第29話 拒絶と戸惑い

夫が義息子むすこの肩を抱き、部屋の外へと促す。

私に僅かに目配せした夫は何事もなかったかのように部屋を出た。


その間際に何かに驚いたように目を瞠り、それすらも父親の顔の下へと押し隠す。

我が夫ながら、その面の皮の厚さには関心する。

扉が夫と義息子むすこの姿を完全に隠したのを確認した私は直様娘の姿を探した。


義息子が娘(リズ)に向けたあの目は父を取られた嫉妬などと可愛げのあるものではない。明らかな悪意を孕んでいた。


椅子に目を走らせれば娘の姿はない。

メイド達を見るが娘は居ない。


一瞬、心臓が凍りつきそうになった。


ぐしゅっ…、えぐ…、ぐしゅ…


「リズ!」


抑えるように愚図るその声に振り返った私は安堵と動揺で思わず声が上擦った。


そこには見慣れない少年の胸に顔を埋め、小さく泣き続ける娘の姿があった。


娘に人見知りはない。

初見で余程酷い事をしない限りは娘が嫌がる事はない。


けれど…


私は目の前の光景に大いに戸惑った。


どれだけ機嫌が悪くても、どれだけ泣いても、私以外の人間には甘えようとしない娘が、会って間もない人間に、これだけ甘える姿は見た事がなかった。


そう、リズは間違いなく少年たにんに甘えている。


私は執事服の少年を見る。


私に気付いた少年がリズを抱いたまま頭を下げた。

娘を抱いている手前、仕方ないとはいえ無作法ともとれるそれは、咎める気持ちすら湧かない綺麗なものだった。


黒い癖のない髪に紫の瞳、全てにおいて綺麗に整った少年に見覚えがないわけではない。


この屋敷で何度か見た顔。


確か、義息子の世話役として、王都に送られた…。


「あなた、クロフォードね」


「お久しぶりでございます。奥様」


変声期に差し掛かろうかという声が静かな抑揚で紡がれる。


《この年で完璧な所作、さすがクロードの孫ね……》


「お嬢様、奥様ですよ」


クロフォードがリズの背中をぽん、と叩き、耳元でそっと囁くと、リズの肩が跳ねた。

ついで、いやいやと、クロフォードの胸に顔を埋めたまま首を振った。

クロフォードの眉が少し困ったように下がる。


「リズ?」


私が手を差し出す。

小さな伸ばされた手は、私の手を払い、こちらを見る事もなく、私を拒むようにクロフォードの服をぎゅっと掴んだ。


「お嬢様、クロフォード様が困っておりますよ」


ライラがリズを抱き取ろうとしても、クロフォードから離れようとしない。


「や!」


それどころか、ライラの手を叩き落とし、更に彼にしがみつく。


「お嬢様…」


聞き分けのいいリズの初めての駄々を捏ねる姿に、私もライラも戸惑うしかなかった。


「奥様」


クロフォードがこちらを見る。


「お嬢様のご機嫌が直るまで、私がこのままお預かりしてもよろしいでしょうか?」


「…ええ、お願いできるかしら」


「畏まりました」


クロフォードは小さく礼をすると、ライラに一言断り、庭へと歩き出す。


「リズ」


呟くように呼んだ声が聞こえたのか、顔を上げたリズは私と目が合うとすぐに顔を臥せた。


あまりのショックに私はその背中を見送る事しかできなかった。


「奥様、部屋にお戻りになられては」


「ええ…、そうするわ」


娘の初めての我儘・・・・・・に、私はなす術もなかった。





「我儘……、ではないわね……」


「奥様?」


私は深くソファに腰かけて、拒絶を示した娘の様子をぼんやりと思い返す。


「ライラ、立ったばかりの子にすぐ歩けと言って歩けるものかしら」


「……いいえ、」


ライラは躊躇いがちにけれど、はっきりと答えてくれた。


「それに、あの子アインハルトが入って来てからは誰もリズに注意を払っていなかったわね」


「……申し訳ございません。わたくし含め、あの場にいたメイド全ての責任でございます」


ライラの謝罪にゆるく首を振る。


「……いいえ、私の責任でもあるわ。だって、最後まであの子の目の前にいたのは私だったもの」


直前まで向かい合っていながら、けれど、あのリズの助けを求める声には一切耳を傾けていなかった事に今更ながらに気づく。


「あの子は繊細で賢い子だってわかっていたつもりだったのに」


溜息が自然とこぼれる。


リズが猶更自分の行動が悔やまれてならない。

主人が目を離せば使用人の誰かが見ているのは当たり前の事だ。

けれど、それは言い訳に過ぎない。

リズからすれば出来ない事を強要した挙句に自分を放置したひどい母親だ。

そう、自分は母親なのだ。


「リズは許してくれるかしら」


再び溜息が漏れた。



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