第5話 ギフト ④
「……は?」アイマの唇にあてたグラスが傾きを止める。ジュースの黄色い水面がゆらりと揺れた。
「ですから、百歳近いんです。子供じゃありません」
グラスごと右手が下がる。アイマの朱の混じる綺麗な瞳が、カリスのてっぺんからつま先までを舐めるように往復した。二度、三度。
「……って、なによそれ、天界ジョーク? 最近身内に会ってなかったからそういうの流行っていても分からないのよね。上手く突っ込めないわよ」
「冗談は嫌いじゃないですけれど今のは本当です」
「そんなわけないでしょ。生臨から20年で大人になって、そこからは変わらない。あたし達の霊的な法則でしょ、世代で違ったりしないはずよ!?」
彼女は思わず強めの口調で否定する。眼前の天使はどう見てもまだ少年だ。
すると、カリスは急に沈み込むように俯いた。
「ボクは……霊力が極端に少ないんです。生まれたときは普通の十分の一以下でした。それが成長にも影響して、皆の十倍くらい時間がかかるって……」
アイマはグラスを食卓に置いた。驚きが胸の中に渦巻いている。
「で、でも、少しずつ霊力も成長してきました! たぶんあと三、四十年くらいで大人の身体になってくれると思うんです!」
彼女の動揺に気付いたのか、カリスは慌てて顔を上げると満面の笑みで拳を握って見せた。
(似てる……)アイマは胸中でつぶやく。(でも……)
「そうなの……悪かったわ。それじゃ下界スレしてても変じゃないわね」
彼に背を向けてリビングを歩くと、オーディオの前に屈みこんだ。
「あの、それでアイマさん、さっきの質問ですけれど」
「ん……」
「その、どうして人間体で生活しているんですか? メリットなんてあまりないと思うんですけれど」
スピーカーから曲が流れ始める。讃美歌やクラシックなどではなくごく普通の現代ミュージックだ。
「……天界が嫌いだから。人間は好きじゃないけどね、天界はもっと嫌い。ちなみにあたしが世界で一番嫌いなのは神よ」
「それは嘘ですよ」
予想外の、しかも素早いリアクションに、「は?」とアイマは目を丸くする。
「なんであんたがあたしの好き嫌いを嘘呼ばわりするの? 今日会ったばかりであたしの何が解かるって言うのよ?」
明らかに気分を害した様子の彼女を見てカリスは狼狽を浮かべた。
「その……なんとなく思ったので、すみません」
「そういうの軽はずみに口にしないことね。あんただって自分の感情を他人に否定されたくないでしょ」
軽蔑の滲むその声色に、彼はもう一度謝った。
しばらく会話が途切れ、気まずさに困ったカリスはリビングの奥へ進む。
テーブルをふわりと飛び越え、窓を透り抜けてバルコニーに出た。
足元には平べったいサンダル。隅には植木鉢があり、花は付いていないが瑞々しい緑の葉が大きく垂れていた。エアコンの室外機は動いていない。その上に黄色いじょうろがちょこんと置いてある。カリスは少しだけ口元を綻ばせると、眼差しを外界へと向けた。
南を臨む景色。
視界の中に高い建物は幾らでもあり、見通しは空からの眺めに比べるべくもない。
今は自身が包まれている所為か空気の濁りはかえって目立たず、代わりにビルの汚れなどがよく判った。
眼下を行き交う人々も一人一人の姿が判別できる。眼を凝らせばさらに良く視ることが可能だが、今は漠然とした風景を感じたかった。普段、アイマが人間体で眺めている光景だ。
この前まで居た街とはあまりにも違う。
暮らしている人々もまた、まるで違うのだろうか?
彼の脳裡にかつての眺めが甦る。
煉瓦造りの家、煙突、柔らかな模様の石畳、並木に導かれる大きな道路……
街を縫う河、アーチを描く橋、渡し舟、教会や古いお城……
そこで暮らす人々は、朗らかで、開けっ広げで、そしてよく笑った。
今日の空から見たこの土地には、あの街のような風景は簡単に見つけられなかった。きっと環境が違えば人の心もそうだろう、良いことも、悪いことも。あの街にはなかった何かがあるいは此処にはあるのかもしれない。
それとは逆に、きっと何処に行っても変わらないものだってある。これからそういうものを見つけたいと、カリスは思った。
どれくらいの時間ぼんやりと眺めていただろう。人間のように時計の針に追われて生きているわけではないけれど、太陽の傾きはいつだって心に話しかけてくる。西に寄りかかっていく光に気付いてカリスは部屋の中へ戻った。
アイマは人間の姿のままいつの間にか眠りに落ちていた。ソファの上で横になり、長い睫毛を伏せて穏やかに寝息を立てている。肩から腰にかけてのしなやかな曲線が美しかった。
オレンジジュースはまだ半分ほど残ったまま硝子のテーブルに佇んでいる。もう水滴も乾いてしまったようだ。
ちょうど最後の曲を歌い終えたCDがシュルッと音を立てて停止した。
部屋の中を静寂が満たしていく……。
何となく起こしては悪い気がして、彼は少しだけ街を見物しに行くことにした。まずはこのマンションから。
床を透り抜けようとしたが、「覗き趣味でもあるの?」という彼女の意地悪な笑みが脳裏を過ぎって、玄関を出てから廊下に沈み込んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます