第6話 連続ドラマ「バニラカフェ」 第三話「それぞれの秘密」

「ねえ、栗田さん、また尾行してるけど何が目的?」


 高校三年にしては顔も声も幼い白井みちるは、帰りの通学路で一緒にいた二人に聞いてみた。

 彼女が三年になってから毎日のように、長身の栗田京平が後方を尾行している。

 尾行していると言ったのは、こちらが進むと彼も進み、こちらが止まると進むのを止め、そこにたまたまあった電柱の広告や飲食店の看板メニューなどを読むふりをしているからだ。


 家が同じ方向の徒歩通いの三人組は、一緒に帰ることが多かった。特に原田羊子は、他の二人を待ってでも一緒に帰ろうとする。一人きりで帰るのを恐れているかのようだ。

 他の二人が小さいので、三人で並ぶと長身に見えるが、彼女自身は一六〇センチくらいだ。黒目が大きく、仲間からはひつじ子と呼ばれている。


「私も気になってた。何か気持ち悪い。ひつじ子、心当たりない?」


 白井よりもさらに幼くみえる伴紗英も、同じ意見だった。

 原田は、原因が自分にあることは知っていたが、仲間には伏せておいた。

「特にないけど……みちるなんか小学生みたいでとても可愛いから、つい足が向かうんじゃない?」

「えっ、そうかなあ。でも、紗英の方が子供っぽいけど」

「私のどこが子供っぽいのよ。みちる、まだ十七でしょ。私もう誕生日すぎましたからね。車の免許、とれる年ですからね」

「それより、ここで休んでいかない?」


 原田は、白いコーヒーカップにクリームが浮かんでいる看板を見て、そう言った。

 看板には横書きで、「vanilla cafe」の文字が。

 今まで気になっていたけど、入ったことはなかった。喫茶、軽食の飲食店ということはわかるが、ハワイアンテイストの専門店っぽさが高額な料金を連想させ、彼女達のような学生にとっては、敷居が高そうだったからだ。


「なかなか落ち着いた雰囲気じゃない? ついでにここで勉強していきましょう」

 と、受験生の紗英は提案した。

 彼女達がハワイ風コーヒーの店に消えたので、栗田京平は店の外壁にもたれ、口笛を吹いて、彼女達が出てくるのを待っていた。


 バニラカフェ店内は思ったより広く、BGMにハワイアンが流れ、カウンターの奥にいるアロハ姿にポマード頭のマスターが自慢のバニラ料理を勧めてきたが、原田達はテーブル席に着き、バニラクリーム入りコナコーヒーだけを注文した。


 数学の問題集を見ながらも、紗英は窓の外が気になるようだ。彼女の見る角度からは、窓の外にさきほどの男子学生の姿が見える。


「栗田さん、まだいるよ」

「ねえ、あの人B市から通ってるんでしょう? なのにどうして駅に行かないで、私たちと同じ方向なの?」


 みちるの言う通り、栗田は隣のB市から通っていることになっていた。

 しかし、今は原田の家の近所で一人暮らしをしていると聞いたことがある。彼がそうしているのも、成績優秀なのに二年も留年したのも、あの事件が原因なのでは? そう思うと原田は胸が痛んだ。


 二年前、一学期の終わり頃、彼女は思いを告げるため、夕方六時に錦城公園で待っていますと、彼に告白した。彼は、その容姿からもてるタイプだが、恋愛に無関心で女子に冷たいと噂されていた。そういうところも彼女にとって魅力的だった。


 勇気を持って告白したのに、約束の時間に彼は来なかった。

 一旦は了承したものの面倒に感じたのか。それも無理もない。学年の違う自分のことなど知りもしないのだから。それでも何か都合があって遅れているかもしれないので、彼女は続けて待つことにした。


