3

 休日、ふたりで、温帯多雨林と呼ばれるこの地域特有の森を歩いた。湿った落ち葉のにおいが濃くたちこめ、しっとりとした苔が地面や岩、木々を覆っている。十数キロある背の機材の重みを感じさせず、名緒は機敏にアイラについて回った。倒木が沼のなかで朽ちていくなまめかしさ、だらんと手を広げたように伸びる針葉樹の枝、岩間にびっしりと生えた、繊細なシルクレースのような白いキノコのひだ――……

 湖の打ち捨てられた貯木場でひしめく木材の上を、手をつないで渡る。桟橋にたどりついて振り返り、純白の山嶺が現れる一瞬の晴れ間をじっと待つ。

 アイラの母は早くに亡くなり、アイラとシヴィルは父親に育てられたという。林業やイチゴ栽培の季節労働を繰り返し、あるいは州都や南の都市に出稼ぎに行って、父はふたりを大学に行かせた。生活に行き詰まり、酒でからだを壊す者も多い先住民系のひとびとのなかで、この家族は異色だった。

 シェイクスピアを諳んじ、黒い粘土岩を削ってトーテムを彫り出すのを得意とした父は、とてつもなく頑丈で、柔和なひとだった、とアイラはつぶやいた。

「いつまで旅を?」

 水筒から熱いコーヒーをコップについで、アイラは名緒に渡した。

 三脚から身を起こし、名緒は受け取る。

「あと数年は」

 湯気に目を細める。

「ワイオミングやモンタナの山も歩きたいし、ニューファンドランドやノヴァスコシアの海辺も撮りたい」

 アイラは眉を上げた。

「田舎ばかり」

「北米の大半は――いや、世界のほとんどは田舎だよ」

 水鳥が鳴き交わす声が遠くに聞こえる。

「それはそうだけど」

「都会も楽しい。たくさんひとがいて、いろんな文化に出会える。だけど、わたしが撮りたいのは」

 彼女の瞳を、灰色の雲が横切ってゆく。

「無為の日常、……なにも意図しなくても、垣間見える美、……かくれんぼの鬼になるようなもの」

 首をめぐらせ、名緒はアイラの瞳を見返した。

「風のヴェールをそっとめくり上げて、手探りで見つけ出す秘密。……アイラは唇にほくろがあるね。すごくチャーミング」

 ふわりと口角を上げる。

 アイラは一瞬きょとんとして、それから吹きさらされて白い頬にカッと血を上らせた。

「……っ、ナオ」

「――来た!」

 名緒は突然大声を上げ、三脚に飛びついた。晴れ間がやってきたのだ。



 アイラが、子どものころのお気に入りの場所に案内すると言う。林道をわずかに外れて、シダの繁みを越え、おおきな岩の下をくぐる。雫が滴って、名緒は首をすくめた。

 太い木の根を登るのに、アイラに引っ張り上げてもらうと、勢い余ってよろけた、と思う間もなく、しっかりと抱きとめられる。

「……だいじょうぶ?」

「うん……」

 肩をぽんぽんと叩かれてから、彼は離れる。ここだ、とつぶやく。

 苔むしてねじまがった枝や幹が絡まり合うおおきな古木。

 切り株も苔むして、

「ふかふかだよ」

 アイラは柔らかく笑み、地面に座って切り株によりかかった。

 さああ、と静かに音が立ち、雨が降り出した。

「こっちだ」

 苔に触れていた名緒を手をつかみ、アイラは進むと、巨木の根元、うろに彼女を導いた。おおきく地面がえぐれ、地下室のようにふたりが入れるスペースがある。

「子どものころ、よくここで本を読んだ」

 アイラはバックパックから懐中電灯を取り出し、なかを照らす。

「ムカデはいないみたいだ。座ろう」

 薄暗がりのなかで、ふたりはちいさな穴から空を見上げる。

 名緒は背の機材をおろし、おおきく息をつく。並んで座ると、アイラが薄いブランケットを自分たちにかけた。彼の手がそっと名緒の膝に触れる。

「……ナオは、……恋人はいる?」

「えっ? ううん」

 名緒がアイラを見返すと、アイラは眼鏡の奥から見つめ返してきた。

「……わたしは、ナオの恋人になりたい」

「ごめんなさい、わたしは……」

「無理かな」

「個人的な問題なんだけど、だれかと継続的に関係を続けるのが難しいんだ」

 名緒は自分の膝に置かれたアイラの手に、自分の手を載せた。

「……それは、旅を続けるから?」

「そうだね、それもある。それから、わたしは、関係を持つ人間を限定したくない」

「それでも構わない」

「恋人らしいことはできないよ。あと一週間くらいしたら、村を出ようと思っているんだ」

「一週間……」

「アイラはわたしと寝たい?」

「なにを……」

「それだけなら、叶えられる」

 ぎゅ、とアイラの手を握る。

 彼は眉根を寄せ、目を伏せた。

「……ナオは……ずるい」

「わたしは卑しい人間だよ」

「そんなことはない」

「……わたしは、……」

 名緒はゆっくりとアイラに顔を近づけると、低く囁いた。

「アイラにキスしたい」

 彼ははっとして顔を上げた。目が合う。

 名緒は苦みの滲んだ笑みを浮かべた。

「……アイラ、キスしてもいい?」

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