第2話 異変の兆候

 ハッと浮遊感を感じた次の瞬間には、皆野伴の体は綺麗な形で地面に倒れていた。古くなった道路にできた小さな窪みに足を引っかけたのだ。

しかし伴はこの17年の間、ほぼ毎日のように転んでいる少年だ。どういう態勢を取れば痛くないのか、怪我をしないのかを理解している……それが良いことなのかどうかは難しい所だが。


「とと……!」


 倒れこむ瞬間、伴は学校指定の薄い鞄を地面と体の間に滑り込ませ制服と腕が擦れるのをなんとか防いだ。一部、ズボンの方が土で汚れたが大したことはない。想定の範囲内といえるだろう。

 本当なら窪みに足を引っかけることを避けるのが目的ではあったのだが、また『

先走って』しまったようで、タイミングがずれてしまったようだ。

 通学路ということもあってか他の学生たちの目もあるが、彼がこういう場所で転ぶのはある意味いつものこととなっているためか笑う者、苦笑する者、呆れる者、反応は様々だ。


 皆野伴は特別トロい男ではない。別に普通に歩ていて、いつも転ぶ程バランス感覚に問題を抱えているわけでもないのだが、どうにも間が悪い男ではあった。運が悪いということでもない。

ジャンケンをすればほぼ負けなしの彼だ。小学校の頃は一種のヒーローだった。中学以降は後先考えずに勝ってしまうのでクラス委員だの授業での発表の順番がその列から先になるなどの弊害もあったがとにかくそういう男だ。人の感情にも機敏な姿をみせ、伴に隠しごとをできるものは少ない。

 そういう部分もあってかこのよく転ぶ欠点はむしろ愛嬌として親しまれている。当人としては参ったものなのだが、高校生にもなれば受け入れてしまうのが普通だ。


「また転んでるのか?」


 ズボンの土ほこりを払っていると、後ろから声がかかる。振り向けばそこには親しい顔ぶれが二つ並んでいた。二人は、男女だ。異様な程距離が近いというのは、ようはその二人がそれなりの関係であることを示している。

 声をかけたのは男の方だった。


「ん……まぁ、いつものことだ」

「いやいつもの事なら直そうぜ、そのうち事故にあいそうで俺は不安だよ」


 男は下敷きになったカバンを拾ってやると伴に手渡す。伴も礼を言いながらそれを受け取ると、「わかっちゃいるんだがね」と苦笑して見せた。

 男は、御神翔。伴の幼い頃からの友人である。端正な顔つき、スポーツ万能、成績優秀、絵にかいたようなパーフェクトな男だ。さらに言えばモテる。世の男たちがうらやむ存在だ。伴としては「まぁそういう男だろうな、こいつは」と別に気にもしていないが、純粋に他人から好意を持たれるということにはあこがれもあるが。


 その隣で物静かに二人を眺めているのは宮部玲、中学の頃に翔の隣の家に引っ越してきた少女だ。伴ともその頃からの知り合いである。一言で言えば美少女、それで説明がつく少女だ。ミディアムヘアーといっただろうか、長くもなく短すぎでもない髪型は彼女によく似合っていた。


「まぁわかってはいたけど、二人距離近くない?」


 大体週単位で同じ言葉を言っている自覚のある伴、こういうと翔はともかくとして玲は子供のように慌てふためいて顔を真っ赤にするのだ。


「そ、そうかな! やっぱりそうなの……?」


 今度は子犬のように翔の方へ顔向けてそんなことを聞くのだ。


「近いもなにも、俺たちそういう関係だろ? いいじゃん近くってもさ!」


 そういう部分では大胆というかおおらかというか翔はむしろ玲の肩を抱いて引き寄せる。そうすると玲はリンゴのように真っ赤になるのだ。かれこれ付き合いだして数か月といった具合だが、この二人のやり取りはいつ見ても飽きない。正直に言うと伴はこういう青春的な絵が大好きである。


「まぁその位にしよう。二人は……二人きりの方がいい?」

「いいじゃないか、どうせ同じ場所に行くんだからよ。それにキューピッド様には俺たちを見守ってもらわないとな」


 そんな翔の言葉に玲はアワアワと一人で慌てふためいているが、対する翔はニシシとまるで漫画のキャラクターのように屈託のない笑みを浮かべ、もう片方の腕で伴の肩を抱き、玲と同じように寄せる。


「俺はそういうのは、はたから見る方が好きなんだけどな」


 半ば引きずられるような形でバカップル二人の青春を鑑賞することになるのだが、これも一つの朝の風景だった。伴は少なくともあと三年はこれを見るのだろうなと思うと、なぜだか笑えてくるのだ。