 夜が近づき暗くなってきたが、公園脇の道路に街路灯があるので、視界ははっきりしていた。

 やがて小雨が降り出したが、ベンチは屋根付きのものだったので、彼女はそのまま待ち続けた。

 しばらくして、栗田らしき人影が公園に入ってきた。ところが相手は、土管遊具の裏に隠れて出てこない。彼女が近付くと別の男の声が聞こえる。

 彼女は、ベンチに戻り強くなる雨の中待ち続けた。しばらくして、土管の裏で男の怒鳴り声が。

 それから……もう思い出したくない。


「ひつじ子、飲まないの?」

 彼女は、紗英の言葉で現実に戻った。

「ぬるめが好きだから」

 彼女たちはコーヒーを飲み終えたが、問題の人物は相変わらずだ。

「どうする? まだいるよ。私達が出てくるのを待っているのかな? あきらめるかもしれないから、もう少し待ってみようか」

 みちるがそう言うと、原田は二人を安心させようと、

「怖い人じゃないから大丈夫。もう出ましょうか」 といった。

 するとみちるは、

「どうしてそんな事が言えるの? じゃあ、何故付けて来るの? ストーカー?」

 彼女は、本当の事がいえずに、適当な言い訳をした。

「きっと、この中の誰かのことが好きなんじゃないかな。シャイな人だから、それを言えずに後を尾けてきてるのかも」

「えっ、そう言われてみると結構格好いいし、頭もいいし、お金持ちだって噂もあるし」

 みちるは、原田の発言を本気にしてしまった。それで、

「そうだ。お金持ちで頭がいいから中に呼びましょう。勉強教えてもらって、コーヒー代も払ってもらえばいい」

 みちるがそう提案すると、紗英は賛成し、すぐに店の外にいる栗田と交渉しに行った。


 栗田は、紗英に言われて店内に入ってきたが、提案に納得したわけではない。

「何故、僕が勉強教えた上、おごらなきゃいけないんだ」

 そう言って、彼女達の隣のテーブルに着いた。

「だったら、私たちのこと、尾けてこないでよ。警察にストーカーだって訴えるわよ」

 紗英の言葉に、栗田は返事ができなかった。


 そのときマスターは、新しい客の注文を取るため、お冷やとおしぼりを持って近付いてきた。

「ストーカーだって? 穏やかじゃないね。ところでご注文は?」

「ローストチキンのバニラ風味。それと……」

 両親と離れて暮らしている彼は、ここで夕食を取ることにした。

「ありがとうございます」

 得意料理のオーダーを受けて、マスターは嬉しそうだ。

 栗田の方は、彼女達から数学と英語の質問を浴びせられて、食事どころではなかった。


 勉強を終えた彼女達は、邪魔が入って食事の遅れた栗田を残して、喫茶店を出た。

 しばらく歩いていくと、突然みちるが何かを思いだした。

「いけない。今、思い出した。帰りに本屋さんに寄ってかないと」

「そうなの。じゃあバイバイ」

 紗英は、手を振って元来た道を行くみちるを見送った。


 みちるは、先ほど栗田が立っていた場所にいたが、栗田の様に店の壁にもたれはしなかった。しばらくして栗田が出てくると、気付かれないように少し距離を置いて、彼の後を尾けていった。


 みちると別れた紗英と原田は、受験の話題で持ちきりだ。

 紗英は、成績優秀な原田にお世辞抜きで自分の考えを話した。

「ひつじ子の頭なら地元ならどこでも入れるわよ」

「でも私、京都の私立受けるつもり」

「そうね。田舎にいてもつまんないし」

「そうじゃなくて……ほら、こっちにいるとまたあの人たちが……」


 一緒に帰ることの多い紗英は、原田が不良に絡まれる場面に遭遇したことが何度もある。

 でも、不良達の間で、「女の子いじめるなよ」とか「彼女はあの事件には関係ない」などと言う声が上がり、結局向こうから引き下がる場合が多かった。そうでないときも栗田が出てきて、

「やあ、奇遇ですね。ホワイトマフィアの皆さん、ここは法治国家ですけど……」

 などと言ってる間に逃げたりするので、いつも大したことにはならない。でも羊のように大人しいひつじ子にとっては、相当のプレッシャーなんだろう。


「そういう理由があるんだ」納得したように紗英が言った。「許せないな」

「あの人達が私疑うの無理もないし。それなら私がこの街からいなくなればいい。でも受かるとは限らないから。運みたいなのも大きく影響するから」

「そうね、さっきのストーカーさんみたいに頭が良くても二年もダブる人もいるから」

「いえ、あの人は……」


 きっと、私が卒業するまで学校にいるつもりなんだろう。そう言おうとしたところへ、前方からスクーターに二人乗りした連中が、奇声を上げて近付いてきた。


「アレー、今日は栗田君いないね、ひつじ子ちゃん」

 運転している方、髪は黒いが顔つきからハーフとわかる少年が、からかう様に言った。でもその目は笑っていない。

 原田は無視を決めて、早足で歩いていこうとするが、相手はいつもより真剣だった。


「辰也さんが殺されたって知ってる~? いつもひつじ子ちゃんに優しくしてくれた人」

 彼女はそれにも答えなかった。

 もう一人のニット帽を被った方は、怒りを抑えきれない。

「しらばっくれるなよ。お前が殺したんじゃないのか?」


 彼らは、ここ一月ほどは彼女にからむことはなかった。ところが金田辰也が死んだ途端、以前にもまして執拗に彼女を追い回すのだった。それも、彼らの立場からすれば無理もないが。


