第15話 私にハートスマイル?
いろいろと問題を起こしたものの、バニラカフェの最終回の撮影が無事終わった。
打ち上げパーティは、一流ホテルの大広間を貸しきって行う予定だったが、アルコールが入るという理由で、未成年であるヒロインの中井まどかや女子生徒役の大半は不参加。主役の糸井も、映画の撮影を理由に断ってきた。
主役が来ないなら自分が行くのも変だといって、主要キャスト達は、適当な用事をこしらえ、結局、取りやめになった。
早紀も、パパラッチに追われている身では、みなさんに迷惑をかけるといって、参加を断っていたが、実際、この頃には、マスコミの追求も一段落しており、彼女は忍の家を出て、自分のマンションに戻っていた。
福島は、そんな彼女をねぎらおうと、富士山麓ハイキングに誘っていた。
資産家の彼は、近くに別荘を構えていた。これに忍、時田も共に参加することになり、早紀は衣服や道具を買い揃えた。単なるハイキングなのに、遭難したときのために、非常食や薬類一式まで準備し、福島のログハウスに向かう予定だ。
当日の朝早く、時田が迎えに来た。ドアを開けると、真新しいハードシェル、トレッキングパンツ、トレッキングシューズで身を包んだ彼が立っていた。登山経験があるといいながら、わざわざ新調したのだろう。
今まで警備服やスーツ姿の彼しか知らないので、早紀は新鮮に感じた。
「警備員さんじゃなくて、山岳警備隊みたい」
「自分の場合はあくまで仕事ですから」
「そんなこと言わないで、最近ストーカーも出ないし何も起こりそうもないから、遊びに行くつもりで楽しんでください」
「はい。できるかぎり」
それでも時田はやっぱり時田だった。忍も乗っているので、後部座席は賑やかだったが、早紀の車を運転する彼は、いつも通り無口だ。
「確かに二千万円も使うの大変ね。これまでそんな高い買い物したことないから」と早紀。
「世間の人だってすぐに忘れるから、しばらく取っておいて、ぱあっと派手に使いましょう」
忍は、人の賞金をどう使うかで、頭がいっぱいだ。
「でも、またそのことが取り上げられたら」
早紀にとって、賞金はトラウマになっている。
「もう取材陣来てないんでしょ。一時はあれだけ来て、時田さんも大変だったのに。ねえ、時田さん」
「いえ、そういう内容の仕事ですから」
混雑している交差点に差し掛かり、運転手は後ろのおしゃべりに気をとられないように、ハンドルに意識を集中する。
「さすが一流のボディガード。私もボディガードが付くような身分になってみたいな」
B級モデルの忍は、知名度を急に上げた友人に少し嫉妬していた。
「私だってそんな身分じゃないわよ。ここのところ大変だったので、警備員さんにいていただいたんだから」
「と言うことはこの先、時田さんはクビ?」
「私が言ってるのはそういう意味じゃなくて」
「それより二千万で二人で台北にでも行かない? あっ、二人じゃなかった。ボディガードさんも同行させなきゃ」
「台北ね。でも空港以来、サムのことあまり考えなくなったかな」
「早紀、最近変わったって、玉井さんも言ってたわ」
「私が変わった?」
「そういうこと、本人はあまり気付かないかもしれないけど、周りの人はわかるのよ」
「私のどこが変わったのよ」
「撮影で嫌なことがあっても、文句言わなくなったって。身近にいる時田さんも、早紀変わったって思いません?」
「はい。しっかりされていて、自分がいなくてもいいのかと」
「そんなこと言わないでよ」
「ちょっと、あのお店おしゃれじゃない?」
忍は、道路沿いのハンバーガーショップを見ていった。「寄っていかない?」
「おいしそうだけど、向こうでバーベキューできなくなるけど」
早紀は乗り気でない。
「大丈夫。バーベキューは別腹だから」
忍は、どうしても立ち寄りたいようだ。
福島のログハウスは、一般的な切妻屋根の平屋建てで、忍がイメージしていたほど大きくはなかった。普段は一人しか暮らしていないが、数名の来客に対応できる造りになっている。
