第21話 “心友よ”
不安定なリズムを刻む足音と電子音声だけが響いてくる。
その場にいる全員が、
ともに限界は近いのだろう。互いの表情がスイッチするように苦悶に揺らいでいる。
途中まではキャイキャイ黄色い声を上げていた女子達も、自分たちの上げている声が二人を辛うじて支えている最後の一線を切ってしまうかもれしれないと気づき、もはや口を閉じ応援する方の勝利を祈るのみだ。がさつな男子は男子で、声こそ出さないものの身振り手振りで、中には応援団じみた腕の振り方で応援している奴もいる。
どっちだ。どっち。どっちなの。どちらが。
「負けねぇ、俺は、絶対……っ」
観衆の耳が基のその声を受け取った時、状況が動いた。
先程からいつ倒れるのかヒヤヒヤしていた神林の身体があわやと傾き、基の進路を妨害したのだ。
故意ではないとはいえ、神林本人もしまったと思ったのだろう。このわずかな体力を振り絞っている状況で、身をひねったり、リズムを狂わされたりした瞬間、限界はいとも簡単に訪れてしまう。
間一髪で基は神林を避けるも、その時誰もが、これでおしまいだと感じたはずである。
事実、5組の中には両目を
これで勝負は決した。
――かに見えた。
白峰の言葉を借りるなら、まさに「何かに解放された」ように基は、うつむいていた面を上げて、あろうことかギアを一段上げた。
どよめきが走る。
限界は見て取れていた。その上で、何故、そうまでして走るのか。一同に疑念がよぎり、そして思い返す。今しがた聞いたばかりではないかと。
負けたくないから。
その意地だけで、そこまで頑張るのか。そんな意地をかけるだけ必死に、自分は生きているか。次第に
このまま勝利するかに思えた神林が倒れた。
倒れ伏したまま
皆がショックに動揺している間に、いち早く動いたのは最も近い場所にいた、他ならぬ基だった。
「神林ッ」と叫ぶなり、シャトルランを放って駆け寄る。一瞬の判断で、自分よりも
下手をすれば、自分もそのまま倒れてしまいそうな苦しげな表情とその大胆な行動に、一部の女子が顔を
時間にすれば1分になるかならないかの時間で、一変した体育館。ただひとつ、変わらなかったものといえば、
――トータル、
× × × × × × × ×
「人生の勝利者たれ」
「いいか、
家長である祖父、
勝つとはすなわち、一番であるということだ。勝たなければ一番にはなれない。ならば、何事に対しても自分が一番でなければならない。
祖父の教えを忠実に遂行しつつ、孝四郎は育ってきた。
だが、これまででそんな孝四郎の行く手を邪魔してきた
一人はいいだろう。あれは幼い頃の話で、今ならば決して負けはしない自信がある。あれ以降、もう絶対に負けはせんと固く誓い、そのために日々
だがしかし、
前触れもなく突如現れたことに加え、人外じみた握力の持ち主である。男が男を褒めるのはどうかと思うが、婦女子の間でもてはやされるであろう大層な
しかもだ。風が運んできた噂では、転校初日に痴漢を撃退したとのことではないか。これには神林孝四郎は賞賛とともにこう思った。
――早めに叩いておかねばならん、と。
でなければ、後々、自分にとっての脅威となり得る可能性がある。害たり得る芽は早めに
その教えを思い返しつつ、最初の握手でけしかけたのだが、
信じられなかった。
気がつけば、
そう、
何かの間違いなら正さねばならない。前腕筋群が目覚めていなかったか、あるいはあまりにも甘く握ってしまった気もした。俺としたことがと孝四郎は再度、全力をもって握力計測の勝負事を
全身の
勝った。孝四郎は思った。
が、
が、である。
悪夢はそこからだった。真条基は握力で握力計を破壊した。頭がおかしくなりそうだった。視界がぐにゃりと
それからはもう記憶が定かではない。ズタズタにされたプライドの再構築に全てのリソースが回されていたからである。ただ、ダメだった。頼りないスティックのりで必死に補修しても、孝四郎のプライドは元通りにならなかった。どうすればいい、このままでは俺が俺でなくなってしまうと――、
シャトルランである。
挽回の機会はそう名乗っていた。
――これしかない。そう思った。孝四郎は。
だから挑んだ。
「意地でも、お前らには負けない。絶対に」
意外なことに宇宙人は尋常にその勝負を受け取った。とらえどころのない真条という人間がようやく
上等である。絶対に負けられない戦いがそこにはあったのだ。
スタミナには自信がある、去年の計測ではぶっちぎりの成績を残し、終盤などひたすら1人で記録を伸ばすことにのみ集中していたくらいだ。
勝てる自信しかない。だが、だが、である。もし、もしこの自信を、打ち砕かれた時、その時、その時、
自分は、
どうなって――
「プハッ!」