「何言ってるの。あんたたち。文句があるなら警察に言えばいいのよ。ひつじ子がそんなことするわけないでしょ」

 紗英が抗議した。

「じゃあ聞くけど、水曜日の昼の三時頃どこにいたんだよ?」

 ハーフが聞いた。

「学校に決まってるじゃん。ひつじ子も私も英語の授業受けてました。宝生先生っていう人の授業で、受験の役にたちません」

「ガキ。誰がお前のアリバイなんか聞いてるかよ。ひつじ子、このチビの言うこと本当だな?」

 原田は何も答えず、そこから立ち去ろうとした。

「待てよ。今日は逃がさないぜ」

「おい、止めろ」

 スクーターのエンジン音と同時に、後ろから怒鳴り声がしたので、ニット帽は振り返った。

「あっ、リーダー」


 そこにいるのは、金田辰也の死後ホワイトマフィアを名乗る不良グループのリーダーに就任した、百二十キロの巨漢の塩川良平だった。

 紗英にも、いつも羊子のことかばってくれるのは、この人だとはっきりわかった。

 塩川は、原田に頭を下げた。

「こいつらも久弥さんだけでなく、弟の辰也さんまで亡くなって、犯人を見つけようと必死なんだ。勘弁してくれ。ただ、あんたがあの時のことを思い出してくれたら、俺たちも助かる。嫌な記憶かも知れないが、決して迷惑はかけないから、もしも何か役に立ちそうなことを思い出したら教えてくれ。おい、いくぞ」

 そう言い残し、二人の手下を連れて去っていった。

 その時、仲間うちからマッドと呼ばれている混血の方の少年が言った。

「全く女に甘いぜ、このデブ野郎」

 小声なので、塩川の耳には届かなかった。

 

 栗田達の担任で英語教師の宝生貴子は、車で帰宅する途中、みちるを見つけた。

「あれ、白井さん。こんなところで」


 それが様子が変だ。

 電柱の陰から前方を窺ったり、突然横を向いたりする。貴子は怪訝に思い、後を尾けることにした。

 するとみちるは、某マンションの前で立ち止まった。

 貴子は、車を降りて彼女に声をかけようとしたが、マンションの三階の通路を、見覚えのある顔が歩いているのを見てしまった。


「栗田君」

 家を追い出されたという噂は本当なのか。

 ここは担任として見過ごすわけにはいかない。栗田の入った部屋を確認して、彼女は階段を上がった。みちるはそれに気付かず、家に帰った。


 貴子が、栗田の部屋のチャイムを押すと、彼はすぐに出てきた。

「栗田君、これはどういうこと?」

「京平、どうしたの?」

 奥から若い女の声が聞こえた。

 貴子は、奥から出て来た女と目があった。豊かにウェーブを打つ髪は、当時と違うが、見覚えのある顔だった。確かに栗田にお似合いの美人だ。

「白石さん、あなた」

「あっ、先生」

「栗田君、説明してもらうわよ」


 貴子はそう言ったが、栗田は鼻で笑うと、そのまま外へ出ていった。

「待ちなさい。どこへ行くの?」

「タバコ買いに」

「あなた高校生のく……」

 貴子はそう言いながら、彼がすでに二十歳を超えていた事実を思い出し、言い直した。

「もう成人かもしれないけど、立場上控えた方が……」

 栗田は、かまわず階段を降りて行った。

 彼女が、栗田のいなくなった廊下を見つめていると、栗田と同期で二年前に卒業した白石が彼女に声をかけた。

「宝生先生。私がすべてお話します。実は……」


 白石の説明に彼女は納得した。

「そう、栗田君が……」

 