忍のわがままであちこち立ち寄ったせいで、予定より大幅に遅れて到着した。暗い中、バーベキューを行い、それからすぐに睡眠となった。
丸太作りのベッドの上のマットは薄く、初めての忍には寝付きにくい。そこで彼女は、やたらと早紀に話しかけてきた。
「最後に食べたピザもおいしかったよね? ねえ、聞いてる?」
「もうわかったから。いい加減話すの止めて寝ましょう」
早紀は目を閉じたまま、苦情をいった。
「えっ、せっかくこんな自然の中にいられるのに、寝たらもったいないでしょう」
屋内にいても、丸太の壁は味わいがある。
「そんなこというなら、外で寝てよ」
「外は暗いし、寒いし、寝られるわけないでしょ」
「もう、何言われても話さないから。話しかけないで」
早紀がそういったので、忍は口を閉じた。すると、
「急に黙りこまれても、さびしいんだけど」
「もう、一言もしゃべってあげない」
「忍の意地悪」
「そっちが悪いんだから、一言もしゃべってあげない」
「そんなこと言わずに、何かしゃべってよ」
「だから、何もしゃべらないことに決めたの!」
忍と早紀の寝坊で、予定が随分遅れた。しかも自然の中を歩くのが目的なのに、忍が化粧に時間をかけたため更に遅れた。
そして、福島のワゴン車で四人は、隣だが県をまたぐ富士宮市に向かった。
麓の駐車場に車を停めると、福島は早紀の荷物を見て注意した。
「それにしても、早紀ちゃんのリュック一杯だけど何入れてきたの?」
「カンパンとか風邪薬、傷薬、それと……」
「要らないものは重くなるだけだから、車に置いていった方がいいよ。もちろん鈴は持って来たよね?」
「鈴って?」
「最近この近くで熊が出たから、鈴を鳴らしながら歩いてくださいって注意が出ている」
「冗談でしょ?」
「冗談じゃないよ」
福島はにやにやしていたが、時田が、
「自分も聞いたことがあります」
と言ったので、早紀は怯えた。
「えっ、福島さんは鈴用意してるの?」
「僕も忘れたよ。でも出没場所とルートが外れてるから大丈夫だと思う。それにいざとなれば死んだ振りするから」
いつも福島は、自分で冗談を言うときは、静かに笑うのだった。
当初の予定は、四人で猪之頭から南西に続く東海自然歩道を歩く緩やかなコースだったが、時田と二人きりになることを画策していた忍が、ある提案をした。
「毛無山登山と猪之頭自然歩道の二チームに別れて競争しましょう」
彼女の案によると、片方は予定通り、東海自然歩道を猪之頭、小田貫湿原経由で田貫湖キャンプ場に着いたら来た道を引き返すルート。もう片方は、毛無山登山で帰りに地蔵峠を経て戻るルートだ。
どちらも一般的な所要時間は、五時間半と同じだが、自然歩道チームは、その名の通り平坦で初心者向き、毛無山ルートは険しいので上級者向きだ。
「じゃあ僕は時田さんとチーム組むよ」
「それじゃあ不公平よ」
言い出しっぺの忍は、福島の意見を認めない。
「男女のペアね。どう組む?」
「各自の希望よね」 と早紀。
「僕は楽な方で行くよ」
何度も来ている福島は、チャレンジしようとしない。
「じゃあ私は山登りで」
忍は駆け引きに出た。
「私もせっかく来たんだから山がいい」
早紀も意見を言った。
「自分は仕事で来ているので、仁科さんと一緒に行きます」
四人の意見をまとめると、忍があきらめることになった。
「時田さん。大丈夫?」
ベテランの福島は、時田を気遣った。
「本格的な登山も何度か経験ありますので」
「そう、それなら安心だね。何しろ警備員さんだからね」
こうして二組の男女ペアによる、競争が始まった。
忍のせいで睡眠不足気味の早紀は、あくびばかりしている。時田は無言で彼女の後を付いていく。
四十分ほど行くと、不動の滝が見えるのだが、その頃には早紀は、すでに疲れている感じだった。
「一休みしましょう」
時田は、木々の隙間から見える滝を見上げて言った。
「こんなところで休んでいたら負けるわ。先に進みましょう」
と、睡眠不足の彼女は張り切っている。
そこからの登り坂はきつい。
「大丈夫ですか? ペース落としましょう」