さながら酸欠間近で浮上してきたかのごとく、意識を取り戻した孝四郎は飛び起きた。結果だ。勝敗の行方だ。一体どうなったと辺りを見回すと、
白がまぶしいベッドに自分が寝かされていたことを知る。
何故、どうなっている。思い出せ。何があった。
体育館にいて、シャトルランをして、白くなっていく視界の中で真条基の背中がどんどん遠ざかっていき、
「そうだ! 真条は、真条はどこだ⁉︎」
大声を上げるなり、頭頂部に衝撃を食らった。
「安静にしてろバカ」
手刀を振り下ろしたままの姿勢で、
「生形! 真条はどこだね⁉︎」
なおも、しつこい孝四郎に露骨なため息をもらすと進之介は、
「ったく……、まずは一言あるだろうが。あのな、感謝しろまず」
「? 何がだ、」
言いかけて、確かに気を失ってしまったことはわかる。そして体育館からここまで移動してきているということは、誰かが運んでくれたのだ。たとえば目の前の男のような。
「そうか。すまん。……ありがとう」
「俺じゃねーよ。
呆れたような顔でのたまう進之介に孝四郎は固まった。
完全に進之介に手間をかけさせたとばかり思っていた。だが違うとなれば、いったい誰が、ということになるがそれがまさか、
「真条……だと……」
「おっ、気がついたのか,よかった」
一仕事終えたぜと言わんばかりの爽やかさをまとって基が戻ってきた。見るからに上機嫌であり、何かのよほどいいことがあったのかと問いかけたくなるレベルで足取りが軽やかだった。まるで重たい何かを下ろしてきたかのようである。
進之介が孝四郎を
半ば信じられなかったが、口は意外と素直に動いた。
「真条……、その、すまなかった」
わずかに頭を下げる。
プライドがどうしても邪魔をする、許せと孝四郎が思った時、グイッと横から進之介が手を伸ばした。安静にしてろといってたのはどこのどいつだという勢いで、孝四郎の後頭部を持って、へし折る勢いで前へ倒させる、
「ぬぉっ、な、何をする⁉︎ 生形!」
「それを頭下げるって言わねぇんだよ」
若干、進之介が
「気にするなよ。ああいう時は誰にもある。人間だし」
1人でうなずいていた。
「正直、俺もやばかったよ」
丸椅子を引き寄せると基はよっこいせと腰を下ろす。思わず進之介を見やれば向こうも同じく孝四郎を見ていた。
なんというか、有り体にいって今のおっさんくさい所作はイケメンらしからぬもので、違和感があったからだ。
だが、それよりも気になるのは、と進之介が口を開き、
「
「そりゃもう、俺も限界だったんだよ。間一髪でした。あと数秒で俺も辺り一面にぶちまけてた」
眉根を寄せて、しみじみつぶやく。
そうかと孝四郎も悟る。限界が近かったのは自分だけでなく、この男もだったのだ。
あれだけの距離を徐々にテンポを早めて走破して、人間息一つ乱さずケロッとしていられる訳がない。
「……ありがとう」
今度は素直に頭が下がっていた。同じく限界が近かったのにも関わらず、その後自分をかついでここまで運んだのだということに気づいたからだ。それを考えると、勝手に噛みついていた自分が
基と進之介に悟られぬように唇を噛んでいると、
「まぁもういいだろ」
全てわかっていると言わんばかりの優しげなまなざしで基は孝四郎の肩を叩くと、
「あんだけ、しんどい思いしたんだ。――水に流そう、お互いに」
窓が開いているのだろうか、柔らかな日差しと風が室内へと訪れていて、白であふれた保健室をことさら明るくしている。呼吸するように膨らんではしぼむことを繰り返すカーテン。若干鼻の奥に刺さる
その光景の中で親指を立てる真条は、なんと、大きな人間だ。と孝四郎は、
「初めて、だ……」
「……何が?」
首を傾げる基に、孝四郎は胸元を握りしめつつ、
「男にときめいた、のは……」
ズキュキュキュキュと、急ブレーキを
「ダメ絶対。そっちの
「ま、待ちたまえ、真条、君は何か勘違いをしている!!」
完全に表情の死んだ基の腕を掴もうとするが、見たことのない俊敏な動きでケツを押さえて飛び
誤解が深くなる前に一刻も早く、押さえつけてわからせねばなるまいと孝四郎は掛け布団をはねのけて、基を
「おい、神林、なにやってんだ!!」
「うるさい、生形お前は黙っていろ! し、真条、違うんだ、今の言葉は」
「やめろ。それ以上近づいたら俺は舌を噛む」
青ざめた顔で警告する基に致し方あるまいと、一気に距離を詰め、両肩を掴む。息を吸い込み、
その瞬間、保健室のドアがノックと同時に開き、
「基、大丈――」「うぶちん,こーちゃんまだ生きて」
「惚れた。俺は君にっ!」
最悪のタイミングとはこのことだった。
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