 時々、栗田京平の脳裏には、二年前の出来事が昨日のことのように思いおこされる。

 帰り際、校門に向かう途中、数名のバスケ部の後輩が、彼のもとに走ってきた。

「先輩。葉山は足を挫いて、どうしても試合に出れないんです。今のメンバーでは明城との試合に勝てません。一試合だけで結構ですから、お願いします」

「悪いが、他に用事があるんで……」

 さすがに気が引けたが、原田との約束が先だ。

「この通りです」

 後輩達に土下座されては、いかにクールな栗田でも断りきれなかった。原田とは別の機会に時間を作ればいい。

「頭を上げてくれ」

「お願いします。何でもしますから」

「出るからいいよ。別に何も要求しないよ」

「えっ」

 後輩達は、まだ試合に勝ってもいないのに、抱き合って喜びを分かち合った。

 明城との試合に勝った時には、もう日も暮れていた。

 栗田は、待ち合わせ場所の錦城公園に向かった。

 時刻は八時を回っている。公園に近付くと、周りが何やら騒がしい。脇の道路に人が大勢いる。警官もいる。公園の中に人が立ち入れないよう、入り口にロープが張られている。


「何かあったんですか?」

 見物人の一人に訊ねた。

「人が殺されたらしい」

「殺された……まさか、高校生の女の子が?」

「いや、三十歳くらいの男性らしい。でも高校生らしい女の子、さっきパトカーで連れられていったよ。事件の現場にいたらしい」

「え、そんな……」


 栗田は、悪夢を見ているように感じた。そのまま警察署まで全力で走った。


「だから、関係者でもないのに、警察に来られたら迷惑なんだよ」

 警察署の職員に腕を掴まれ、正面入り口からつまみだされた。職員が建物の中に戻ろうとした時、

「彼女と待ち合わせていたのは、僕なんです」と、彼は叫んだ。すると相手は、

「わかった。話は聞こう。でも参考人と会わせるわけにはいかない」と冷たくいった。


 ……全ては自分が遅れたせいなんだ……。


 現実に戻ると、原田が無事家に着いたかどうか気になった。そこで携帯をかけてみた。

「どう? 何もなかった?」

「ええ」

 彼女は、栗田に心配かけないよう嘘をついた。

 栗田は、彼女の安全を確認すると携帯を切った。いつも彼女のことを気に留めているくせに、会話は少なかった。彼女が無事卒業してこの街を離れれば、自分の役割は終わり、二年遅れで人生をやり直せる。

 だが、二年間の月日は、ある意味進学就職という、おきまりのパターン以上の成功を彼にもたらしていた。株や債権の運用で膨らんだ金融資産は、すでにサラリーマンの生涯賃金にも匹敵し、今後も増え続けることが予想される。それで彼は、大学に進む気力もそれほどなかったが、高校の卒業だけはしておくつもりだった。五年間も通って中退では格好つかないから。

 

 学年主任長迫弘は、警察を辞めて教師に就任した日の挨拶を思い出していた。

「……頻発する少年犯罪に警察の無力さ、己の情けなさを感じました。どうして彼らは悪いとわかっていながら非行に走るのか。激流は下流になってくいとめるより、流れの小さい上流で抑えたほうがいい。そこで私は警察官として少年の犯罪を取り締まるより、教育者としての立場で彼らが犯罪者になるのを防ぐことの方に意義を見いだしたのです……」


 あのころの熱い思いを感じながら、彼は他の教員達が帰った後の職員室で、金田兄弟が犠牲となった二つの殺人事件の資料を見返した。

 ファイルには新聞の切り抜きや、彼自ら撮影した事件現場の公園の写真、そして警察の伝手を当たって仕入れた情報などのメモなどが綴じてある。だが、それらのデータだけでは事件の真相に辿り着けないことを、経験上知り抜いていた。

 そのため今夜も帰りがてら、事件現場の錦城公園まで歩いてみるのだった。


 公園は、学校の裏門から徒歩十分程度のところにある。東西を道路、北を神社、南を資材倉庫に囲まれた二十メートル四方の地区公園で、近所の幼児が母親と遊ぶほかに、街の不良連中が集会場に使うことがよくあり、近所から警察に苦情が寄せられていた。 


 西側の道路にある街灯以外は、灯りといえるものはない。周囲を高さ一メートルのフェンスで囲い、北側フェンスに接して、東西の端から端まで緑の池垣が形よく整っている。入り口は、東西の中央にそれぞれ一カ所ずつ。それぞれ住宅街の細い道路に通じている。


 設置物は少なく、北には高さ百二十センチ厚さ八十センチに刈り揃えられたキンメツゲの生垣。

 そのすぐ内側には、東西に高さ六メートルほどのウバメガシの樹木が一本ずつ。

 二本の樹の中間には、長さ二メートル内径八十四センチ厚さ五センチの土管を下に二本、間のくぼみの上に一本積み重ね、土管同士をコンクリートで固めた遊具が、池垣に水平に置かれている。

