第18話 私にバニカフェ後遺症?

 いろいろとトラブルはあったものの、学園ミステリー「バニラカフェ」は最終的に高視聴率をあげた。トラブルメーカーの赤松はともかく、脚本家久津川の評価が上がったことは言うまでもない。


 実のところ、業界の評価が高まったにもかかわらず、久津川本人のライターとしての自信は、ひどく傷ついていた。

 これはごく一部の番組関係者しか知らないことだが、犯人を長迫に変更する以前、当初の原田犯人プランで進行していた時点で、長迫が犯人だと推測できるシナリオ上のミスがあることが発覚していた。しかも、視聴者からの指摘で、番組スタッフはそのことに初めて気が付いた。五話放送翌日、中井による犯人ばらしに対する抗議メールに混じって、次の文章が送信されてきたのだ。


“中井まどかさんが、ブログで自分が犯人だと告白したことが話題になっていますけど、あれはあらかじめ番組スタッフからの要請で行った視聴率アップのための作戦ですよね。実は、僕はもう真犯人わかりました。学年主任の長迫ですね。

 第二話で事件後、警察から宝生宛に電話があったとき、警察からの電話と知った長迫は、「宝生先生。警察から何か?」と質問すると、彼女は「原田さんのことを訊ねてましたけど」としか答えてないのに、長迫は、「私が警察の知り合いに聞いたところ、今回殺害されたのは、その弟の方らしいです」と明かしています。

 それなのに第五話では、森野が長迫に、

「それで、お前が電話かけてきて、うちの原田に何の用だって文句言ってきたから、金田の弟が同じ公園で三時頃殺されたって教えてやったんだろうが……」と言っています。

 つまり森野が長迫に事件のことを教えたのは、警察から宝生宛に電話があった後ということになります。どうして長迫は、金田の弟の死を知っていたのでしょう。彼が犯人だからです“


 久津川が二話のシーンを書いたときは、森野と連絡済みのつもりだったのだろうが、五話では前後の関係を混同している。

 明らかな不手際だが、ミステリー初挑戦、繰り返し書き直しを迫るプロデューサー、時間的余裕がなかったこと、予算不足、スタッフ不足などが重なり、心身ともに疲労が限界に達していたため、やむを得ないところもある。それでも、そういった理由はこの番組に限ったことではない。


 最大の要因は、企画当初の熱血青春ストーリー「白い炎~ホワイトファイア(仮題)」が、赤松の意見で、土壇場になってミステリー作品に変更されたことにある。そのため、詳細なプロットを組み立てておらず、検証作業もない。おおよそのプランは、久津川一人の頭にあり、書き上げた台本を他の人間が読んでも、それをどう演出するかに意識が集中し、不備に気付くことはなかった。


 ちなみに最初の構想は、不良グループに加わった主人公相原を救おうと、危険を顧みず立ち向かう元担任長迫の姿に心を打たれ、現担任宝生とクラスの仲間も次第に協力するようになり、他の不良達も更正していく感動物語で、赤松考案の決め台詞は、

「おめえみてえなエリートに俺たち落ちこぼれの気持ちがわかるか」だった。


 クランクイン直前になっても定まらない企画に、何名かは降板したものの、役者は手配済みで、配役も決まっていた。

 結局、中盤でニットに殺害されるエリート教師栗田が主人公に、彼の死で長迫を責めるフィアンセ白石が同棲相手に、長迫の三人の娘が生徒に、末っ子紗英の小学校の担任北山も生徒に、金田兄弟を背後から操る銀龍会のボス森野が刑事に、相原の妹羊子が殺人犯という新設定で、撮影は始まった。


 視聴者の指摘で論理ミスに気付いた久津川も、最初のうちは若林同様無視を決めこんでいたが、突然赤松が犯人変更を要求するにいたって、それに乗じてプラン変更を検討した。

 長迫犯人案なら、アリバイトリックを考える必要はないが、密室トリックを考えねばならない。

 ちょうどその頃、彼は極度の疲労から、階段を登る途中、前に倒れそのままずり落ちていった。倒れざまに保護本能から右手を前に出したので、握っていたボールペンが、階段の段ごとに体に当たった。