時田の言葉も耳に入らないかのように、早紀は進む。口数も少ない。
時田は、自身も疲労を感じながら、闇雲に進み続ける早紀の体を気遣っていた。
登山道も九合目を超えると、平坦な道が続く。頂上までもう少しだ。
「やっと着いた」
それまで黙っていた早紀は、嬉しそうに叫んだ。
山彦が返って来るのを期待するかのように、遠くに声を放った。
「毛無山の頂上から見る富士山って素敵」
毛無山の頂上からは、霧に浮かぶ富士山が見える。
「こちらにして良かったですね」
時田も感慨深げだ。体力に自身がある彼も、腰を下ろし息を整えた。しかし、早紀は、来た道をすぐに引き返し始めた。
「もう行くんですか?」
真剣に勝負に勝つことを考えている早紀は、返事をしようともしなかった。
自然歩道ハイキングチームの方は、出発してすぐのところにある麓の吊り橋から、富士山を見て立ち止まっていた。
「吊り橋から見る富士山って素敵」
忍はチーム編成が目的だったので、自分から言いだした勝負には興味がなかった。
「福島さんって、いつも自宅から富士山が見えるんですね」
「何しろ近いからね。それもあそこを選んだ理由の一つだけど、僕としてはたとえ富士山がなくても東京を離れて地方に暮らしたかったんだ。でも会議やら何かで東京からそんなに離れるわけにはいかず、この辺りがベストかなって思ったんだ」
「へえ。写真撮りません?」
「いいね。じゃあ僕がカメラマン」
平坦なコースを選んだ二人は、毛無山チームとの勝負のことなど忘れてしまっていた。
「ここからの下りは急ですから、気をつけてください」
登山経験のある時田は、初心者の同行者に注意した。
毛無山チームの帰りは、行きと同じコースを通らず、さらに進んだところにある地蔵峠経由で麓に戻る予定だ。地蔵峠から約百分の道は、急な下り坂で、登りに劣らぬ厳しい道のりだ。
ロープをつかんだり沢を渡ったりして降りていったが、やはりペースが鈍くなっていた。そして峠からちょうど半分ほどのところでそれは起こった。
時田の前を行く早紀は、ふらついたかと思うと、突然崩れ落ち、膝を曲げて倒れた。手をついたにもかかわらず、坂道のことで一メートルほど下にずり落ちた。
「危ない。大丈夫ですか」
時田が彼女の上体を抱えて起こしたが、彼女は疲労と倒れたショックで、視点がはっきりしない。
時間が遅かったので、二人の他に通りがかる人もいなかった。午後五時近くなって、陽も傾いている。残りの道のりは少ないが険しい。ここでしばらく休ませて、彼女の体力の回復を待ちたいが、暗くなると降りるのが困難になる。
そうしているうちに時田は、早紀の体がしばらく動いていないにもかかわらず、熱いままだということに気付いた。
額に手を触れてみると、熱い。
風邪薬を持って来たと話していたのを思い出し、彼女のリュックから薬を探した。
見つからない。福島に荷物を軽くするよう言われて車に置いてきたのだ。
「警備員さん。ごめんなさい」
彼女は目を閉じたまま、迷惑をかけたことを謝った。
「いえ。お気を遣わずに」
早紀は、目を開き、上体を起こした。これ以上迷惑をかけてはいけないと思い、自分の力で起きあがろうとする。
「無理しないでください」
時田が心配して止めたが、早紀は彼に支えられてどうにか立ち上がった。
足を前に出すが、下り坂のためバランスをくずしそうになる。彼女の意志を感じ取った時田は、必死に支えながら、急な坂道を降りていった。
山登りチームが苦難の道を歩んでいたその頃、自然歩道チームは、道の脇にある陣馬の滝を見ながら休んでいた。その名は源頼朝が陣を張ったことに由来する。
「時間も遅いし、もう戻ろうか」
福島の提案は、忍の耳に心地よく響いた。
「ゴールしてないけど、ゴールしたことにしましょう」
二人は目的地に到着する前に、来た道をそのまま引き返した。
麓に戻った二人が、ワゴン車のクールボックスからアイスコーヒーを取り出し飲んでいた時、向こうから時田が一人で歩いてくるのが目に入った。
よほど疲れたのであろう。その足取りはおぼつかなく、今にも倒れそうだ。