 横からそれを見れば、毛利元就の三本の矢の如く重なる、三個の円の外側に接する正三角形の角の部分をとっておにぎりにした形だ。

 公園中央は砂場になっており、南側の西からジャングルジム、ベンチ、煉瓦造りを模したトイレがある。


 二年前の事件で兄久弥の遺体は、中央の砂場から見て土管遊具の裏側、北側池垣との間の僅かな隙間に仰向けの状態で発見された。

 腹部を一カ所刺されたことによる失血死だった。

 凶器となった刃渡り十センチの果物ナイフは被害者の右側、土管と地面との間に落ちていたためか、あまり雨に濡れておらず、その刃は被害者の血で染まっていた。

 被害者以外の指紋はなかった。


 唯一の目撃者、現場にいた原田羊子の証言によるとこうだ。

 その日学校が終わると彼女は、六時に公園で三年の栗田京平と待ち合わせていた。

 ところが栗田は来ない。その間彼女は相手がいつ来るかと、目を皿のようにして東西の入り口を見張っていた。

 七時頃、西側から公園に男の姿が現れると、すぐ北側の土管の裏に隠れた。

 最初、彼女はその男が待ち合わせた栗田だと思って土管に近付いたが、話し声で別人だとわかり、公園南側のベンチに戻った。

 話し方から男は携帯で話していたような感じだったが、その時点では男の姿は見ていない。

 十分ほどすると、男の怒鳴り声が聞こえた。

 しばらく口論してる感じだったが、土管の上に彼女の方を向いて男の顔が現れたかと思うと、すぐに消えた。彼女と目が合ったが救いを求めていたのかもしれない。

 男の苦しむ声がするので、彼女はこわごわ土管の裏を覗くと、腹部から血を流している。そこからは記憶にない。

 彼女の悲鳴を聞いた近所の人が、様子を見にいった時、彼女は土管の中で発見された。

 現場付近では携帯電話は見つかっていない。


 彼女の証言では、公園には彼女自身と被害者の他に人はおらず、死角となる土管の裏にも、彼女が見たときには被害者が倒れていただけだった。

 彼女に見つからないように、生垣の茂みを掻き分けて乗り越えようとすれば、キンメツゲの枝が折れて痕跡が残るはずだ。

 だが、枝葉が密生する池垣は特に乱れた様子はなかった。


 彼女の証言からすると、殺害する可能性のあったのは、彼女以外に存在しないことになるが、もしそうなら何故彼女は自分に不利な証言をしたのか、疑問が残る。

 そこで警察は、記憶を失うくらいだから、彼女に記憶違いがあったとして別の線をあたった。

 違法高利貸しだった被害者金田久弥は、職業柄銀行口座や携帯電話は他人名義のものを使用していたようで、金の貸借があった人物を調べようにも、リストなどの記録が残っておらず、関係者の証言だけが頼りだった。そのため事件解決の目処は、いまだについてはいない。


 金田久弥の弟の辰也が同じ公園で殺されたのは、二年前の事件と関わりがあるのだろうか? 


 生きている辰也が、通りがかった主婦二人に目撃されたのは午後二時半頃。

 その時辰也は公園ではなく、西側の道で腕を組んで立っていた。よく女子高生に絡んだり、男子生徒と揉めるなどしていたのが記憶にあり、二人の主婦とも見覚えのある顔だったので、本人に間違いはないと証言してくれた。

 近所の住人が、悲鳴を聞いて警察に通報した時刻が三時六分。ただ、このとき実際に公園で死体を目撃したわけではない。事件に巻き添えになるのを恐れ、通報者が家から出なかったからだ。