「フッフフフ……」

「どうした? 頭打ったか?」

「いや……そのうち俺も肩に抱ける子を見つけないとなと思ってね」


 そういう親友の言葉に翔は一瞬、きょとんとするが次の瞬間には愉快そうに笑い、伴の肩を叩いた。


「ハハハ! そうだな、三人より四人だな! あぁ、いや五人の方がバランスはいいのか?」

「あぁ、日曜のあれ、次は八人らしい」

「え!」


 衝撃の言葉をあげたのは玲の方だった。そんな風に騒がしい朝の登校はすぎていくのだ。

 伴の感じたように、暫くはこんな騒がしい学校生活を送るのだと、彼もまた疑うことはなかった。

 学校について、授業を受けて、友人たちとそれとなく談笑しながら、昼食の弁当をつつく。何でもない、そういう普通の生活が確かに流れていたのだ。


 だが、不調を感じたのは昼食後、五限目に当たる体育の時間だった。伴としては昼食後に体育というこの学校のカリキュラムに少々文句を言いたい所もあるのだが、それとは別に、めまいを感じたのだ。倒れるというほどでもなかったし、少なくとも弁当のおかずが腐っていたということもない。それらなら腹にきているからだ。


 とはいえフラフラとめまいがするのは事実である。季節は春だ、夏の日差しが強くて……なんて言い訳ができるわけでもないが、季節の変わり目には風邪を引くなどと死んだ祖母から教わっていた伴はなる程そういうことかと妙に納得して、体育の時間は休ませてもらうことにした。

 保健室に向かう傍ら、めまいが大きくなるような感覚にさいなまれたが、なんとか転げることなく保健室についた伴は保険医のその旨を伝えるとベッドへと案内された。


「下手に風邪薬とかやれんから、取り敢えず休んでおきなさい。水分も」


 初老の女性の保険医はいかにもベテランっといった風貌だった。

しかし伴は名前を知らない。「保健室の先生」という認識でも別に何も問題はないのだが、ふと伴は「この人の名前は何だろうな?」と疑問に思った。

 不思議な事だが、次の瞬間、伴は「ありがとうございます、池谷先生」と意識したわけではないが保険医の名前を呼んでいた。保険医は「何かあれば呼んでちょうだい、時々部屋からでることもあるけど基本的にはここにいるから」と名前の訂正はしないままカーテンをしめてくれた。どうやら名前は当たっていたらしい。


「……?」


 伴は、あの保険医の名前をなぜ知っていたのかそんなことを疑問に思いながら、めまいによる疲労かすぐに眠りについていた。




***




 伴は夢を見ている。はっきりと認識できているわけはないが、この心地よい浮遊感というか、なんとも言えない気分はそうなんだろうと無意識に感じていた。その瞬間だけは、伴はめまいのことも、それこそ外界の友人や学校のことも意識にはなかった。心地よい眠りの奥にいる感覚だけが伴を包んでいた。


 だが、そんな浮遊感が消え、伴の周囲が暗く闇に閉ざされる。しかし不思議と伴は冷静だった。意識をしているかどうかは本人にもわからないが。


 闇、いやよく見るとそれは闇ではない。どこだ。周囲を見渡す、そんな風に行動したつもりの伴は、暗闇の中に無数の明かりが見えることを認識する。それは星だ。夜空を見上げればそこにある星々の輝きだ。

だが、そんな輝きもすぐに消えていく。それも異常な速さで、彼の周囲から星の明かりが消えていく。

闇に飲まれる。

そう思った瞬間には伴の体は既に飲み込まれていた。その瞬間、場面が、映像が、絵が、伴の頭に流れ込んでくる。

不快感が彼を包み込む。


 何かの星が暗闇に消えていく、崩れ去る星が見える、爆発する星も。

声が聞こえる。なんといっているのかは聞き取れないが悲鳴のような、笑い声のような、耳障りのいい声ではない。

景色が変わる。壊れたテレビのように、目を覆いたくなるような速度で目の前に映る全てが変わっていく。

無数の映像が彼の周囲を流れていく、どことも判別できない何かが過ぎていく、そして消えていく。

塵になり、焼かれながら、粉々に砕けながら、様々なものが壊れていく。鳥? いや魚のようだ、人のような……動物? 頭が獣の人間が……何が何だかさっぱりわからない光景が延々と続く中、伴は視界の端に翔と玲の姿を見た。

二人は一緒だ、手をつないでいる。しかし二人は一緒に、伴とは違う道を歩んでいく。


「二人とも……そっちに行くのか? そうだよな、いつかは別の道に行くよな」


 二人はきっと幸せな家庭を築くに決まっている。じゃあ自分は? 伴はすぐ傍を見渡す。誰かがいた。それが誰なのかはわからない姿がぼやけている。三人いた。自分と一緒に三人はいる。