「負けチームのご到着かな」
近眼の福島は、異変に気付いていない。
「あれ時田さん、早紀のこと置いてきたのかな。なんか様子が変」
時田の様子がおかしいので、忍は驚いてコーヒーをこぼした。
日も暮れて暗かったので、遠目にはわからなかったが、時田は一人ではなかった。
二人が時田のところまで走っていくと、時田の肩の向こうに目を半分閉じている早紀の顔が見えた。彼女に何かあったのか。
「どうしました?」と忍が聞いた。
「途中で倒れられて」
時田は、息も絶え絶えにそう答えた。
二人が早紀を支えると、時田は、息を切らしながら膝と両手を地面に付けた。
「すいません。自分の不注意でこんなことに。仁科さんをすぐ病院に」
「怪我したの?」
忍は心配して聞いた。
「途中で倒れられて。自分が付いていながらすいません」
「いえ、私が悪いの。無理して勝とうとしたから」
早紀も無理をして声を出した。福島は咄嗟に状況を把握し、
「わかった。すぐに連れて行く。時田さんも病院に行ったほうが」
といって、二人を気遣った。
「自分は疲れただけですから、仁科さんを」
福島と忍は、車まで早紀を運び、福島はそのまま病院まで運転していった。
忍は、仰向けに横たわっている時田のところに、スポーツドリンクを持っていった。
「すいません。ゴホッ」
時田は、寝たままの姿勢でペットボトルを口にし、喉につかえたのか咽せていた。
早紀が病院のベッドの上で目を覚ますと、涙ぐむ忍の顔が目に入ってきた。
「ごめんなさい。私があんなこと言わなければ、早紀がこんな目に遭わずにすんだのに」
頭がぼうっとして、彼女の言うことがよく理解できなかったが、自分が山で体調を崩したのは覚えていた。
「今何時?」
外は明るい。
「そうね、わからないのも無理ないわね。あれからずっと寝てたんだものね」
早紀が病室の時計の針を見ると、二時十五分を指している。外の明るさからして午前ではない。
「えっ、福島さんや警備員さんは?」
早紀が聞いた。
「福島さん、一旦戻られてまた夕方来るそうです。時田さんは玉井さんと一緒だと思う」
「ミッチー? 来てるの?」
「早紀が病気だと聞いてすぐに駆けつけてきたわ」
「私、病気なの?」
「疲労が重なったらしくて、しばらく安静にしていればよくなるそうよ。この頃ストレス溜まること多かったでしょう。それを解消するためのハイキングなのに、逆効果になってしまったけど。とにかく私が悪いんだから、本当にごめんなさい」
忍は頭を下げた。
「いえ。忍は別に悪くないわ」
「ありがとう。早紀が目を覚ましたって、玉井さんに言ってくる」
そう言って、忍は病室を出て行った。
一昼夜に及ぶ睡眠が効いたのだろう。早紀は多少熱っぽいのを除けば、自分が病人だと思えないほど体が軽く感じられた。
彼女はベッドから降りて、窓際から外を見た。駐車場に早紀の愛車が停まっているが、その側で玉井と時田が会話をしている様子だ。いくら視力のいい彼女でも、口の動きから会話の内容を知ることはできないが、時田は玉井に何度も深く頭を下げている。
彼の性格からすると、自分が付いていながら、早紀をこんな状態にしてしまったと、詫びているのだろう。二人は別れて、時田は病院の駐車場から歩いて出ていく。玉井は病院内へ入ったのだろうか、姿が見えなくなった。
しばらくすると、玉井が病室に入ってきた。
「あれ、早紀ちゃん。目覚ましたの? 病人は寝てなきゃだめじゃないの」
「忍と遇わなかった?」
「いいえ」
「警備員さんは?」
「時田さん、責任感じてこの仕事降りるって。東京に帰られるんで、今駅に向かわれたところ」
「えっ、どういう事?」
「私も止めたんだけど、早紀ちゃんに会わす顔が無いって。申し訳なかったって何度も謝ってらしたわ」
「警備員さん、何も悪くないじゃないの」
「私もそう言ったんだけど。それでも責任感じられて。もう自分のことは忘れてくださいって、早紀ちゃんに伝えてって」
「それって、これから警備員さんがいなくなるってことよね」