 一報を受けて警察が到着したのが三時十五分。

 まだ息があったが、意識不明のまま病院に運ばれ、間もなく死亡が確認された。背中と胸部の二カ所を刺されていて、兄同様出血多量が死因だった。


 事件後、警察は学校に電話をして、当日の原田の行動を訊ねてきた。それに対し長迫は、警察の知り合いの森野に抗議の電話をかけた。


「こちらだって彼女を疑ってるわけじゃない。お前も元警察だからわかっているだろう。疑わしくなくとも事件に関係がありそうな人物の行動は、把握する決まりなんだよ」

「俺も今は教師だ。自分のところの生徒が疑われるのが嬉しいわけないだろ」


 そんなことを考えながら、ジャングルジムのフレームを片手でつかまえ下を見ていた時、人の気配を感じた。顔を上げると、長身の痩せた男が歩いてくるのがわかった。

 暗くて顔は見えない。長迫は一瞬身構えた。


「何してるんですか? こんなところで」


 向こうから話しかけてきた。こんな時間に一人でここに来るのは長迫以外に地元の不良連中か、そしてもう一人事件のことを気にかけている栗田京平くらいだ。

「おっ、それはこっちの台詞だろう。そっちこそまだ高校生だから、夜出歩くものじゃない」

「僕はもう大人ですから、自分の判断で行動します」

「ふっ、そうだったな。こちらもあまり強く言える立場じゃない。本当なら大学二年だからな」

「いえ、先生達には責任はありません。単に自分の不注意で、出席日数が足りなかっただけです」


 栗田が留年した原因が、二年前の事件にあることを察していた長迫は、宝生貴子のように一方的に責めたりしなかった。


「自分の意志で出席減らして留年ね。やはり気になるんだな?」

「先生もですね」

「まあな。原田、そしておそらく君の人生になんらかの影響を与えた事件だからな」

「今度のことは、二年前の事件とどう関係があるんでしょうか? 同じ場所で兄弟が殺された。偶然にしては、一致しすぎてますね」

「昔警察に勤めていた者の勘だがな……おそらく犯人は同じ人物だ」

「そのくらい僕にだって見当はつきます」


 二人は、どちらともなく二年前の現場である公園北側へ歩いていった。

 公園のすぐ北側は神社の境内裏にあたり、鬱蒼とした灌木が公園との境のフェンス近くまで茂っている。土管遊具に近づくと長迫の眼は、土管の上に人間の頭頂部が見えているのをとらえた。


「誰かいる」

 二人が裏に回ると、貴子がまっすぐ立っていた。

「何してるんですか? 宝生先生」

 二人は声を揃えて訊いた。

「ばれちゃった」

 貴子は、照れくさそうに笑ってごまかした。

 しかし、この何気ない出来事が長迫にヒントを与えた。

「宝生先生、失礼ですが身長はおいくつぐらいでしょうか?」

「え~、え~と。たしか170~センチです」


「それが何か?」

 突然の不躾な質問に、栗田も怪訝な顔をした。

「いや、いいんだ」

 ……俺には170センチの宝生先生の頭が見えて、原田には180センチの金田が見えなかった。見る側の身長から考えると……。


 そう思った数学教師長迫は、土管の内径八十四センチ、厚さ五センチから遊具の高さを算出した。それで原田に金田が見えなかったことは納得できたが、貴子が見えた自分の場合は説明できない。


「そうだ。大事な用事を思い出したわ」

 身長の件でバツが悪かったのか、それから貴子はすぐに帰った。

 彼女が盗み聞きをしていた位置に、今度は栗田が立った。

 土管遊具と生垣との間は、およそ三十センチ。

「どうやって犯人は、ここから原田に見つからないように逃げたんでしょうね。人一人立つのがやっとなくらいですから、ここから飛び跳ねて、この生垣超えるのは無理です。土管の中にすばやく隠れようとしても、見つかるはずですし」


 そう言いながら、そこで垂直飛びをしてみるが、二十センチくらいしか上がらない。

 次に彼は左右を見た。

 遊具の東端からウバメガシの木まで五メートルはある。それは西側も同じだ。

「犯人は原田の目を盗み、あの木の陰に隠れた」

「針金みたいな体型でない限り、見つかるよ」

 長迫の言葉通り、人間が隠れるにはその幹は細すぎた。

「犯人は池垣の向こう、神社側に立ってそこから金田にナイフを投げつけ殺害」

 フェンスのすぐ向こうは、雑草や低木が茂っているが、人間が立とうとすれば立てないこともない。特に中央のあたりは茂みが少ないのでおあつらえ向きだ。

「俺もそれは考えたよ。でも池垣のすぐ内側の狭い空間に立っている人間の腹を狙うとなると、投げたナイフが池垣を越えると、急に下向きに角度を変え、それが相手の腹のあたりに来たら、また向きを戻す必要がある。どんな天才ピッチャーでも無理な超魔球だ」