「痛っ! 痛って……って、これだ!」


 しかし、長迫犯人案は別の問題をもたらしていた。第五話で放送されていた、長迫の心の声だ。

「……確かに今度の事件は前回の彼女の疑惑を晴らすのにいい機会だ。あきらかに金田兄弟の死は同一犯の仕業だ。もし弟の事件に関し原田の確実なアリバイが確認できれば、二年前の兄の死に関しても彼女は単なる目撃者だと言える。彼女の無実を証明するのは警官から教師に転職した自分にだけできる使命のようなものだ……教師である俺が事件のことを調べるのはどうなんだろう。昔警官だったから、これも生徒のため、学校のためのことだろうか。原田の無実を確認したいというのは、逆に言えば彼女のことを心のどこかで疑っているのではないだろうか……」

 他にも、

「……真犯人が口封じのため彼女を狙う? 金田辰也がもし口封じのため消されたのなら絶対ないとはいいきれない……」

 とあり、彼自身が真犯人であったなら、これらの台詞はおかしい。

 これらの心の声は、考え込む長迫のシーンにアフレコ収録されているので、再放送時やDVD化などの二次利用のための編集は、わずかな音声カットですむ。


 さらに長迫犯人案は、原田犯人案のかなり苦しいアリバイトリックを使わずにすむ。

 その内容は、トイレの窓から抜け出て、用意していた自転車で公園に移動。

 二人の主婦の証言については全体で三十五分かかったことは正しいが、公園まで二十分、そこから十五分と距離比例で進まず、公園まで十五分、そこから二十分と、体力の関係から前半のペースが速かった。

 そこで五分のズレが生じ、実際に公園前で被害者を見たのは二時二十五分。

 主婦達が辰也を見た直後に殺害。慌てて戻り、六時限目の授業に間に合わせたというもの。原田のクラスが何階に映っているか、放送分をチェックして二階とわかり、一階のトイレを使うのも不自然だった。栗田の裕福ぶりを強調するために、長迫を子沢山にしておいたのも、犯行動機に使えた。


 総合的に考えると、原田犯人案で矛盾を残したままにするよりは、長迫案の方が作品価値を落とさずにすむ。すでに放送されてしまった分は仕方がないが、DVD化や再放送などの二次利用ビジネスを考慮すれば、どうしても長迫案に軍配があがる。


 結果、赤松の意見通り、長迫犯人案にシナリオは変更された。

 それが決定されたのは第八話の撮影終了後だったが、すでに八話で証人の主婦を訪れた後の心理描写を、辰也の死が原田が久弥を殺害したせいだとしても、長迫が辰也を殺したことに矛盾しないように気を配っている。

 十話になると、ほとんどわかりかけていたアリバイ崩しをあきらめ、別の実行犯説に移し、犯人長迫登場の準備をしている。


 ブログの反響が大きかった分だけ、それすらトリックだと知った反動なのか、視聴者の反応は全体的に好評だった。TV放送では推理小説のように精読することもなく、録画して繰り返し見るユーザー以外は、素通りしてしまうのだろう。

 前半の長迫の心の声を指摘する意見は少数だった。それでも周囲の思っている以上に、あのドラマは久津川を傷つけていたのだ。


 このドラマは教師役の早紀にも、少なからぬ後遺症を残していた。

 山梨から東京に戻った彼女は、気分が少し落ち着いていたので、しばらく見ることを控えていた芸能速報を見た。もう自分の話題は下火になっているとわかっていたが、それでもあまり乗り気はしない。

 予想通り彼女自身の話題は、主な芸能情報としては扱われてはいなかったが、関係浅からぬある種の訃報に接した。


 ☆ 評判落とし視聴率急降下。Q&え~? 今月で打ち切りに ☆


「え~? 打ち切り?」


 福島の励ましで多少元気を取り戻していたのが、自分にも責任の一部があるかと思うと、これで再び落ち込んだ。私が悪いのかしら?


