第28話 隔たりと温もり 3
「遅いぞ、クロフォード」
「申し訳ありません」
俺は当たり障りなく詫びを入れ、意気揚々とメイドの後ろを歩く少年の顔を伺い見る。
『下賤の浅知恵』とはよく言ったもので、その口元は他者を貶める愉悦に歪んでいる。
その様は
弱者を護る強者(つわもの)であれ、というウィスタリアの家訓から大きく外れたその姿に落胆するしかない。
上がこの調子では、下のご息女にも期待はできない。
人伝に聞いた話では、年の割りには利発であるらしいが、それがこの少年同様、小賢しいものであれば、一種の見物ではある。
「こちらでございます」
メイドの声に気を引き締める。
扉の向こうには旦那様もいる。
「失礼致します」
メイドの上擦った声と共に開かれた扉。
部屋には旦那様と奥様を始めとしたお嬢様のお世話役のメイドを含めた数人。
そして、椅子に掴まり足を震わせながら立っている、小さな存在に思わず目を瞠る。
その赤ん坊は髪と瞳の両方に
部屋の人間達の視線を一身に受けた事に気を良くした坊っちゃまは、堂々と部屋の中を通り過ぎる。
その際、チラリと向けた視線は初めて対面するお嬢様へ。
その目は
お嬢様が小さく身震いした。
それを見た旦那様の眉が僅かに寄る。だがそれも一瞬の事で、何事もないような表情に戻る。
さすがに父親の前では緊張するのか、幾分硬い表情でぎこちない仕草で礼をとる。
「ただいま帰りました。父上」
旦那様は柔らかい笑みを顔に浮かべられた。
「やあ、おかえり。アインハルト」
呼ばれた事でその表情が年相応に柔らかく綻ぶ。
「はい」
その声音すらも。
それは純粋に親に気にかけてもらった事を喜ぶ子供の姿だ。
それ自体は悪い事ではない。
しかし、あの『お坊っちゃま』が求めているものは愛情の独占。
今、全ての意識は旦那様と坊っちゃまに向いている。それを愛情を一身に受けて育った
答えは当然否。
自分だけに向けられていた愛情が、突然現れた見ず知らずの子供に向けられて面白い筈がない。ものの分別がつかないとは言え、そのくらいの判断はつくだろう。
当然の結果として怒り出し、駄々をこね、周囲の注意を向けさせたお嬢様の勝ちとなる。
ジジイの言葉の通りだ。
そうして当然の結果を待つ事しばし。
しかし、その結果がもたらされる様子がない。
訝しみながら、件のお嬢様に目を向け、この時やっと、ジジイの別れ際に放った言葉を正しく理解した。
もう限界なのだろう、全身をぶるぶると震わせながら、声を上げようとしない。
まるでこの空気を壊さないようにと。
今にも泣き出しそうなその目はただ、静かにその光景を見つめていた。
分別のつかない赤ん坊などとんでもない。
あれは、状況を理解し、分別を弁えている者の目だ。
物分りの良いお嬢様?
物分りが良すぎるにも程がある。声を漏らすまいと堪える様は痛ましい。
何故、こんなにまでなっている小さな存在に周囲の者は気付かないのだろう?
母親どころか、その世話をするべきメイド達すらその様子に気づいてはいない。
小さな青い瞳から力が抜ける。
いけない。
それは咄嗟に出た行動だった。
椅子のヘリを掴む手が緩むのを見て、身を屈め、そっと手を差し出す。
「いかがなさいましたか?」
なるべく怖がらせないように優しい声を心がけた。
驚きに見開かれた青い瞳。
どこまでも透き通る、真っ直ぐな瞳が俺を映す。
その瞳がふいに揺れた。
多くの感情がない交ぜになってはいるが、俺が脅かす存在ではない事を認めてくれたようだった。
縋るような目をしているのに縋ろうとしない。
その小さな手が恐る恐る俺の指を握る。
「お初にお目にかかります」
今、周囲に気づかれるのはお嬢様にとっては本意ではないのだろう。
なるべく声を抑えた。
そして顔を上げた小さなお嬢様に、自然と口元が綻んだ。
「
そう挨拶した途端、くしゃり、と顔が歪む。
「…っふ」
安心したのか、喉の奥から音が漏れた。
お嬢様が今度こそ俺に向かって躊躇いなく手を伸ばす。
「…あい"っ」
抱き上げたお嬢様は羽のように軽く、俺の胸に顔を埋めて声を押し殺すように泣いた。
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