一緒の道を歩いていた。この三人が誰なのかわからない、だが伴は……不思議と怖くはなかった。


 四人で当てもない道を進んでいた……そして、気が付いた時にはベッドから転げ落ちて、目が覚めた所で、伴の意識は覚醒した。

 保険医が驚いたようにカーテンを開け、駆け寄ってきた。


「大丈夫?」

「え……えぇ、まぁ……すいません」


 尻を打ったようでちょっと痛みを感じたが、そのおかげで目はばっちりと覚めたようだった。めまいも消えていた。


「顔色は良くなったようだけど……もう少し休んでいきなさい。六限目、ないんでしょ?」

「あーいや、大丈夫です。なんだか気分もすっきりしましたし、帰ります。ありがとうございました」

「そう? まぁ無茶はしないように、今日はまっすぐ家に帰りなさいよ」

「そうします」


 保険医に何度目かの礼を述べると伴はそくさと教室に戻った。ホームルームは終わったようで教室に近づくにつれてクラスメイトたちの顔がちらほらと見える。みんな五限目で終わる今日が嬉しいのだ。


「皆野! さぼりか!」

「違うよ、本当にめまいがした」

「こんなに日に風邪は同情するぜ?」


 体育会系のクラスメイトだ。悪い奴ではないが声がうるさい。彼はガハハというような感じで笑いながら部活仲間と一緒に伴の背中を軽くたたいて「じゃあな」と言いながら俊足で廊下を走っていった。

 何人かのクラスメイトも同様に伴の体調を心配したり、からかったりしながら帰路についていった。伴が教室に到着すると、そこには翔と玲がいた。どうやら待っていたようだった。


「なんだ、二人ともいたのか」

「なんだはないっての。体もういいのか?」

「ん……快調だな。不思議と」


 伴は返事をしながら自分の机にかけてある鞄を持って、再び二人に顔を向けた。


「玲もごめんな」

「いいの、私も心配だったし。風邪?」

「わからん。まぁもう気分もいいし、疲れじゃないかな。高校生活のストレスって奴かもしれんね」


 玲に冗談っぽく答えてやると、翔が額をつついてくる。


「そんなストレスかかるほど高校生してねーだろお前!」

「カップルのイチャイチャを目の前で見ている」

「そりゃすまん!」


 珍妙な掛け合いだった。玲はまた顔を赤くしている。


「ま、もう大丈夫だろ。熱もなかったし、せっかくの五限終わりだし……といっても二人はデートあるだろ?」

「まぁな!」

「ちょっと……!」


 素直すぎるのもどうかなとは思うがこれが翔という男なのだろうなと思うと伴は不思議と安心するのだ。流石に玲はぷりぷりと怒っているようだが。


「フフフ! なんとなくだけど、二人、幸せになると思うよ」


 あんな夢をみたせいか、別に言おうと思って言ったわけじゃないが、自然と伴はそんな言葉を口にしていた。翔も玲も一瞬だけ、何を言っているんだみたいな表情を見せるがその後の反応は相かわらずのものだった。玲はあわあわと慌てては照れている。


「お前、おっさんみたいなこというなよ、本当に大丈夫か? やっぱ今朝頭打ったんじゃねーだろうな?」

「かもな。まぁいいじゃないか、そういう風に似合いの二人って意味だよ」

「そんなこと言われなくてもわかってるっつーの!」


 今朝も、今も、同じような事で笑いあえている。きっと明日の朝も、その次の日も……その瞬間であった。伴は電流が走ったように頭に鋭い痛みを感じる。


「うっぐ……!?」

「伴!」

「伴君!」


 翔と玲が駆け寄るが、伴は痛みに顔をゆがませていた。そして彼は別の光景を見ていた。それは学校の床でも親友二人の顔でもない、別のどこか、しかし見慣れた街並みであった。

 その街並みの空、いや空だけじゃない、都市部のいたる所の空間が歪む。そして……


「なんだ……あれ?」


 それに気が付いたのは翔だった。苦悶を浮かべ、うずくまる伴と窓の外を交互に見ながら、翔はその光景を目の当たりにした。船だった。三隻の巨大な鉄の船が自分たちの街の上に出現していた。


「あ、ぐ……に、逃げろ!」


 伴が叫んだ。翔も玲も伴が何を言っているのかわからなかった。それでも伴は叫んだ。


「撃ってくるぞ!」


 その叫び声とともに鉄の船の先端からは無数の光が都市部に向かって照射され、刹那、轟音が彼らの下へと響いた。

 伴は目をカッと開いてもう一度叫んだ。


「敵が……来た!」

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