農協おくりびと (108)チクチクと痛む胸

 「すみません俺の不注意で、想定外の大騒ぎになっちまって・・・」


 申し訳ありませんと、山崎がうなだれる。


 「謝ることはありません。賑やかでかえって気持ちがまぎれます」


 「祐三さんだけじゃありません。みんな、心配しているんです。

 ちひろさん、相当落ち込んでいるだろうから、みんなで行って励まそうって。

 でも俺、知りませんでした。

 ちひろさんと光悦さんが、昔からのいいなずけだったなんて」


 「いいなずけとして決まっていたわけじゃないの。

 ただいつのまにか、いいなずけみたいな間柄になっていたのよ。

 大きくなったらいつか私は、光悦のお嫁さんになっているんだろうなって、

 小さなころから、そんな風に思い込んでいました」

 

 (それが壊れたの。別に、あんたのせいという訳じゃないけれど・・・)

ちひろが、次に言うべき言葉をそっと呑み込む。

食事処が並ぶ一帯を過ぎると、また周囲が暗くなってきた。

明るさを期待していたが2人の足元を照らすのは、淡い灯篭だけになってきた。


 前方に鞍馬に向かう赤い橋が、浮かびあがってきた。

だが、橋の先端は暗い山道になっている。

2時間も歩けば牛若丸ゆかりの鞍馬寺に到着するが、足元には危険がある。

大の男が2の足を踏むような闇が、橋の向こうに横たわっている。


 最低限のライトアップが、色ずいた紅葉を浮きあがらせる。

暗さにおびえたちひろが、そっと山崎の背中へ寄り添っていく。

着かず離れず一定の距離を保っていた2人が、一瞬にして重なり合う形にかわる。


 「水の神様を祀っている貴船神社は、心願成就のパワースポットだそうです」


 「あら?、縁結びの神様じゃないの?。困ったわねぇ・・・」

 

 「安心してください。「家庭」と「縁」にも、深い関係をもつ神社です。

 源義経や和泉式部などの歴史上の人物も、貴船神社に詣でることで、

 見事に願いを叶えたそうです」


 「義経は、源義朝の九男。 幼名は牛若丸。

 稚児の頃は遮那王と名乗り、元服して源義経を名乗ります。

 鞍馬を出た後は、奥州で藤原氏のもとに身を寄せる。

 源氏の旗揚げをした兄の源頼朝とともに、 一ノ谷の合戦や屋島の合戦、

 壇ノ浦の合戦と平家に連勝します。

 義経は、平家を滅亡へ追い詰めていった立役者。

 でもその後、兄の源頼朝と不和となり、奥州平泉で非業の最期を遂げる。

 あら、やっぱり最後は悲惨になるじゃないの!」


 「和泉式部の場合はどうですか。夫とよりを戻したというエピソードがありますが」


 「そうね。

 夫とうまくいかなくなった式部は、貴舟神社の境内で物思いに沈みます。

 そのとき。沢を飛ぶ蛍が、我が身から抜け出した魂のように見える、

 という意味の和歌を呼んでいます。

 式部は、恋のおおい女。

 橘道貞と結婚するが別れ、弾正宮為尊(ためたか)親王と、関係をもつ。

 為尊親王も若くして夭折する。 その後、敦道親王と恋に落ちる。

 敦道親王も若くして夭折してしまう。 数年後、藤原保昌と再婚します。

 恋多い女にも、貴舟の水の神様は、心優しく慈悲深いのですねぇ・・・

 わたしの壊れたこころも、水の神様が直してくれるかしら」


 「壊れてしまったこころの修復ですか、さぁ・・・どうでしょう。

 いいなずけの光悦さんに終息宣言をしたことで、やっぱり壊れてしまったのですか、

 ちひろさんのこころは・・・」


 山崎の問いかけに、何故か素直に「はい」と答えることが出来ないちひろがいる。

今ごろになって、チクチクと胸が痛んできたからだ。

光悦と積み上げてきた掛け替えのない30年の歴史を、たったひとことの終息宣言で、

霧のように消してしまおうとした自分が居るからだ。

空しいなぁ・・・

そんな想いがいまごろになってから、胸の奥から強くこみあげてきた。


(109)へつづく

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