 気を取り直して、山梨から帰る間に考えていた計画を実行した。

 NY警備のホームページから連絡先をメモし、電話をかけた。警備員個人に関する質問には答えられませんとの返事ももっともだった。自社のセキュリティが甘いようでは、警備会社は務まらない。こうなったら社長の宮田に頼むしかない。


「私のせいで時田さんが仕事降りてしまって、すごく気になってます。あの人には何の落ち度もなかったのに。もう一度社長のほうから頼んでもらえませんか」

 早紀の懇願に対し、電話に出た宮田は理解を示したが、相手側の事情もあるので、すぐどうこうできるとは限らない。でも一応頼んでみるよ、とのこと。

 宮田のほうからも、早紀に頼みがあった。

「ところで早紀ちゃん。充分休暇とって、もう気持ちも落ち着いて来た頃だろうから、小さいイベントの仕事なんかどう? 

 それもメインじゃないから気楽でいいよ。実は斉藤里奈ちゃんがね、CMやるついでにCD出すことになってね。恋のスマッシュヒットって言うんだけど、スマッシュヒットしてくれればいいけどね。それでレコード店でサイン会やるんだけど、事務所の先輩として応援してやってほしいんだ。今話題の先輩にね」

 彼女自身はあまり乗り気でなかったが、早く普段のペースに戻った方がいいと思い、引き受けた。司会者からコメントを求められたとき、応援のメッセージを言うだけだが、人前に出るだけでも気分が高まる。


 二日後、彼女と玉井、里奈と里奈のマネージャーの四人は、イベント会場のサンウィルレコード西世田谷店の近くに用意された臨時駐車場に車を停めた。ファンにわからないように、店内裏口から入ると、主催者側が出迎えた。


 店の裏側は、隣家とフェンスで仕切られており、店とフェンスの間は、従業員駐車場や商品配達のトラックが停まるスペースとなっている。

 建物裏の右側は商品倉庫で、シャッターが降りていた。左端の裏口は常に施錠がされており、中から開けてもらった。

 中に入ると店に続く廊下が前に続いており、右側には手前からトイレ、事務所、従業員休憩室があった。休憩室と店との間にも廊下があり、右側の倉庫に続いている。


 彼女達は事務所で挨拶をし、すぐ隣の休憩室でメークなどの準備をした。

里奈は、テニスルックに着替えると、ラケットを持ってポーズを決めた。

「この間、プロの方に習ったんですよ」

「へえ、それでフォームがいいんだ」

 早紀は、素人判断で褒めておいた。

「お客さん、来てくれるんでしょうか」 

 里奈は不安をもらした。

「大丈夫よ」 

 と、早紀は根拠のない励ましをした。

「そうですね。話題の先輩がいますから」

 里奈は納得した。  


 独立した建物を持つ郊外型のショップとしても、店内は大きいほうだった。音楽関係だけでなくDVDやゲーム、書籍も扱っている。予想を超える二百名ほどのファンが集まり、関係者は行列を整理するのに手間取った。

 イベントがオープンすると、客達は早紀が来ているのに驚いた。彼女自身のホームページのスケジュールには急遽載せたものの、イベント自体の広報としては間に合わなかったからだ。


 司会者はメインの斉藤里奈に挨拶させた後、早紀に話を振るのだが、当然話題はあのことだった。

「さあみなさん、里奈ちゃんの応援ということで、クイズ女王の仁科早紀さんもいらっしゃっております。仁科さん、こんにちは」

「はい、こんにちは」

「私もあの番組見ましたよ。本当は勉強家なんですよね?」

「いえ、そんな」

 会場に笑いがおきた。

「ところで私からも簡単なクイズを出していいですかね」

「え? 聞いてませんけど」

「ヤラセでない証拠です。どうです、みなさん。是非生でクイズ女王の正解するところを見たいでしょう?」

「見たい、見たい」

 という会場の声。

「そういうことですので、お願いします」

「はい」

 早紀はあきらめたが、一瞬、玉井の方を睨んだ。

「それでは第一問……」


 打ち合わせたわけではなかったが、あまりにも簡単な問題のため、はからずしも全問正解してしまった。

「さすが、賞金女王。でもこのクイズには賞金でませんのであしからず。さて里奈ちゃん。準備の方はできましたか? 緊張してる? 誰だって最初はそうです。では、会場のみなさん。大変お待たせいたしました。斉藤里奈さんで恋のスマッシュヒット。どうぞ」