「このごろストーカーも出ないし、マスコミも静かになったからね、警備員さんももう自分は必要ないって思われたのかも」
「そんな。それならせめて挨拶くらい」
「早紀ちゃんの顔見るのが辛いんじゃない」
早紀は、自分が寝ていたベッドの周りを調べながら、
「私のスニーカーどこ?」と玉井に聞いた。
「ベッドの下だけど、ジュース買いに行くならスリッパ使えばいいじゃない。それより私が買ってくるから、病人は大人しく寝てなさい」
早紀は靴を履くと、ドアのところまで行き、ノブに手をかけ、
「どこの駅?」
と、玉井の方を振り向かずに聞いた。
「そこの道、南に行ったとこだけど、どうする気? まさか」
「ちょっと出かけてくる」
早紀はそういい残すと、パジャマのまま病室を飛び出した。
「待って、まだ安静にしていないと」
玉井が追いかけるが、相手は病人のくせに足が速い。
「看護婦さん。彼女止めて!」
廊下にいた看護師は、事態を把握できなかった。
早紀は、二キロ南にある西富士宮駅に向かって走っていく。若い女がパジャマのまま駆けていく姿に、通りがかった人は誰もが驚いた。玉井も追いかけるが、追いつきそうにない。
早紀は駅舎に近付いた。今、列車が到着したのだろう。改札口から数人の乗客が出てくるところだ。
彼女は改札口を強行突破し、ホームに入った。列車は動き出したところだ。彼女は驚いた駅員に追いかけられながら、ホームを列車と同じ方向に走った。
「警備員さ~ん」
彼女の大声に車内の乗客達も振り向いた。その中に時田もいた。彼は立ち上がり、彼女の姿をとらえながら通路を進行方向とは逆に進んだ。車両の最後尾に着いたとき、窓に両手を貼り付け、彼女の方に会釈した。
早紀はホームの端まで来たとき、車内から彼女を見る時田に向かい、両手でハートマークを作り、顔の前に持ってきて笑おうとしたが、笑顔は作れず、そのまま泣き崩れた。
列車は去っていく。
「お客さん、切符買ってから乗ってください」
ホームの端で両手を着いて泣いている彼女を、駅員が注意した。
彼女は泣きながらも、「わかりました」と素直に答えた。
それからすぐ玉井が追いつき、駅員に迷惑をかけたことを謝罪し、タクシーで早紀と病院に戻った。忍と玉井が慰めても、彼女はベッドの上で上体を起こしたまま、無言で窓の外を見ていた。
夕方、福島が来ると四人は今後の事について話し合った。福島が、早紀が退院しても、しばらくは彼のログハウスに滞在したほうが精神的にも良いだろうと提案すると、玉井も忍も賛成した。
早紀自身は、そのことに意見を言わなかった。早紀がこうなったことに責任を感じていた忍だが、玉井と福島の説得で、翌日東京に戻り、玉井も早紀が退院次第帰京することに決まった。
病院を後にする際、福島は早紀の病室の窓を見上げた。彼女の姿は見えなかったが、外は冷えているのに関わらず窓は開いていた。
……君は大人に成りきれてない分、ずっとピュアなんだ。運命は君を成長させるために僕を用意したのかもしれない。やがて大人になった君は、僕を必要としなくなるだろう。いつか君は僕を卒業する日が来る。その時運命は君の前に、君にふさわしい人を用意するだろう。君はまだ気付いていないかも知れないが、その人はすでに君の目の前にいるのかも知れない……君は心の底で知っているはずだ。その人が誰なのか。自分に正直になってごらん……。
数日で退院した早紀は、福島の提案通りログハウスで時間を過ごした。田園の環境は素晴らしかったが、福島の手料理を食べても、彼女は以前とどこか違っていた。
「体調はまだ完全じゃないみたいだな。お医者さんはもう大丈夫みたいなこと言ってたけど」
福島にそう言われて、彼女は無理やり笑顔を作った。
「ううん。熱も下がったし、どこも痛くないから。亘さんがそう思うからそう見えるのよ」
「そうかな。それならいいけど。まあ、ここにしばらくいればすっかり癒されて元気になるよ。あのハイキングだってそれが目的だったんだから」
彼は、契約している近隣の農家が届けてくれる有機野菜を生ハムに包み、これも近くの雑貨屋で購入した手製の和風ドレッシングをかけ、口一杯に頬張った。
