第37話 未知との遭遇 2
日が傾きかけた森の中、ギルバートは傷のついた木の幹に手を当て、根元に目を落とす。
そこには誰もいなかった。
「アインハルト」
今まで聞いた事のない冷徹な固い声にアインハルトの肩が跳ねた。
「父う…」
申し開きをしようと喉から絞り出した言葉は、震え、掠れていた。
「お前は屋敷へ戻りなさい」
父の言葉には有無を言わさぬ威厳と威圧が含まれていた。
開きかけて閉じた口の端はかすかにふるえていた。
「……はい」
それ以上は何も言う事もできず、アインハルトはふらふらと歩き出した。
「早く」
ビクリと再び肩が跳ね、震える足を動かそうとしたとき、屋敷の方向から、女の悲鳴が上がった。
「まさか…!!」
身を翻して走り出した父の背を見送りながら、アインハルトは血の気の引いた顔でその場にへたりこんだ。
居なくなればいい。
そう思ったのは確かだ。
だが、死んでしまえとまでは思わなかった。
父は常に自分よりも
少なくとも
ずっとこの森に隠しておく訳ではない。ある程度満足したら連れて帰るつもりだった。それを何度か繰り返せば直に優先順位が逆転し、ゆくゆくは女狐とその娘を追い出せる。
その考えに思い至った時はこの上なく素晴らしいものに思えた。
けれど、彼は知らなかった。
リザレットが自分の意思で動ける事を。
誰かに抱かれているか、座ったままこちらを見上げる姿しか知らなかった。
立った姿を見た時も「まだ立つだけで精一杯」だというメイドの言葉を耳にした。
だから、あの場所に戻ればリザレットは居るものだと思っていたのだ。
だが居なかった。
その場に残されていたのはリザレットの着ていたワンピースの切れ端だった。
目視で確認できる擦れたような赤は血の色だ。木の枝に引っ掛けた訳ではない。
そんな低い場所に引っかかる要素が見当たらなかった。
脳裏に無垢な青い瞳が閃いた。
「うっ…っ…」
アインハルトはその場に泣き崩れた。
*
ギルバートは悲鳴の上がった方向へ走り出した。
それは間違いなく
脳裏に過った最悪の可能性を頭を振って打ち消す。
それは絶対に有り得ない事だった。保険はしっかりとかけてあるのだから。
「リズ…!!」
視界が開け、飛び出した先に真っ青な顔のメイドが立ち尽くしていた。
「何があった!」
「お…おじょう…さま…が…」
震える指での示した方向に目を向け、ギルバートは目を瞠る。
ぐるる…
肉食獣独特の喉の奥での唸り声。
大の男の大きさ程もある体躯は日の光を浴びて山吹色に輝いている。その上を這う黒はインクを東国の「筆」で刷いた美しさがある。
それは確かに《《森の向こう》》に棲んでいる筈の存在だった。
メイドの喉が大きく鳴り、その獣の名を絞り出す。
「…っ虎…が!!」
のそり、とギルバートの前に出た虎の口。人間の上半身であれば一口で済むであろう大きなその口には小さな青いかたまりが咥えられていた。
「リズ…!!」
「あいっ」
ぶらり、と虎の口にぶら下がった愛娘は両手を上げて元気な返事を返した。
放置された不安など、最初からなかったかのような、どこかやり切った感のある、清々しい笑顔だった。
「リズ?」
その様子に思わず疑問形になる。が、無事であった事の安堵の方が大きかった。
震える手でリズを受け止め、ぎゅっと抱きしめる。
「だぶぅ!!」
久々の娘の抱き方に対するダメ出しの声にも構わずギルバートは娘を抱きしめた。
「無事で良かった…」
「…あいっ!」
小さな手がぺちぺちと頬を叩く。
「やはり、お前の仔か、ギルバート」
虎の口から女の声で流暢な言葉が紡がれる。
その虎の様子に驚くことなくギルバートは笑みを返した。
「ありがとう、シャクティ」
「ソレを見つけたのは我が仔よ」
つい、と虎が促した先には小さな仔虎が後脚から顔をのぞかせている。
「ミャウ」
挨拶なのだろう、一声鳴いた瞬間、腕の中のリズが暴れ出した。
「にゃーー!!!」
その声に驚いた仔虎が素早い動きでリズから大きく距離を取ると、ふっーーー!!と猫のように威嚇する。
そのやり取りにギルバートは呆気に取られた。
「君の子にしては、随分と臆病だね」
「シャッ!!」
それが聞こえたのか仔虎が反論するように威嚇音を出す。
しかし、距離を取ったまま、近づこうとしない。
その様子にシャクティは苦笑する。
「そう言ってくれるな、アレでも
「にゃー!!」
手を伸ばしじたばたと暴れ出すリズの目がじっと仔虎を捉えて離さない。
その様子を見たシャクティと呼ばれた虎がつい、と宙に目を泳がせる。
「だった、筈なんだがなぁ……。ターシャ」
シャクティの呼びかけにぴくり、と仔虎が反応するが、ターシャと呼ばれた仔虎もじっとリズを窺ったまま、動こうとしない。
「にゃー…」
リズの蒼の瞳が大きく潤んだ。
「……ターシャ」
泣き出す寸前の赤子とため息と共に吐き出された母の声に一瞬狼狽え、迷いを見せたターシャだったが、結局それ以上の距離を縮める事はなかった。
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