑張って歩かないとお母さんに会えないよ?」
「お母さんに会えなくてもいいもん!」
筋金入りだとリカコは苦笑した。子どもとはこういう生き物だろうか、と考えた。人物、特に子どもを題材に絵を描いたことがなかった。もっぱら風景画が専門でそこにあるものを写実的に写しとるのがリカコの絵だ。同じ場所でも景色によって様相が異なり、それを描くのが好きだった。反面、人物は複雑で、その内面にあるものを読み取ることがリカコには出来なかった。
だけど、とリカコは思った。
出来ないのではなく、やっていなかっただけではないだろうか。もし人を描くことを真剣に考えれば、マフラをくれた老婆が言った優しさに溢れる絵を描くことができるだろうか。
こんな絵を描くことができる孫を育てるとはさすが祖母だ。
と、言ってもらえるだろうか。
リカコは親子に近づき、女の子の肩を叩いた。父親も娘も不審な目でリカコを見る。リカコはしゃがんで女の子に目線を合わせると微笑んでマフラをはずし、女の子の首に巻いてあげた。
「ここで泣いたままだったら、お母さんだけじゃなくて、お友達にも、おばあちゃんにも会えなくなっちゃうよ? おばあちゃんはいる? おばあちゃんは、好き?」
「コズエね、おばあちゃん好きだよ」
「そっか。じゃあ頑張ってお父さんと一緒に歩かないと。おばあちゃんに会えなくなっちゃう。わたしもおばあちゃん大好きなんだ。だから、おばあちゃんに会えるようにちゃんと歩くの。コズエちゃんも歩ける? このマフラ、暖かいでしょう?」
リカコは女の子の目と頬に流れる涙を手でぬぐった。触れる瞬間、女の子が震えるのがわかった。
「大丈夫だよ。お父さんもお母さんも、おばあちゃんもいるよ。さぁ、頑張って歩こう。これでもう、寒くない」
最後にマフラをしばり、ポンと結び目を叩くと女の子は小さな声で、「ありがと」と言った。
「お父さん。コズエ、歩けるよ。もう寒くないからね。偉い? コズエね、おばあちゃんに会いたい。たくさん寝たらおばあちゃんに会える?」
「ああ、偉いよ。お母さんもおばあちゃんもきっとコズエを褒めてくれるよ。さっそく明日、おばあちゃんに会いに行こう」
「うん!」
女の子が父親の足にしがみついたのでリカコは立ち上がった。汚れたわけでもないのに膝を払ったのは、少し恥ずかしかったからかもしれない。
「ありがとうございました。その、マフラですがちゃんとお返ししますので」
「気にしないでください。いただきものなんです、その、数分前に」
リカコは笑って見せたがここでも相手は笑わなかった。
「なにかお礼を……」
「本当にいいんです。この子の笑った顔が見れたのが、最高のお礼です」
リカコは女の子の笑顔を頭に焼き付けた。また道に迷ったときは今日のこのことを思いだそうと決めた。
「では、あのこれを受け取っていただけませんか?」
そういって父親は自分の腕時計をはずした。
「使っていたもので失礼かとは思いますが、価値がないものではありません。持って行くべきところへもっていけば、しっかり買い取ってくれるはずです」
見るからに高級そうな時計だった。今日縁があるものに、裕福な人、をリカコは追加した。
「こんな高級そうなもの、いただけません。本当に、お礼はもういただいています」
「それではわたしの気持ちがおさまりません。わたし一人ではどうすることも出来なかった。あなたはこの子を笑顔にしてくれました。そしてわたしに、父親としてもっと役割を果たさなければならないということを思い起こさせてくれました。どうぞお受け取りください」
父親は上品に頭をさげた。リカコが受け取るまでずっとそうしていそうだったので、しかたなくリカコは受け取った。逆に何度もお礼を言った。
女の子は、「おねえちゃんばいばい」と手を振っていった。老婆からすると“お嬢さん”で、女の子からすると、“おねえちゃん”かと、リカコも手を振りかえした。
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