農協おくりびと (104) 待ち人、来たる
それからの30分。ちひろの胸は、落ち着かない。
何度深呼吸してみても、騒ぐ胸の高鳴りはいっこうに落ち着く様子をみせない。
(どうしちゃったんだろう、あたしったら・・・)
時計の針のすすみが、妙に遅い。
長針がまるで、ピタリと止まっているように見えてくる。
我慢しきれなくなったちひろが、旅館の丹前を羽織って、廊下へ飛び出す。
途中で靴下を履いていないことに気が付いて、あわてて部屋へ引き返す。
ちひろは炬燵へ入るとき。いつも決まって靴下を脱ぐ。
べつに深い意味はない。素足の方が、早く温まるような気がするからだ。
ただそれだけのことだ。
ふたたび部屋を飛び出したとき。時計の針が、6時10分を指していた。
旅館の下駄に、靴下の足を乱暴に突っ込む。
すこし歩きにくいが、かまわず表に駆け出して、崖下の駐車場へ急ぐ。
表はすでに、真っ暗だ。
ライトアップされている石段を1段づつ飛ばして、ちひろが
旅館の下の駐車スペースへ駆け下りていく。
駐車場に停まっている車は、4台。
ナンバーは『京都』『京都』『大阪』『奈良』。すべて近郊のナンバーだ。
まだ群馬ナンバーは、到着していない。
ほっと安心したちひろが、次の瞬間、外気の寒さに思わず首筋をすくめる。
貴船は年間を通して市街地より、4℃から5℃ほど気温が低い。
真夏でも涼しいことで有名だ。
紅葉の時期になると、あっという間に昼間の空気が冷え込んでいく。
昼と夜の急激な温度差が、鞍馬の山に、色とりどりの紅葉を作りあげる。
(しまった・・・)首筋を守るものを忘れたと思ったが、あとの祭りだ。
落胆は、さらに首筋の寒さをつのらせる。
丹前を耳まで引き上げたちひろが、青白い外灯の下へ身体を寄せていく。
明るい下のほうがすこしでも、暖かいような気がしたからだ。
前方に、ヘッドライトがやってきた。
見覚えのない、青い光だ。
ヘッドライトの中に、青色LEDを配列するとライトの光が青くなる。
本来は違法なのだが、最近は、青や紫系のヘッドライトがなぜか増えている。
LEDの配線を切っておけば、車検の時も通過する。
そのため、目立つことが大好きな若者たちのあいだで、青い光が流行している。
車種も違う気がする。
山崎の乗っている車は、ハイブリッドの低い車体だ。
近寄ってきた車体は、見るからにずんぐりしている。
ワンボックスか、小型のトラックの様な黒いかたまりをしている。
しかし。駐車場の手前でがくんと速度が落ちた。
車速を落とした黒いかたまりが、ゆるゆると、ちひろのいる駐車場へ入って来る。
(光のせいでナンバーが読めません。でもたぶん、別の予約のお客さんだと思います・・・)
ちひろが反射的に、柱の陰に身体を寄せていく。
さきほどまで見つめていた青いヘッドライトから、目を逸らす。
結果的に駐車場へ入って来た車へ、背中を向けた形になる。
ちひろの背後に停車した車から、ゆっくり、ドアの開く音が聞こえてきた。
人が歩く足音が聞こえてくる。
ひとりではなさそうだ。がやがやした声と、いくつもの足音が背後で同時に起きる。
まるでどこかの団体か、グループ客が到着したような雰囲気だ。
そのうちのひとりが、ちひろの背後に近づいて来た。
パタパタと近づいてきた足音が、ちひろの背後でピタリと止まる。
「何してんの、あんた。
馬っ鹿じゃないの。こんな寒空の下で、まったくの無防備のままじゃないの。
マフラもしないで、風邪でも引いたらどうすんの!。
しっかりしてよ、まったくもう。世話が焼けるったらありゃしない。
小娘じゃあるまいし。
もっと自分の身体を大事にしたら、どうなのさ!」
ふわりとちひろの首へ、背後から、暖かそうなマフラーが舞い降りてきた。
(105)へつづく
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