第3話 ギフト ②
一棟のマンションの屋上。
白魚のような指のあいだに細長い煙草を挟み、ふくよかな紅の唇から煙を吹き流しながら、手すりに腕をあずけて佇む一人の女性がいた。
白のワイシャツとブルージーンズ。色気のない軽装がかえって彼女の非の打ちどころのないプロポーションを辿らせる。
四月も下旬とは言え、高層マンションの屋上。しかし彼女は都会にしてはよく晴れた今日の陽ざしで差し引きゼロだと言うように、シャツの胸元を広めに開けて肌に風を受け入れていた。
ここに立って街を眺めるのを彼女は好んでいた。鉄柵の更に外側を囲う高いフェンスが少し邪魔だけれど、幾つもの菱形に切り取られる景色の中に色々なものを見ていた。
ふと、久し振りに感じた共鳴に誘われて視線を上げる。
「……ふぅ。そろそろ来ると思ったわ……」
心底鬱陶しそうな口振りでつぶやき、柵から体をはがすと左手で前髪をかきあげた。
空からの来訪者は数メートル離れた場所に降り立ち、軽く会釈をする。二人……どちらも男で、タキシードのような白装束に身を包んでいた。
「私の名はアポストロス、神の命を受けて来た」
最初に口を開いたのは背の高い男。白雑じりの黒髪の下は無機質な仮面に包まれていてどんな顔をしているのか判らない。が、名乗り上げた声音は重ねた年月を感じさせた。
「“アポストロス(使徒)”ね……芸のない天使が来たものね」
“天使”。当たり前のようにその言葉を口にした彼女は、ちらりともう一人を一瞥し、再び彼へと眼差しを戻した。
「用件は分かってるわ。最後通告に来たんでしょ?」
アポストロスは表情の読めない仮面の向こうから「そうだ」と返した。
「“
「カミサマもたまには子羊の心配をするのかしら? それとも子供達に贈り物が不足して腹に据えかねてるだけ?」
彼女は冷笑を浮かべながら饒舌に嘲る。
「魂の期限、ようやくと言うところよ。なんなら今すぐ消滅させてくれてもいいんだけどね……」
クスクスと肩を揺する彼女。指先に挟まれた煙草はすでにほとんどが灰になって零れ落ちていた。何も言わない仮面の天使から「ところで」と興味を移して彼女は顎をしゃくる。
「その子はなんなの? 見習いの使いっ走りかしら?」
アポストロスは傍らの少年へと仮面を向け、ぼそりと自己紹介を促す。
今まで静かに彼女を見つめていた彼は、おもむろに一歩踏み出すと右手で自らの胸を押さえた。
漆黒の髪。耳に掛かる程度で、ゆるく波打つ。右側に一輪の青い花を挿している。
身長は彼女より七、八センチ低く、そのため少し見上げるように傾けている顔の中で、大きな瞳は美しい黒と微かに溶ける蒼を湛えていた。
そして彼は見下ろす彼女に屈託なく微笑んだ。
「ボクの名前はカリス……全てへの感謝を意味する言葉です。よろしくお願いします」
涼やかな美しい声だった。そのまま一言付け加える。
「貴女の名前も教えて頂けませんか?」
「名前……その先輩から聞いてないのね……。悪いけど言いたくないわ。どうせもう会うこともないのに教える必要もないでしょ」
彼女がなぜか拒むと、カリスは少し困惑した表情でアポストロスを振り返った。
「教える必要はある。そなたはこれから聖誕祭の終わりまで、この者を預からなくてはならない」
仮面のその言葉に今まで冷ややかだった彼女の目が見開かれる。
「……冗談でしょ! なんであたしがそんな
「この者は使徒ではない。そなたと同じ“贈り手”だ」
「えっ……」
「そしてこれは最初に述べたように“神命”だ。拒むことは出来ない。先天の使命を放棄するのとはわけが違う……神の決めた大いなる道筋なのだ」
声を失った彼女は改めて少年を見る。
天使には珍しい、美しいほどの黒髪。自分とはまた違う個性。あるいはその為に自分と似たような想いをしたことがあるのかもしれない……そんな考えが脳裡を過ぎった。
一つ溜め息をつき、不承不承に口を開く。
「……アイマ。あたしの名よ」
カリスは双眸をふわりと膨らませた。喜びと、そして驚きが混ざり合っているのは容易に見て取れる。
「血を意味する言葉……あたしにおあつらえ向きの忌名よね。この毒々しい髪のせいよ」
アイマは肩口に手を運ぶと一束の髪を前に持ってくる。それはまさに真紅の鮮やかさに染まり、空から突き刺さる陽光を受けてルビーのような輝きを滑らせた。
「ボクは、一目見た瞬間から思っていました……」
その髪を見つめるカリスは、少し緊張した様子で言葉を繋いだ。
「……信じられないくらい綺麗だなって」
彼女が息を呑む。
瞬きを忘れ、少年の澄んだ瞳を凝視する。
心の中に木霊する遠い名前がある。風が吹き、背中で赤い長髪が振り子のように揺れ、時が摂理を失いかける――。
「素敵な名前だとボクは思います。アイマさん」
ハッと我に返った彼女は、カリスから視線を逸らすと下唇を小さく噛んだ。
二人を見守っていたアポストロスが不意にコンクリートを離れ、浮かび始める。
「役は果たした。私は失礼しよう」
「ちょ、待ちなさいよ。この子を預かって、それでどうすればいいの?」
「……それは知らぬ。神の命はただそなたらを共に過ごさせよということだけだ」
それだけ答えて彼はあっという間に青空へと去っていった。アイマは開いた口もそのままに唖然と見送るしかなかった。都会の頭上にぽっかりと浮かぶ雲に、どことなく間抜けさを添えられながら……。
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