 伴奏が流れ、スマッシュヒットどころか、全国で千枚も売れそうにない歌声が店内に響いた。

「ありがとうございます。会場のみなさん。暖かい拍手、お願いします」

 歌い終わると、司会者の言葉で拍手が響き、里奈は何度もお辞儀をした。

 司会者が彼女に一通りインタビューし、その後、サイン会が始まった。


 用の済んだ早紀と玉井は、休憩室に戻った。

 しばらくして玉井は、主催者の方に挨拶してくると言って、隣の事務所に入った。形式的な挨拶のはずが、話は長引き、隣の休憩室にも笑い声が聞こえてくる。


「それで大変でしたよ。マスコミの方から追いかけ回されて」

「そうですか。実は今日うちにも来るかと、内心びくびくしてましたよ」

 サンウィルレコードの広報部長は、本当に心配していた。

「一昨日、彼女のホームページに予定入れておいたんですけどね。もうそんなに同じ話題ばかり扱うような番組はないですからね」

「でもあのクイズ番組打ち切りですって」

 広報部長の言葉に、玉井は急に真顔になり、

「うちのほうで迷惑かけてしまって申し訳ない気持ちです」と恐縮した。

「私に謝られても」

「そうですね。フフフ」

 その時二人は異変に気付いた。隣の休憩室でおかしな物音がする。そのうえ早紀が、

「やめてください。何するんですか」

 と、抗議する声が聞こえた。二人は事務所を飛び出すと、廊下に出て、隣の休憩室に入った。


「早紀ちゃん、どうしたの」

 玉井は聞いた。

「今、サングラスした人が入って来て、私の口を塞ごうとして……」

 広報部長の行動は早かった。

 早紀が話し終わらないうちに休憩室から出て、裏口を開いて外を確認した。誰もいない。今のタイミングでは、二カ所ロックを外さないといけない、このセキュリティのしっかりしたドアを開けて、外に出て姿を消すのは不可能だ。それに関係者でないとM外し方はわかりづらい。

 彼は中に引き返すと、廊下の突き当りを右に曲がって倉庫に入った。玉井と早紀も付いてきた。


 シャッターは閉まっている。彼らは、商品や販促品が所狭しと置かれている倉庫内をすみずみまで調べた。やはり、彼らの他には誰もいない。

 倉庫と店内とは、荷出しに都合がいいよう、押すだけで開く観音開き扉で繋がっている。事務所や休憩室に行くのも、そこを通るしかない。


 彼らが店内に入ると、何事もなく平穏だった。近くにいた店員の一人に、不審な人物が入ってこなかったか聞くと、知らないと言われた。他の関係者にも当たってみても、誰も見ていないとのこと。


 裏口から一般の人が入るのは不可能だから、店内から侵入した可能性が高い。でも、人目につかずそれができたとは思えない。

 広報部長は部下を連れて、もう一度裏の駐車場を調べた。その部下は裏口から入ってすぐ右、従業員用トイレに注目し、中を見たが誰もいない。しかし、一時的にここに潜んでまた出たのではと意見を言うと、広報部長と玉井は、それなら自分たちも気付くはずだと主張した。


 会場のファンを調べるわけにはいかず、イベントが終わると、主催者側は警察を呼んだ。里奈と彼女のマネージャーは先に帰り、早紀はそのときの状況を警察に説明するはめになった。結果、何者かが侵入し、彼女に抵抗されたので、その場を立ち去ったとまとめられた。


 どう立ち去ったかについては、気付かれないように店内に入って、そこからファンに紛れたと結論づけられた。大きな被害が出たわけではないので、それが実際に可能だったかどうかについては検討されなかった。こうして早紀はますます落ち込むのだった。