「そうですね。では長迫先生はどうお考えですか?」

「あまり言いたくないが……原田のいうことが事実と違っているとしたら……」

 そこまで言うと、長迫は言葉を詰まらせた。

「先生は、原田が嘘を吐いていると疑ってるんですか?」

 栗田の声は真剣だ。

「いや。そうじゃない。何らかの勘違いがあったのだろうと思う」

「謎はまだ謎のままということですね」

 栗田はそう言い残し、どこへともなく歩いていった。

 それを見た長迫は、心の底から彼をうらやんで、ため息をついた。

「やっぱ独身で金のある奴は自由でいいよな。こちとらローンと子供三人。教育者が給料上げてくれなんて言えないからな」


 独身貴族の栗田だったが、最近同棲している白石夢乃から結婚を迫られることがあった。

 高校時代(彼の方は今でも高校時代だが)の同級生だった白石とは、彼が親元を離れて一人暮らしを始めた頃からの付き合いだった。

 彼女は、平日彼の方針通りに株式の売買を行い、高いパフォーマンスを上げていた。

 判断に迷う時は携帯で指示を仰ぐが、それも彼女自身の判断力や直感が増したため、最近は日中の連絡は少なくなっていた。地元の短大を中退するはめになり、親から非難され続ける彼女にとって、気がかりなのは、原田羊子の存在だった。

 それが原因で、二十歳の若さで結婚を言い出したのだった。


 栗田が意味もない外出から戻ったとき、白石は明らかに機嫌が悪かった。

「また、原田さんのところ? そんなに彼女のことが心配なの?」

「今日は行っていない」

 栗田の冷淡さに触発されて、彼女は日頃からの不満をぶつけた。

「どうしてあなたは、私に対してそんなに冷淡なの? 原田さんのことが気になるなら、私じゃなく彼女と暮らせば?」

「彼女とはそんなんじゃない」

「それならどうして二年も留年してまで、彼女をつけ回してるの?」

「原田が卒業すれば終わるさ」

「それで堂々と彼女と暮らすのね。そしたら私はどうなるの? お払い箱?」

「勝手に想像してろ」

 と言ったものの、栗田は喫茶店で夕食をすませたのに、白石の作った料理を黙々と食べ始めた。

「もう我慢できない。いつまでもあなたの家政婦なんかやってられない」

そう言って白石は、栗田のマンションから出ていこうとした。

 しかし、靴を履きながら栗田に向かって、

「後片づけは私がやるから、そのままにしておいて。それと、今日の取引履歴、いつものフォルダに残してあるから後で見ておいてね」と言い残し、外へ出ていった。

 栗田は、何事もなかったかのように黙々と食事を続けた。


 

 地元の不良グループ「ホワイトマフィア」の新リーダーに就任した塩川良平は、荒れる海を背に埠頭に集まったメンバーと共に、金田辰也の死を悼んだ。

 荒れる海も、彼ら同様辰也の死を悼んでいるかのようだった。塩川は短く刈った金髪の下の卵形の顔にある小さな目を更に細めながら、しゃがみこんでうつむく仲間達を見回した。


「こんなことになってみんなに何て言っていいか正直わからない。辰也さんは、俺たちにとって親や兄弟みたいな人だった。あの切れると何をするかわからない久弥さんから俺たちをかばってくれた。辰也さんがいなければホワイトマフィアも無かっただろう。こうしてここでみんなと会えるのも辰也さんのおかげだ」


 そうはいったが気の短さは、弟も同じだった。そして兄同様、どこか筋の通ったところがあった。

 不審な兄の死の真相を究明しようと、塩川達に事件現場にいた唯一の目撃者である原田羊子から情報を聞き出すよう指示したが、決して乱暴なまねはしてはいけないと、きつく言い渡していた。

