第20話 “絶対に負けられない戦いがそこにはある”



 人は何故走るのか。


「ゼェ、ゼェ、そ、そろ、そろ、諦めたらどうだね、真条ッ」

「…………」

「む、無視をするとはッ、ふ、ふふ、いいか、君には絶対負けん!」


 もう一度、問おう。


 人は何故、走るのか。


 そこに、道があるか――




「!?」




 ビッグウェーブ。


 未だかつてない骨盤を揺るがすほどのとどろきを伴って、襲い来る暴力的な自然の脅威である。全隔壁ぜんかくへき下ろせ! あァ!? とてもじゃないが持ちこたえられねェだと!? 馬鹿野郎! んなもんてめェが、タマ賭けてでも、次の壁になりやがれ!! いいか、俺らがここでこいつらを食い止められねェ限り、終わりなんだよ! てめェのかーちゃんも、腹ン中のガキもな! 気合入れろ、ここが正念場だ!!


 ……いや、最前線の現場できっとおそらくメイビー身体張ってる各位、最高司令官の俺ですが、必死の抵抗をしました、俺は頑張りました。何度も神様に祈りました。世界の平和を祈りました。


 うん、はい、ええ、


 ――でも、どうやら俺の冒険の書はここまでのようです。ジョースターさん……、俺の……茶色のエメラルドスプラッシュ、どうか、受け取ってください……。


 自分が灰や塩になっていく様を想像しながら、

 俺は終わりを悟る。


 麻倉あさくらさん、妹たちを頼みます。茉菜花まなかめぐ、妖怪クソらしと化した兄貴などいなかったことにしてくれ。最初から真条家は姉妹しかいなかった。でなければ、





 ん、ちょい待ち。





 待て待て、このまま俺が諦めれば、害をこうむるのはいったい誰だ? マイリトルシスターたちに他ならない。そして、彼女らが身を置く小学校という子ども社会において、ウンコとは顔に彫られた罪人の入れ墨より遥かに恥ずべきものである。


 思いもよらぬところから人のうわさというのは波及していく。 「真条の兄貴、ガッコーでウンコもらしたらしーぜー」「くっせ、ウンコくっせー」「窓あけろよ、まじくっせー」


 ウンコをすることを何より忌避するくせに、三度の飯よりウンコネタの大好きな小学生男子のことだ。からかいから発展して、やがてそれはいじめとなっていくに決まっている。この場合、男子に限らない、女子とてそうだろう。


 かつて、俺が味わったような、生き地獄。


 それを、2人に味わわせる?


「ッざけんな……」


 そんなことになるくらいなら、ここで舌噛み切って死んだ方がマシだ。


「負けねぇ、……俺は、絶対、」


 未だかつてないくらい肛門括約筋こうもんかつやくきんに力を込める。こじ開けられそうになるのを、棒で突っ張らせ、鎖を巻き、隙間という隙間に秒で固まる補修剤を注入していくイメージ。


 が、それでもなお、人が大自然の脅威の前には無力なように、生理反射に逆らうようことがどれほど愚かなことを俺は思い知る。


 ほんの些細な、きっかけだった。


 隣を走る、神林かんばやしの上体がこちらに揺れた。それを避けようと、一進一退の攻防を繰り広げる意識がそれた。


 その一瞬だった。


 記憶の片隅にある潜水艦を題材にした映画の一場面。艦体にわずかにできた傷がやがてヒビとなり、そこから鉄砲のような勢いで浸水が始まる。必死の形相で船員たちが修理に奔走ほんそうするも、次々に穴の箇所が増えていき、



 ――ピュッ。



「⁉︎」



 馬鹿野郎! 穴ふさげぇえぇぇ! とにかく全員呼んで来い! 死ぬ気でふさげぇええええええええ!!


 各位。遅い。


 終わった。出た今のは、確実に、すぐにふさいだが、出たと思う。あーあーあー、ダメだ。ヒュンって感覚あったもん。特急が通過します感だったもん今の。はい、終わり、解散。お疲れした。と観念して、振り子運動中の手が後ろにいった際に臀部ケツに出現しているであろうムー大陸を一瞬触る。


「!?」


 ほら、アウ――せ、せふ?