 だが、悪いことばかりは続かない。しばらくの間忘れられていたストーカー被害がこうして現実のものになって、身辺警護の必要性が再度認識されることになった。社長の宮田は、懇意の警備会社に頼んで、再び時田を彼女の警護に就けることが決まった。

 

「どうもあの時はご迷惑をおかけしました。また呼んでいただいて、ありがとうございます」

 約一ヶ月振りの再会に、時田は丁重だがリラックスした様子で挨拶をした。

「私の方こそ、警備員さんが止めてるのに無茶してご迷惑かけました」

 早紀の方は、心から反省しているようだ。

「二人とも堅苦しい挨拶は抜きにして、早く車に乗って。忍ちゃん待ってるから」

 玉井に急かされ、真壁家に着いたが、そこでいろいろとあった。

 帰国したばかりの真壁忍の両親は、娘が端役ながらTVに出たことで、意見が対立していた。早く結婚させたい父親と彼女の自由にさせてみようという母親は、自然早紀達に対する態度も違っていた。真壁家を後にすると、そのことで忍は車内で早紀に謝った。


「ごめんなさい。無愛想な父で」

「忍のパパ、何かあったの?」

「仕事なんかやめて、早く結婚しろってうるさいのよ。それでお見合い無理に薦めてくるの」

「私みたいに断ったらどう」

「早紀のはお見合いじゃなかったでしょう?」

「そういえばそうね」

「条件よかったんじゃないの。会うだけ会っておけばよかったのに」

「興味ないし~」

「だったらその人私に紹介してよ」

「もう断っちゃったからダメ」

「もったいないなあ」

「どうしたの、忍。そんなにお見合いしたいの?」

 忍は落ち込んだ様子で、

「私、早紀と違ってそんなに大した仕事してないし、それを父に強く言われるとつい弱気になって。でも、私だってそれなりに頑張ってるわよ。だけど、結果が出ないのは事実だし」

「忍ちゃん。だったら今日赤松さんのご機嫌とって、もう一回お仕事もらいましょう」

 といって、玉井が忍を慰めたが、

「赤松さん、もう制作から外れたんじゃない」

 と早紀が言うので、玉井は、

「視聴率良かったのにそんなことになるわけないでしょう」

 と言い返した。

「現場の人が、あの人にどれだけかき回されたか、ミッチーも知ってるでしょう。現に私だって」

「早紀ちゃんは、赤松さんのおかげでお金持ちになったじゃない」

「お金持ちになったって言ったって、自分のお金じゃないみたいで、好き勝手に使える気分じゃないわ」

「自分のお金だから、使えばいいじゃないの」

「でも、また週刊誌が取材するかもしれないし」

「そしたらますます有名になって、仕事増えるでしょう?」

「もうあんな生活二度といやだから」

 時田が珍しく二人を制した。

「もう無意味な議論は止めたらどうですか」

 二人は「はい」と言って大人しくなった。時田は、

「すいません。出過ぎました」と反省した。


 彼らが喫茶アルタミラに到着すると、歓迎バニラカフェ一同様、とマジックで書かれたパネルが入り口に掲げてあった。さすがに撮影で使ったコーヒーカップの看板は今はなかった。警備員の時田は、遠慮したのか店の前で別れた。

