第23話 新たな試練
「……」
ごくり、と父の喉が鳴った。
母がぎゅっと胸の前で手を組んでいる。
「リズ」
母の緊張を孕んだ声に且つてないプレッシャーが私にのし掛かる。
私の前に立ちはだかるのは粛々と佇むライラ。
「お嬢様」
すっと綺麗な動作で屈むと、私の両手をそっと包み込む。
「お嬢様はやればできる子です。
ライラは信じております」
「……」
ライラの期待のこもった真摯な眼差しが痛い。
ど う し よ う ! !
本気で泣きたい衝動に駆られたが、今回ばかりは我慢する。
今、私の前に立ちはだかる壁。
それは、ハイハイの卒業。
無事に1歳を迎えた私。
身体が動きたくてムズムズする今日この頃、移動範囲が広がるにつれ、色んなものが私の好奇心を刺激した。
それと同時に本能的な何かがそろそろ次のステップに移る頃だと私の中で訴えかける。
その日は珍しく、父を交えて母とライラが何事かを話し合っていた。父と母の熱心な表情から察するに、また子育て講座が始まったのだろう。
更に珍しく、今回は私はお呼びではないようで、メイドさん達ときゃっきゃうふふと遊ぶ事に勤しんでいた。
「お嬢様、こちらですわ」
「お嬢様、あちらに隠れておりますわ」
「きゃあ、捕まってしまいましたわ」
「お上手ですわ!お嬢様」
そんな華やかなメイドさん達の声に翻弄され、
メイドさん達を追いかける事に熱中するあまりに私は我を忘れ、己の意志の赴くままに四つん這いで駆け回ったのだ。
メイドさんのスカートの裾を捕まえては放し、捕まえては放しとキャッチアンドリリースを繰り返す。
その単純な遊びは私から人としての尊厳を奪い、生物としての本能を引き出した。
「まあ!お嬢様!!」
そして感極まったメイドさんの声で我に返ると、私は椅子のヘリに掴まって2本足で立っていたという寸法だ。
そこでいつになく、力強く突き刺さる3つの視線。
正直言ってこの時の視線の圧力に振り返る勇気は私にはなかった。
その視線の主たちは言わずもがなの両親とライラである。
湧き上がる歓声、興奮に頬を染める母、咽び泣く父、私の部屋は一瞬にして
*
そして冒頭である。
ちょうどその事について話していた折りも折り、うっかりタイミング良く私が「立っち」しちゃったモノだから、『ウチの子、天才じゃね?』的興奮で、冷静な判断力を奪われた大人達の手によって、「立っち」したその日の内に「あんよ」を強要されるハメになったのだ。
時期的に「あんよ」はおかしくない。その証拠にライラは2ヶ月くらい前からその可能性を告げていた。
ただ、こればかりは個人差だ。
私がプレッシャーに感じる事のないように、ライラもそれに関しては強くは言わなかったし、母も何も言わなかった。
空気の読めない父はこの部屋に来る回数も増えたが、追い出される回数も増えた気がする。
とにかく、長い目で成長を見守って行こう的空気が流れていた中でのこの急転直下な現状である。
今なら歩く事を強要されて泣いたクラ◯の気持ちがよく分かる。
私は遠い目で、前世で見た某アニメを思い出していた。
初めて立った人間に歩く事を強要するのは無茶振りも良いところだという事を私は今、身を以て思い知らされている。
せっかくの赤子ライフだ。無理せずユルくかつ、順調に育っていこうと思った矢先にコレである。
思えば昔からそうだった。
程々の仕事内容で、程々の給料で働いていた筈なのに、気がつけば欲しくもない責任だけがどんどん増えて行くのだ。
一体何が悪かったのかと昔の自分に問うてみれば、性分とタイミングだろうな、と諦めきった答えが浮かんでくる。
「お嬢様」
静かな、有無を言わせぬ声に目をあげれば、無表情に近いライラの顔。
けれど、その目は期待に輝き、頬はわずかに赤みがさしている。
「あうぅ…」
精一杯の抗議の声をあげるがライラの様子に変化はない。
今捕まっているのは椅子のヘリ。
足はぷるぷると震えるだけで、棒のように動かない。
膝を曲げればお尻が床に着く。たったそれだけの事も許されない空気が張り詰めている。
前準備もない初めてのこの状態。2本の足で身体を支えるだけで精一杯で、足を動かす術をこの体はまだ学んでいないのだ。
初めての「掴まり立ち」、「伝い歩き」、そして「あんよ」。
何事も順序があると父と母にとつとつと言い聞かせていた
あれ…?
ふと、私の中で疑問が浮かぶ。
私は目の前の女性の顔を見る。
母と共に私を大事に育ててくれている人。
私の意志を母よりも明確に汲み取ってくれる人。
何人も子供を育ててきたベテランの女性を。
普段であれば、まずこちらの意を汲み取ってから応えてくれる彼女には珍しい。
ただ一方的に投げかけて来る、期待しているだけではないその様の彼女には私の懇願に近い抗議すら届いていない。
母と父の
この人達は、
一体何を焦っているんだろう?
その疑問に辿り着いた時、クロードさんが父に近づき、そっと耳打ちする姿を私は視界の端に捉えた。
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