第26話 隔たりと温もり
「あうぅ…」
足が非常にぷるぷるする。
もう、この手を離して座ってしまいたい。
けれど、周囲の期待のこもった視線がそれをさせてくれない。
まだ、立ったばかりの赤ん坊だ。そのくらいは許してくれると分かっていても、この場の空気が私にそれを許さないのだ。
「さあ、リズ」
母が私に柔らかな手を差し出す。
「うあう」
必死に手をのばすが、ギリギリのところで届かない。
その手は私が一歩動かなければ届かない。
その瞳は私が見上げなければ見えない。
じわり、じわり、と恐怖が
その手を掴めなかったら、その手が消えてしまったら…。
見上げた先に私に安心をくれる瞳がなかったら。
空気が重い。
呼吸をするのが辛い。
「リズ?」
見上げれば、懇願にも似た眼差し。
知っている。
私が彼女の望む通りの結果を出せなかったらその瞳に失望が浮かぶのを。
それを想像するだけで胸が締まる。
私は初めて母の手を取る事に恐怖した。
私は椅子のヘリに両手を戻し、いやいやと首を横に振る。
「どうしたの、リズ?」
知っている。
もし、この期待に答えてしまったら、調子に乗った大人達の、更なる期待が間違いなく私を押し潰す。
「リズ?どうし…」
コンコン
焦りを含んだ母の言葉をノックが遮った。
「失礼致します」
メイドさんのやや上擦った声に、周囲の目線が扉に集まる。
メイドさんの前に男の子が一人、姿を現した。
青い髪に灰色、というよりも鉄を思わせる冷たい色の瞳。
私の判断が間違っていなければ、10歳前後の美少年。
父によく似たその容貌は一目でそれが誰かを知らしめる。
その少年はチラリ、と私を一瞥する。その目にある異様な感情に背筋がぶるり、と震えた。
そして父の前に進み出ると、少年はゆっくり礼をとる。
「ただいま帰りました。父上」
少年が表情そのままの硬い声で挨拶すると、父は先ほどまでとは打って変わった柔らかい笑みを向けた。
「やあ、おかえり。アインハルト」
名前を呼ばれた少年の表情が柔らかく綻ぶ。
「はい」
それを見た私の心がズキリ、と痛んだ。
今、周囲の視線は|義理の兄(あに)たる少年に向けられている。
母ですらも、じっと真剣な眼差しでそれを見守っている。
私へと意識を向ける人間は誰もいない。
誰も私を助けてくれない。
ふいに襲われた孤独と不安と居た堪れなさに、私は足の疲れすら忘れてそのまま立ち尽くす事しかできなかった。
声をあげれば振り向いてくれるだろう。
我儘に声を上げ、泣けば誰かが気づいてくれるだろう。
しかし、私はそれができなかった。
また、先ほどと同じ事が繰り返されたらと思うと怖くて声が上げられない。
伸ばしても届かない手、合わない目線、押し付けられる期待が何よりも怖かった。
間違えてはいけないのだ。
私の世界はここにある全てだけだが、彼らにとっての全てはここ以外にもあるのだ。
まだ、無力な赤ん坊だからこそ、皆が私に注意を払ってくれているだけなのだ。
足が震える。
もう限界だった。
私は椅子のヘリを掴む手を緩めた。
「いかがなさいましたか?」
優しい声が背中にかけられ、驚いて振り向いた。
すぐ間近にあるのは深い静かな
短く整えられた、懐かしさを覚える、黒い癖のない髪。
冷たい印象を与える整った顔は、こちらを気遣うよう、緩められている。
少年から青年に差し掛かろうかという年の頃に見える彼は、クロードさんとよく似た執事服に身を包んでいた。
差し伸べられた手は、私が手を伸ばせばすぐに届いた。
手袋ごしに感じるのは温もり。
私と同じ目線に彼の顔があった。
今、とても私が欲しくて堪らなかったものをくれたのは、初めて見る少年だった。
「お初にお目にかかります」
私にとっては優しく、大きくもなく、小さくもない、静かな声音。
「
向けられた笑顔は限りなく優しかった。
「…っふ」
喉の奥が大きく引きつった。
彼に向って手を延ばしたのは多分赤ん坊としての条件反射だ。
白い手袋をはめた手がのばされ、私を胸に抱き上げた。
「…あい"っ」
私は彼の胸に顔を埋めて声を殺して泣いた。
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