「近くで一人で時間潰してますので、終わったら連絡してください」

 店の中には、ヒロイン中井まどか、主演糸井純、巨漢林守、悪役ニールセンと中井のマネージャーがいた。肝心の赤松民雄はまだ来ていなかった。

早紀達の姿を見るとニールセンが、

「フハハハハ。飛んで火にいる何とやら」

 という例のセリフを口にした。

「もう、ニールセン。それ止めてよ。視聴者の評判悪かったじゃないの」

 早紀が抗議した。

「この台詞、赤松さんが考えたんだから、悪く言わないでよ」

 とニールセンが言うと、

「俺、本当はこの台詞言いたくなかった。ニールセンのおかげで助かったよ」

 と、林が裏話を暴露した。

「子役の子達は?」

 と早紀が聞くと、中井のマネージャーは、

「遅くなるのはまずいそうです」と説明した。


 それから玉井は、中井のマネージャーと業界情報の交換を始め、忍は早紀の隣に座った。

「まどかちゃん、あれ歌ってよ。ほらドラマで歌ってたじゃない」

「俺たちが合唱するから」

 早紀と林は、中井にカラオケを勧めた。

 彼女は薦められた曲を歌った。歌いながら番組のシーンが浮かんでくる。何故だかわからないが今の彼女と重なってくる。

「どうしたの、ひつじ子。涙なんか流して」

「え?」

「仁科、中井をいじめるなよ。こんな状態で泣けるわけないだろう」

「でも、まどかちゃん、赤松さんのこといじめてたわよ」

 糸井は鼻で笑うと、

「聞きたいな」と興味を示した。

「そんな。私なんかがプロデューサーさんにイジメなんて……」

 と、中井は否定する。


 早紀の目が輝く。中井に、どうしても聞いてみたいことがあった。

「だってまどかちゃん。犯人役が嫌だから、わざとブログで騒動起こしたんじゃないの? ついうっかり発言ならあるかもしれないけど、大勢の人が見るブログで、私が犯人だなんて書き込みするなんてありえないでしょう?」

「それで犯人役が代わったって? 偶然だろう」

 糸井は、早紀の説に半信半疑だ。栗田を演じた彼も、推理能力は人並みだ。

「それでまどかちゃん、赤松さんに言ったの。犯人がわかってるミステリ作品なんて、わざわざ観る価値ありますか。確かに私のミスですけど、今なら犯人が他の方に代わっても、まだ間に合うんじゃないですか。アリバイ崩しの探偵役が実は犯人で、自分のアリバイ崩してたなんて面白そうですけど」

「実際に見たみたいに言うけど、それは仁科の推測だろう」

「確かに推測です。でも赤松さんって話が長くて支離滅裂だけど、本当に言いたい事は長い話の最初の部分だけで、それさえ注意していればコミュケーション取れるって、まどかちゃん言ってたわよ」

 糸井は驚いて中井の顔を見た。普段は黒目ばかりの目を大きく見開いて、白目を見せているので、別人の様な印象だ。 

 早紀はいよいよ饒舌に。

「それだけじゃないわ。林さんとキスシーンがあるの嫌だから、視聴率が下がると言って取り消しさせたし、このカラオケのシーンも、自分が今度出す新曲のアピールのため撮ることになったの」

 中井はうつむいて涙をこぼしている。その場は凍りついた。そのとき林守の怒りに満ちた声が、早紀に向かった。

「女の子泣かせる奴は、死んだ方がましだぜ」

「失礼ね。私も少し年はとってるけど女の子よ」

 中井のマネージャーが、

「仁科さん。ここは落ち着いて」となだめた。玉井も、

「まどかちゃん。ごめんね。早紀ちゃんどうかしてるの」と中井に言った。

 中井は涙を拭うと「ひどい」と言って、入り口から走り去った。

「まどか」

 林が、中井を追いかけて出ていった。

 早紀と同程度の身長のニールセンが、前に立つと、

「いい加減にしろ」といって、早紀の頬を平手打ちした。

 早紀は、ソファの上に顔を伏せ泣き出した。

「ごめんなさい。みんなまどかちゃんばかりで、私のことなんかちっともかまってくれないから」

「早紀、一体どうしたの?」といって、忍は泣ききむせぶ彼女の体を揺さぶった。

 玉井は唖然としている。

 糸井は鼻で笑った。

「みなさん、下手な芝居はもうよしたら」


 林と中井は、すごすごと店内に入ってきた。

「まどかちゃん、この人には通じないって言ったでしょう。本当、役の栗田と同じでいつも冷静なんだから。あの栗田って糸井純自身みたい」

 と、早紀が中井に言った。

 中井はバツが悪そうに笑い、話題をそらそうとした。

「そういえば、赤松プロデューサー遅いですね」

「ところでサイパン旅行ってどうなったんだ?」

 ニールセンの質問に誰も答えなかった。

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