いつもならそんな彼の顔を見て笑う彼女だが、その日は機械的に焼きたてクロワッサンを噛んでいるだけだった。彼女の最大の特徴が失われたようで、
福島は、そこにいるのが別人の様だと感じた。
それで、できるだけ以前の元気な彼女に戻ってもらおうと、釣りに誘った。 彼女は、感情のこもっていない声で受諾した。
隣の山口湖の人気で、最近は混み合うことの少ない河口湖は、まだシーズン始めということもあり、静かに時間を過ごすには持ってこいの場所だった。
ボート屋で借りた舟に乗って湖面に糸を垂れる早紀は、ぼうっと水面のきらめきに見とれて、釣りをしていることを忘れているかのようだった。
「もうそろそろかかってるんじゃない? 引いてみたら」
福島に促され彼女は、
「あっ、いけない」といって、小さな竿を引き上げた。
一匹もかかっていなかった。
「クイズ番組で運を使い果たしてしまったみたい」
彼女は、久々に自然な笑顔を見せた。
結局、わかさぎ六匹がその日の収穫だった。
ログハウスの外で飯盒の飯を炊きながら同時に魚もあぶり、遅めの昼食を用意する。その火を見つめながら彼女は独り言の様に、
「亘さん、結婚してください」といった。
福島は、彼女が何を言ったのかよくわからなかった。
「えっ、何?」
「結婚しましょ」
「? はい?」
早紀は、福島の方を見てはっきりと言った。
「福島亘さん。私と結婚してください」
「どうしたんだい? 急にそんなこと言い出して」
「急でも何でもいいから結婚しましょう」
「本当に僕と結婚したいの。何かから逃げ出したくてそう言ってるんじゃない?」
「逃げる?」
自分は現実から逃げようとしているのか。福島の指摘に、彼女は混乱した。
「そう、自分自身で気付かないうちに、その何かを避けようとする。そして結婚すれば全てが解決するような気がする。でもそんな状態で結婚したとしても、結局何も変わらないじゃないかと思う」
「私、何から逃げてるの?」
「僕は君じゃないからはっきりはわからない。ただ、今一番気にかけていることは、何なのか考えて見るんだな。あっ、魚焦げないように気を付けて」
「あっ、ごめんなさい。今一番気にかけていること……」
「当然わかっているよね。ハイキングに行く前と今とで何が一番変わったか」
早紀は黙った。そしてしばらくして言った。
「でもそれはどうしようもないことだから」
「そのどうにもしがたいことを避けて、僕との関係に新しい可能性を見いだそうとしていたんだろう?」
「そうかも知れない」
飯盒が泡を吹いているので、彼女は木の小枝で火から外した。
「そうして自分自身の運命を僕にゆだねようとしている。一時の安心を得たいがために」
「どうしてそこまで言うの?」
福島の言うことは当たっているのだが、彼女はより婉曲な言い方を望んだ。
「そうすれば結婚という幻想にしばらく酔うことができる」
「結婚って幻想なの?」
「僕との結婚は、君の今抱えている問題を解決することにならないと言っているんだ」
「私の抱えている問題」
「君の目的」
「私の目的?」
「心の奥にしまってある願望のこと。自分自身でもそれに気付いていないかもしれないけど」
どうしていつも彼はわかりにくい表現を好むのだろう。
「どうすればそれがわかるの?」
「自分自身に質問をしてみるんだ。例えば僕との結婚を心から望んでいるのか、それともそれを望みたいと思っているだけなのか」
「それを望みたい?」
彼女は、魚の焼け具合がちょうどいいので、火に気を付けながら、串ごと地面から抜いた。
「結婚を望むことで、他の人に対する気持ちをうち消しごまかすことができるとか」
「……」
「僕との結婚をあきらめてみて、しばらく自分を観察してみるんだ。それでほっとするようだったら、それは君の本当の目的ではなかったということだ」
早紀は、福島の話に興味を覚えて、
「もう少し詳しく話して」と頼んだ。
