第22話 その風景が、また日常になる その一

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 話を終えた夏海の眼には涙が浮かんでいた。

 あたしは僅かに残っていたコーヒーのカップに口をつけ、残りを一気に飲み干した。

 シャロは珍しく大人しくあたしの隣で夏海の話を聞いていた。


 知らなかったことが沢山あった。彼女は彼女なりにあたしを想っていたことを、あたしは初めて知った。

 心の奥の、完全に凍りついていた部分が、少しだけ溶けていくような気がした。


 でも、それでもあたしの気持ちは変わらない。

 夏海がいくらあたしのことを心配してくれていたとしても、あたしが受けた屈辱が晴れるわけじゃない。

 踏みにじられた心が癒されるわけじゃない。

 もしあの時、夏海があいつらの中に割って入ってくれれば、あたしはあそこまで酷い目には遭わなかった。

 夏海はあたしを見捨てた。

 その事実に違いはない。

 これが、神様があたしに与えた役割だと、思わなければどうにかなりそうだった。

 自分を守るために、あたしは自分を騙し続けた。ホントはとっくに気付いてた。でも、それを認めないように、あたしは必死に心を欺き続けた。

 そんな地獄のような日々は、いくら謝られたところで消えはしない。

 心の傷は、生涯癒えやしないだろう。


「それで、あんたはあたしにどうしてほしいの?」


 あたしは俯き加減の夏海を睨みながら言う。


「……戻りたい……」


 消え入りそうな声で夏海は言う。


「聞こえないよ」


 苛立って、思わずあたしはきつい口調でそう言った。

 すると、夏海は顔を上げた。

 目は赤かったけど、そこにもう涙はなかった。


「戻りたい! わたしは日真理と、あの時のような、友達に戻りたい!」


 彼女ははっきりとした口調で、店中に響き渡るほどの声で言った。

 店の客が、何事かとこちらの様子を伺っている。シャロも緊張の面持ちで夏海の動向を見つめいてる。


 夏海はあたしだけを見つめていた。

 その瞳はあたしを掴んで放さなかった。

 その言葉はあたしの心に直に響き渡った。

 まるでハンマーに殴られたかの様な衝撃にあたしは襲われた。

 真っ直ぐすぎる夏海の気持ちは、あたしの気持ちを容易く揺さぶった。

 そしていつしか、あたしは分からなくなっていた。

 夏海をどうしたいと思っていたのか、もう思い出せなくなっていたんだ。


 あたしは無造作に鞄を開け財布を取り出すと、千円札を一枚抜き、それをテーブルに乱暴に叩きつけた。


「日真理?」


 シャロが顔全体で疑問を表す。あたしはそんな彼女の白い手を掴み、シャロの身体を引っ張った。

 あたしは、どうしたら良いか分からず、夏海の元から去ろうとしていた。


「日真理!」


 後ろで、彼女の声が響く。

 あたしはそれには構わず、その場から走り去ろうとする。


「逃げちゃ駄目ぇ!」


 シャロがその細い腕で、あたしの逃走を全力で阻止しようとしていた。

 でも止まらない。シャロの非力な腕ではあたしは止められない。


「日真理は吉岡夏海と向き合うために話を聞いたんじゃないの? 今逃げたら今までと何も変わらないよ!」


 シャロは尚もあたしにそう言った。

 ここで逃げたところで何の解決にもならないのはあたしにもよくわかっていた。

 それでも、今の混乱したあたしの頭では、何らまともな結論は出せそうになかった。

 だからあたしは逃げるんだ。

 結果はもう他人任せ。どうなろうともう構わない。どうせ今のあたしには、守りたいものなど何もないのだから。


 あたしは、右手をシャロに引っ張られながらも、前を向いたままこう言った。


「あたしと仲直りするためだったら、何でもできる?」


 一瞬の間。でもすぐに夏海は言った。


「何をすればいいの?」

「あんたの、吉岡夏海の役割を捨てなさい」

「わたしの、役割?」


 夏海は怪訝な様子で尋ねる。


「そう。あんたの学校での存在意義は、みんなのお友達でしょ? それを捨てる覚悟があるのかってこと」


 クラスの友人を裏切れば、彼女自身が標的になる可能性がある。

 そんなリスクを冒してまで、自分の役割を捨てろと、あたしは言った。

 無茶苦茶なことだ。あたし一人のために、そこまでできる人間なんている訳がない。

 いくら夏海があたしと友達に戻ることを望んでも、絶対にできるわけがないんだ。

 役割を捨てるなんて、これほど愚かなことはないのだから。


「みんなを裏切る……。それをすれば、日真理は、わたしを許してくれるの?」

「さあね。それは状況次第かな。でも、どっちにしろ無理だと思う。夏海にそんなこと、できるわけないから」


 そう言って、あたしは再びシャロの手を引く。今度は何の抵抗もなく、シャロはあたしについて来る。


 すると、夏海が遠ざかるあたしの背中に向かって言った。


「おつり、明日返すから」


 あたしはそれには答えず、足早にファミレスを飛び出し、この秋葉原から逃亡した。

 電車に揺られながら、遠ざかるオタクな街並みを、あたしは目を細め、いつまでも見つめていた。

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