 も、もう一回確認しよう。


「!!」


 【速報】はじめちゃん大勝利のお知らせ。【祝砲】

 こんな速報スレッドが脳裏に立った。


 だ、大丈夫だった。これはアレだ。アレですよ。ええ、つまり幸いなことに、ぽんぽんペインが引き起こす現象の1つ、エアリーインパクトだった。これはあたかも、中身を射出してしまったという感覚の後にパンツを確かめると無事だったことから空気的な錯覚現象であると命名され、世界各国で報告されている。たしかノースキャロライナ州の農夫が夜、犬が叫び回っていることに、と、それはいい。


 長年、理屈をまったく理解できないのだが、一瞬だけでも解放されたおかげで波が引き始めた。神様はいらっしゃいました。というかもう、むしろ俺が神なのではないかと思います。さて、今しかない。次、波が戻ってきた時にはきっとそれが真の終わりだ。それまでに、


「ヒュォー、ヒュォー」


 気持ち悪い呼吸音がすると思えば、神林だった。いや、もはやかつて神林だったモノとか形容すべき状態になっている。もういい、休めっ、楽になれ、なってくれ。


 折り返す。身体を反転させる。


「ぼ、……ぼく、も、だ……っ」


 途切れ途切れに、神林は口を開く。


 それに俺は絶句する。


 うっそ、マジか。お前もぽんぽんペインと闘っていたのか。どうりで凄い形相なわけだよ。ってことはだ、俺もこんな感じなんだな。人のこと言えないわ。ぽんぽんペインに悩む者たちは引かれ合う。スタンド使いみたいなものだから。この痛みのつらさを共有できるのだ。わかる俺にはわかる。こいつは今、戦士となっているッ。


 そう、この時、俺たちはきっと気持ちが1つになっていたんじゃないかと思う。


 ――もう、やめようと。そうだ、トイレ行こう、と。


 いいではないか引き分けも時にはありよ。勝ってはないけど負けてはないしぃー。何よりぽんペに負けるリスクに比べたら、億倍マシですよ。そうと決まればラスト一本。行くぞ、神林、


 折り返した時、違和感に気づいた。


 いやいや行くぞ、神林。そら、ゴー神林。シカトとかマジドイヒーなんですけ、か、か、ん、ばやし……?


 耳をつんざくような悲鳴と、大の字に倒れ伏している男子がいた。


 考えるより早く、身体が動いた。


 畜生! 一人で勝手にいくヤツがいるか!! 残りの体力を振り絞って神林に駆け寄る。白目を剥き、全身がプルプル痙攣けいれんしていることから、ブリブリを完全にやらかしてしまったことがわかる。なんてこった。


 ダメだ、このまま放置してはおけない。まったく友好的ではないが腐ってもというかクソッてもバディーだ。この衆人環境の中、強敵ともが社会的に死ぬ様を見るのはあまりに忍びない。


 どうする、どうやって運ぶ。正直、身体を動かした際に短パンから物体ブツがこぼれ落ちる可能性はままある。トム、これはなんですかという問いかけに、これはかりんとうですと主張が通るとは思えない。第一、液体だった場合、どうしろと。インドカレー風チョコレートソースじゃどうにもならん。


 そうなってくるとおぶるのはキツい。じゃあ、え……マジで、あの形じゃないと無理? やだよー、なんでよりによって野郎なんだよ。


 だが、時は無情にも一刻を争うのである。早いとこ、この場から離れないと神林も俺もマズい。


 くそっ、こいつガタイいいから絶対重いだろ。ぐぇ、マジ重い。両腕が震えている。なおかつ互いの臀部ケツにも気を配らない鬼畜難易度に泣きそう。


「誰か、保健室教えてくれ!」

「保健委員!」


 ノリオも叫んでいるが、その間にいち早く生形うぶかたが俺の隣まで走ってくる。意識の飛んでいる神林に呆れをにじませつつ、


「ったく、この馬鹿野郎……。こっちだ、はじめ!」


 先導するその背中を俺は追いかける。帰ってきはじめたぽんぽんペインさんに土下座しながら。




 持ってくれよ、オラの身体……ッ。


 

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