「世間というものはいろんな事で他人を操ろうとする。お金、名誉、広告、正義、競争、常識、賞賛、快適な生活、数え上げればキリが無い。そしてほとんどの人はそうした価値観に動かされ本当は欲しくない物を買い、やりたくもない仕事に就き、同じように自分以外の人間にもそう望むようになる。それでも一部の成功した連中は表面的な満足を得るかもしれない。でも本当は心の底では望んでいない人生を送ってるだけなんだ」
「言ってることはわかるわ」
「結婚や恋愛だって例外ではない。世間的な価値観に支配され相手を選択する。意地悪な言い方をするが、僕がもし借金で追われたホームレスだったら、君は僕の側に居ただろうか」
「私は……私は、亘さんと最初に会った時お金持ちだとは知らなかったし、気ままな暮らしをしてるちょっと変わった人かと。でも、あなたの言ってることも当たっているかもしれない」
「君が本当に心にかけている人は、世間的な価値観からすれば君と不釣り合いかもしれない。その価値観や理屈のせいで、君はその人のことを無意識のうちに忘れようとしている。でも魂は心の底で叫んでいる。自分の心に聞いてみるんだ。君がよくやっているハートの中に答えはあるんじゃないか」
そう言って福島は、早紀がよくやるように両手の指でハートを作り軽く微笑んだ。
「ハートの中に?」
「ハートを通して見るとその人のいいところが見えてくると前に言っていたね。僕はどう見えるのかな?」
「亘さんは、私に何かを教えてくれる先生のような存在……そして」
「そして?」
「私を次のステージに導いてくれる」
「買いかぶられたな」福島はにやりとした。「じゃあ次の質問。今君の心に描くハートの中には誰がいる?」
「え~? 心のハートってダブってるような」
「そう言われてみるとそうだね。では言い方を変えよう。目を閉じて今気になっている人物をハートマークの中に描いてごらん」
早紀は言われた通りにした。
「どんな気がする?」
「特には何も」
「次にハートの中からその人が消えたことを想像してみましょう。どんな気持ち?」
早紀は目を開いた。
「亘さんの言っている意味、わかったような気がする」
「わかったんだよ。答えが。僕には言わなくてもいいよ」
「ありがとう」
「次にどうするかも決めたんだね」
「ええ」
「じゃあ冷めるから早く食べよう」
早紀は、福島より先にひとりで東京に帰ることにした。食事が終わると、荷物を自分の車に運んだ。その顔は晴れ晴れとしていた。
そのとき、福島の手には、一眼レフカメラがあった。
「早紀ちゃん。今の君を写真に収めたい」
「ええ。どうぞ」
福島はカメラを構えた。そして愛車の前で髪をかき上げセクシーなポーズを決める彼女に注文した。
「そんなんじゃなくて、いつものハートスマイル」
「え? 何か照れくさい」
「普通はさっきのポーズの方が照れくさいだろ。とにかくありのままの君が撮りたいんだ」
そして、早紀がありったけの笑顔でポーズを作ると、福島はシャッターを押した。
「いろいろお世話になりました」
「いや。僕の方こそ君からいろいろ教えてもらった気がする」
「それ逆です」
「そうかもね」
福島は笑った。
「それではまた」
早紀が車に乗り込もうとすると、福島が呼び止めた。
「早紀ちゃん」
彼女が振り向くと、福島は彼女がそうしたように両手でハートマークを作り、その中から彼女を見ていた。
「君が見ていたハートを通した世界。僕にも見えるかな」
そう言って彼は微笑んだ。
彼女の車が見えなくなった後、昼食の後片づけをしながら、彼は思った。
……君が見るハートに満ちた世界は、僕には見えなかった。でも僕の心のハートの中には、いつも君がいた。あるときそのハートから君の姿を消してみたんだ。漫画みたいにハートにヒビが入った気がした。だから僕のハートの中には、これからもずっと君がいるんだ。君のハートの中には別の人の姿が映っていようとも。そんな大人に成りきれていないピュアな君も、僕を卒業する日が来た。僕はまだ君を卒業できないけど……。
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