第6話 PHILEOO ①

 ヴン……と音がして、タイマーでテレビが点く。

 聞き慣れたキャスターの声に鼓膜を揺らされて、アイマはゆっくりと瞼を持ち上げた。

「……そっか、ソファで寝ちゃったんだっけ……」

 横になっていた身を起こすと上半身で伸びをする。身体のどこかでパキッとかポキッとか小さな音が鳴った。

 右を向くと、硝子の向こうでたくさんの建物も、薄い雲が千切れて漂う空も、みんな同じように夕暮れに染まっていた。瞳に染み込むような朱色……対照的にビルの裏側は黒い影を濃くしていく。この光景はいつ見ても寂しくて、どこか怖くて、だけど美しいと感じた。


「あ、起きたんですね」

 ぼーっと外を見つめていたアイマの耳に聞き慣れない声が触れる。テレビのニュース番組からではない。振り向いた先に立つホワイトタキシードの少年……いや、子供ではないらしいが……を見て、彼女はこれからの日々が面倒臭いものになったことを思い出した。

「ずっとそうしていたの? カリス、だったわね」

 食卓の椅子に腰かけている少年に社交辞令程度の会話を投げた。良く見れば彼の手にはグラスが握られており、黄色い液体が揺れている。

「いえ、アイマさんが寝ている間に少し街を見物してきました。ちょっと前に戻ってきて、久し振りに人間体になってオレンジジュースを頂いていたところです。美味しいですね。でも急にテレビが点いたのでびっくりしました。毎日この時間にニュースを見ているんですか?」

 ちょっと話しかけたら数倍になって返ってきたのでアイマは額を押さえた。

(メンドクサイ……)

 彼女はソファから立ち上がると廊下へと向かう。

「シャワー浴びる。ここから追い出されたくなかったら覗かないこと」

 背後の壁の向こうへ吸い込まれる彼女を、カリスはきょとんとした顔で見送った。

「――趣味でもね」

 遠くから付け足しの台詞が届いてきて、彼は顔をしかめるとオレンジジュースを傾けた。



 20分ほど経ち、床を叩く水の音が完全に止まる。

 窓の外は宵に落ちつつあり、電気を付けていないリビングは薄暗さに満たされ始める。それにテレビの淡い光が懸命に抵抗しているのをカリスは静かに見つめていた。

「あら、もう暗くなってるじゃない。電気くらい点けなさいよ」

 廊下から戻ってきた声に振り向いた少年は、すぐ食卓の上のグラスに眼を戻した。心臓がドキドキと脈打っている。自分がいま人間体であることを改めて実感する。

 パチッとスイッチを鳴らして電気を瞬かせたアイマは、すぐ横の引き戸を開けて隣の部屋に滑り込んでいった。戸が音を立てて閉じる。

 カリスの網膜には、バスタオル一枚で背後を通ったアイマの姿がしっかりと焼き付いていた。心臓がなかなか落ち着かないので天使体に戻ろうと思ったが、ハッとして立ち上がると窓へ向かい、左右の厚手のカーテンを引き合わせた。そして改めて“聖化”する。途端に人間の眼からは見えなくなるため、もし外のビルなどから見られていた場合を考えての気配りだった。

 天使体になって脈動がなくなり、身体も軽くなる。アイマが何をしているのか少し気になったが、隣の部屋は許可がない限り入らない方が良さそうな気がしたのでそのまま待つ。


 しばらくして出てきた彼女の服装はピンクのワイシャツと紫のロングスカートに変わっていた。ドライヤーの音がしなかったのに髪がさらさらと揺れているところを見ると、部屋の中で一瞬だけ天使体になったのだろう。だがまた人間体で、しかも出掛けようとしているように見える。肩からバッグを提げているし見れば口紅もしっかりさしている。

「あの……何処へ行くんですか?」

「仕事。あんたも来る?」

 彼を見ながら艶っぽい笑みを浮かべると電気のスイッチに手を伸ばす。明かりが消える寸前、それを押し込む彼女の指先にマニキュアの潤いが垣間見えた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る