第36話 未知との遭遇

 


 緑の中を渡る風は冷たさを帯び始め、ギャーギャーと物騒な鳥か獣の鳴き声が聞こえたかと思うと大きな影が頭上をよぎる。


 はう…。


 口からアンニュイな溜息がこぼれ、それらしく小さな手を両頬に当てる。


 今の私はさぞかし愛らしく、周囲を悶絶させる事だろう。

 実際鏡が欲しい。

 などと遠くを見ながら現実から目を逸らしても現状は変わらない。


 その現状を簡潔に述べるならば、



 や ら れ た !!



 である。


 ぶっちゃけ置いてけぼりである。


 誰に?


 そりゃもちろん、1歳児をこんな森の中に平気で置き去りにする人間は一人しかいない。


 あんの兄貴様でございますよ。


 メイドさんの忙しそうにしている所を狙い澄ましたかのように、もっともらしく、しおらしい態度であの兄貴様は言ったのだ。


「僕が妹の面倒を見るよ」と。


 仕事に忠実なアンナさんの目を盗み、ショタ好きのミラさんを籠絡した手口は敵ながら天晴れ。


 ミラさんの性癖このみを何故知っているかと問われれば、本人の口から直接聞いたとだけ言っておこう。そして兄の眼から見てもミラさんはチョロかったのだろう。

 因みにその時私を抱いてあやしていたアンナさんの目は死んだ魚の目をしていた。


 そしてあれよあれよという間に連れ出されたのは庭の向こうの森の中。妬みと憎しみに満ちた目で見下ろされ、内心ビビりながらも、私をどうする気だ?と身構えてたら、私を地面に降ろしたかと思うと私に背を向けて、一目散に走り去っていったのである。


 思わず唖然としながらも、その背中を見送ってしまった私は悪くない。


 我に返った私が最初に思った事は



 もう少し考えて行動しようよ…。



 という兄に対するツッコミだった。

 まあ、10歳やそこらの子供の思考ってのは、単純で浅はかなものなのは知っている。特に悪知恵に思考が働いたなら、その底の浅さは様々な経験を積んだ大人の眼で見れば顕著に映る。大人の予測の範囲内であれば、呆れて笑って澄む話であるが、いかんせん、子供というのは経験が足りない。その経験の足りなさが大人の意表をつくことがある。

 現状がまさにそれである。

 と言っても、今の私は、はいはいを卒業間近な赤ん坊だけれども。


 そして冒頭に戻る。


 *


 さて、どうしたものか、と考えてみる。


 置いてけぼりにされてから、時間は結構経っているように思う。

 私の予想では、兄が父かクロフォード君に泣かされながら戻って来るに1000点と言ったところだろうか。


 置いていったは良いが、この場所がわからないといった、あの年頃に有りがちな凡ミスも多少心配ではあるが、その辺は多分大丈夫だろうと思いながら、もたれていた木を見上げる。


 木の幹には同じ場所を何度も打ったのだろう、傷が残されている。

ぐるりと周囲を回れば、練習用の木でできた剣が無造作に立てかけられている。


 恐らく、クロフォード君に転がされる度にここで練習していたのだろう。


 しかし、念には念を入れておくべきだ。


 辺りを見渡せば、あちらこちらに生き物の気配がする。

 同時に家に居るのとよく似た「彼ら」がこちらの様子を遠巻きに窺っている気配もする。

 家の新旧の居候と違い、どうやら誰も彼もフレンドリーというワケではないらしい。

 幸いと言うべきか、物騒な鳴き声は今のところ聞こえる様子はない。小動物や草食動物ならいざ知らず、危険な獣に襲われたのでは目も当てられない。

 より早く、見つけてもらわねばならない。


 よし、泣こう。


 私はぐっと拳を握りしめた。


 子どもの泣き声というのは、大人の耳に届きやすいのだと聞いた事がある。


 今頃きっと、父や母が私の事を血眼になって探している事だろう事を信じようと思う。


 私は抑えに抑えていた本能をゆっくりと解き放っていく。

 鼻がツンとして目の奥が熱さを訴える。

 さあ、いよいよだと、口を開けようとした時だった。



 ガサリ



 すぐ側で聞こえた音に驚いた私の緩みかけた涙腺はピタリと機能を停止した。



 しん…



 今程静寂が耳に痛いと思った事はない。

 逆に心臓の音がうるさい。


 ガサガサ


 揺れた茂みを凝視すれば、緑色の猫のような瞳と目が合った。

 止まっていた涙腺の機能が再び動き出す。

 口から出るのは「あうあう」といった意味を成さない声。


 ガサリ


 しなやかな動きでそれが私の前に姿を現した。


 その瞬間、


 私は完全に我を失った。

 甲高い悲鳴とも取れる泣き声に、頭上の鳥達が一斉に飛び立った。

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