第4話 教材は私


「いいですか、奥様、旦那様」


ライラの声に目線を上げれば、こちらを覗き込む見慣れた父と母の顔。


普段は赤子の扱いがなっていない父を母が私の為に牽制する為、二人がこうして私の前に揃う事は珍しい。


この二人がこうして仲良く(?)私の前に揃っていたのはいつだったか。


記憶を辿るが覚えが全くなかった。


あれれ?


これはきっとアレだ。

赤ん坊のちっぽけな脳みそでは記憶力に限界がある。

きっと私が忘れてるだけに違いない。


「あう」


とりあえず手をあげて挨拶すれば、二人の顔がたちまち緩む。

やっぱり挨拶は大事だね。


「お嬢様もそろそろ寝返りをなさる頃です」


ライラの声に二人が顔をあげる。


ああ、うん。そうだね。

なんか最近、おんなじ体勢が辛くなってきたもん。


「普段、私どもも細心の注意を払っておりますが、万が一という事もございます。特に旦那様」


父の背筋がピンと伸びる。


「頑丈にお育ちになられている坊っちゃま基準でお嬢様を扱いませんように」


「ああ、わかってるよライラ」


そうして聞こえたライラの溜息と母の疑わしげな眼差し。

そして父には悪いが私も信用していない。



本当にわかっているのだろうか、この男は…。



この場にいた女性陣の思いは同じだったと私は確信している。


そして二人が私から離れ、代わりにライラがこちらをのぞき込む。


「あう」


先程同様に手をあげて声をかければライラの目元が和らぐ。


「お嬢様、失礼いたします」

「う?」


声をかけられ、何事かと思えば背中にライラの大きな手が入り、ゴロンとうつ伏せになる。


寝返りの練習って事でいいのかな?


そんな事を思いながら、初めての背中に感じる開放感にうごうごと身体を動かしてみる。


頑張れば一人でできない事もないかな?なんて事を考えていると、背中に突き刺さる3つの視線。


「お嬢様、しばらく辛抱なさってください」


などとライラは言うが、所詮は重い頭とヤワな身体。自力でうつ伏せになったワケでもなし。


そろそろ苦しくなってくる。


「うー…、あぶ」


もう限界!!ロープ!ロープ!!と叫べば、ライラが再びゴロンと転がして仰向けにしてくれる。


「ぷはっ、うあう!」


大きく開けた視界にライラに向かって文句を言いかけ、ふと、両親をみれば、固まっている。


あれ?なんかあった?


「ご覧の通りでございます」


ライラはこちらに向かって謝罪の意を込めた目礼を一つ。


今ではこの人との意思の疎通は母とのそれよりもスムーズだ。


「寝返りを打てるようになったからと言って浮かれていてはいけません。うつ伏せから仰向けに戻れない赤ん坊がそのまま窒息死という例はいくらでもございます」


「リズ」


母の優しい手が私を抱き上げる。


その手は震えていた。


「あい」


大丈夫だと不安げな母の顔を私はぺちぺちと叩く。


「リズ」


母にぎゅっと抱きしめられた。

そして更に外側から力が加わる。

気がつけば、私たちを抱きしめる父がいた。


「本当に気をつけるよ。ライラ」


「う!」


本当に気をつけてよ。と私は父の腕をぺちぺちと叩いた。




お嬢様もかれこれ3ヶ月。


お世話は奥様付きのメイドたる私達が担当しているとは言え、生みの親たるお二人にも知っていただかねばならない。


赤ん坊がいかに弱い生き物なのかを。


そうして始めたのは寝返りの危険性。奥様は旦那様とお顔を合わせる事に大変渋い表情ではあったけれども、お嬢様の為と言えば了承してくださった。


当たり前ではあるが、赤ん坊は生き物だ。


いくらお嬢様が手のかからないお子様とは言え、いつまでも人形ように寝かされてばかりではいられない。


寝返りをうち、ハイハイを始め、つかまり立ちを経て成長していくのだ。


そして何よりお嬢様は他の子供よりも賢くていらっしゃる。


こちらがお声をかければ、言葉こそ喋れないものの、理解の色が見て取れる。


先程のうつ伏せに対しても、私の謝罪を込めた目礼に渋々ながらも怒りを収めてくださった。


今もほら、抱きしめられた隙間から、私に向かって「どうしよう」と助けを求めておられる。


アバウトな子育てしか知らない父親と初めての子育てに戸惑う母親に、注意を喚起する為のものでしたが、効果は抜群だったようです。







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