第38話 未知との遭遇3

「どれ、久方ぶりに散歩にでも出るか」


 くあっ…と、大きな欠伸を一つし、立ち上がった彼女に小さなそれが跳ね起きる。


「ターシャ、お前も来るか?」

「ミャウ!」


 キラキラと緑の瞳を輝かせ、小さな仔虎は元気に鳴いた。



 心地よい陽射しに微睡む彼女の側で、舞う蝶々を追うその様は何とも無邪気で和む光景だった。


 彼女達の居る場所は人間との縄張りとの境目にある森だった。


 彼女達は代々そこに棲むモノ達であるが、隣の土地を管理する人間は時折替わる。

 前の人間はこの森を互いの不可侵としたが、3年前にやってきた人間はこの森を中立とした。


 なまじ知らぬ仲ではなかった為という事もあるが、彼が彼女ら種族に理解を示せる器であった事も大きい。


 お陰で彼女らも稀にムラを離れ、こうして気分転換に訪れる。


 陽射しの温さにウトウトとまどろんでいると、側にあった我が子の気配が変わった事で、彼女は現実の世界に引き戻された。


 仔虎は己の周囲を翻弄する蝶々に目もくれず、ひたすら一点を凝視していた。


「どうした、ターシャ」

「ミャウ」


 母の呼びかけに一声返すと、仔虎は真っ直ぐに茂みの奥に飛び込んで行った。


 宙を舞う羽虫よりも興味深いモノでも見つけたか、と、我が仔の惹かれたモノが何であるか、彼女自身の興味も引いた。


 のそり、と立ち上がり、ゆったりとした動作で我が仔の消えた茂みへ脚を向ける。


 その瞬間だった。


『みぎゃーーーーーーー!!!!』


 甲高い悲鳴に森の鳥達が一斉に飛び立つ。


「どうしたターシャ!!」


 悲鳴に駆けつけた彼女はその光景に動く事を忘れ、ただただ、見つめる事しかできなかった。


「にゃー!」

「ミギャウ!!」

「にゃーしゃ!」

「シャッ!!」


 それは奇妙な光景だった。

 小さな蒼い生き物が、我が仔の尻尾を容赦なく掴み、引っ張る。我が仔はその生き物に戸惑い、攻撃の意思を見せぬまま、無邪気なそれから逃げようと必死に四肢を動かしていた。


 ここがムラで、相手が仔虎であったなら、何とも情けないで終わらせる事もできただろう。

 しかし、その小さな生き物は紛れもない人間の仔。しかも、未だ庇護の対象である筈の年頃だ。


 虎族の基盤は力だ。

 なので、番を決めるのも雌と雄の真剣勝負となる。

 弱者には決定権がないに等しい為、自由を得るならば強く在らねばならない。

 が、同時に弱者は護るべき存在でもある。

 彼女の仔たるターシャも幼いながらも同年代の中では一目置かれるだけの実力も素質も備えている。

 どんな強者が相手であろうと怯むような育て方はしていない。


 しかし哀しいかな。


(ふむ…)


 その光景を眺めながら、彼女はふと、これまでを思い返す。

そして必死にこちらに助けを求める我が仔をぼんやりと眺め、ポツリとつぶやいた。


「敵意のない弱者から襲われるというのは、全くもって想定外であった」


と。




 必死に威嚇する仔虎の様子など気にもかけず、蒼い目をキラキラと輝かせ、力いっぱい握った尻尾に頬ずりする赤ん坊。


 その口が、むにゃり、大きく開く。


「あ」


 彼女の口から思わず、といった声があがる。

 ターシャの緑の瞳がこれでもかというくらいに開かれる。


「はぶぅ〜…」


 赤ん坊はターシャの尻尾を容赦なく口に入れて咀嚼した。


「みぎゃーーー!!!」


 仔虎の口から再び悲鳴が上がった。





 ターシャは混乱していた。


 切っ掛けは恐らく、野生の勘なのだろう、と思う。


 妙な胸騒ぎを覚えた。「そこ」に近付くにつれ、胸騒ぎは確信に変わった。

 草むらをかき分け顔を覗かせてみれば、そこには今にも泣きそうな人間の赤ん坊がいたのだった。


 青い瞳と緑の瞳がばっちりと

 ターシャは確かにそう思った。何故そう思ったのかはその時のターシャにはわからなかった。


 両者見つめ合ったままの一瞬の静寂。


 周囲に他者の気配は感じない。

 では、人間はこんな小さな存在をこんな場所に置き去りにしたというのだろうか。


 相手を怖がらせないように、様子を伺うようにそろり、と茂みの中から姿を現した自分に、その生き物は予想外の行動を見せた。


 怯えるどころか、目を輝かせたかと、四つん這いで突進してきたのだ。


 完全に虚を突かれたターシャの動きがワンテンポ遅れた。

一旦距離をとろうと、それに背を向けたのも失敗だった。


 小さな手は容赦なくターシャの尻尾を掴み、思い切り引っ張ったのだ。



『みぎゃーーーーーーー!!!!』



 その悲鳴が己のモノだと気付く余裕もなかった。

 鼻息荒く襲い来る、皮膚の薄い赤ん坊に、咄嗟に出た爪を当てず済んだのは偉かったと思う。赤ん坊の服の裾を多少切り裂いてしまったが、赤ん坊は傷つけてはいない。むしろ、その拍子に転んで擦りむいたようだが、尻尾はがっちり掴んだままで放してはくれなかった。


 本能で、これは自分達とは違った弱い生き物だと悟った。

 ムラの仔等であれば、噛もうが、爪を立てようが、多少雑に扱っても大差ない。しかし、今目の前にあるのは柔らかな皮膚に壊れそうな四肢である。


 敵意のない相手を傷つけてはならないが、己の身が危うい。

 何故かそう思ったターシャには、逃げを打つしか方法が思い浮かばなかった。


 遅れて到着した母はこちらをなんだか温い目で眺めている。


「にゃー!」


 赤ん坊が襲い来る。


「ミギャウ!!」


 咄嗟に母に助けを求めるが、母は聞いてはいなかった。


「にゃーしゃ!」

「シャッ!!」


 精一杯の威嚇を放つが相手もやっぱり聞いていなかった。


 そして



「みぎゃーーー!!!」



 ターシャの口から再び悲鳴が上がったのだった。

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