 そのためか、なかなか事件解決につながる重要情報は得られず、それを掴んだと思われた矢先に、辰也までが兄と同じ公園で死体となって発見されることになった。


 死ぬ一月ほど前、辰也は犯人特定にいたるかもしれない極めて有力な情報を掴んだと喜んでいた。

 塩川達がそれが何か訊ねると、彼はこう言った。

「相手に知られると証拠隠滅を謀られるかもしれないので、内容までは話せない。しかし、相手が動揺しヘマをしでかすかもしれないから噂を広げろ」と。

 それで塩川達は、金田辰也が事件の新事実を掴んで、犯人が誰かもうすぐわかる、という情報を街中に触れ回った。

 だがそれが原因で辰也が口封じされたとしたら、彼ら自身が辰也の死を招いたのかもしれない。

 そう思うと塩川はやりきれなかった。それは彼だけでなく、そこにいるメンバー全員がそうなんだろう。

 ところで、辰也はどんな情報を掴んだのか、本人が亡くなった今は誰もわからない。否、彼を殺害した人物なら知っているはずだ。 


 メンバーの中から、鼻をすする音がする。吹き付ける風は彼らの髪をなびかせる。

 長い沈黙を破ったのはアリこと有田貴文だった。意見を言うというよりも自分に言い聞かせるようにこう言った。

「あの女のせいだ」

 彼に同調する者もいる。

「そうだ。あの女さえいなければ、辰也さんもこんなことにはならなかった」

 塩川の顔色が変わった。

「彼女に罪はないだろう。あの子は被害者なんだ」

 原田羊子を擁護する塩川に対し、批判が出た。

「やっぱ、今までみたいなやり方がダメなんじゃない。もう辰也さん、いないんだから、あの女、締め上げて吐かせようぜ」

 片親がロシア人のマッドが言った。本名はもっと複雑な名前だが、呼びにくいのでマッドで通じている。その名の通り、どこか狂気を感じさせた。

「それは俺が許さない」

 塩川がきっぱりと言った。「辰也さんもそう言ってただろう」

「わかりましたよ~」

 嫌みっぽくマッドが答えた。

 再び沈黙が訪れ、潮の音が耳に響く。

「これからどうなるんだろう? 俺たち」

 ニット帽を被った男が不安げに言った。

「心配はいらない。リーダーの俺が何とかする」

 そう言った塩川の表情は、どこか自信なさげだった。


 その様子を観察していたマッドは、塩川の弱点を突いた。

「でも、実際にはどうするんですかね? 俺ら結びつけてたのは辰也さんがくれたこづかいですよ。久弥さん亡くなってからも、懐具合が悪いのに、俺たちには相変わらず奢ってくだすった。でももうこれでお別れっすかね? ほら昔から金の切れ目が縁の切れ目って言うじゃないですか」

 何名かは、マッドのふざけた口振りに薄笑いを浮かべた。

 しかし残りのメンバーは、マッドの態度に不快感を示した。

「今はそんなこと言ってる場合じゃないだろう」

「面白いことをおっしゃいますね、エンドーチャン。ではいずれ銀行強盗でもやっていただけるんでしょうね。もっともあんたじゃすぐにビビって逃げ出すでしょうけど」

「止めないか」

 塩川は、巨体を怒りに震わせて怒鳴った。

「おっと、具体策が出ないから怒ればいいって? ハハ、勝手にしてくれ」

 マッドはふざけた歩き方をして、その場から離れていく。。

「おい、マッド」

 塩川は止めた。しかし、他の数名もマッドの後を付いて行く。

「おい、戻ってこい。俺たち仲間だろう」

 リーダーの言葉に、マッドは振り向いた。

「仲間? あんた本気でそう思ってたのか」

「どういうつもりだ。まさか、お前別のグループ作るつもりじゃ?」

「あんたには関係ねえだろう」

 マッドの表情が凶悪になっていく。

「もしそうなってもホワイトマフィアは名乗らせないぞ」

 と塩川がいうと、マッドは哄笑した。

「ハハハ。誰がそんなだせえ名前名乗るか。鳩の糞じゃあるまいし」


 マッド側に寝返った数人も笑っている。

 元々ホワイトマフィアという名前は、都会の不良グループであるカラーギャング風統一ファッションを取り入れようと考えた結果、西部劇の銀行強盗が口元を隠すのに使う白いスカーフを採用したことから付けられた。

 しかし、そんな格好をしていれば、声を出しにくい上、人目を引きすぎ、すぐ警官に注意されるので、今では誰も着用しなくなっていた。


 正義感の強い遠藤は、マッドに向かっていこうとした。しかし塩川の怪力が彼を止めた。

「おい、よせ」

「しかし、塩川」

「今は耐えるんだ。残りのメンバーだけで頑張るんだ」

 涙ぐむ遠藤と仲間達。

 それを見たマッドとその仲間は、さらに侮辱する。

「美しい友情ですね。同類愛哀れむ? あれ違うか? ハハハ」


「昨日まで仲間だったのに……人間ってわからないよな」

 スクーターに乗り、笑い声を上げながら陽気に去っていくマッド達を見ながら、遠藤はつぶやくようにそう言った。

 その言葉は、塩川の耳にも聞こえたのだろう。彼は荒れる夜の海を見つめながら、自分自身に言い聞かせるように言った。

「昨日の事なんか覚えちゃいないぜ。俺達には今日という日しかないんだ」


 漁船の灯りが遠くに見える夜の海を眺めながら、彼らは塩川の言葉の余韻を味わった。

 しばらくしてニット帽は独り言のように、

「今日という日はもう残り少ないんで、とりあえず俺家に帰るよ」といった。

 すると他のメンバーも立ち上がり、無言のまま埠頭を去って行く。

 バイクやスクーターのエンジン音が消えると、風と波がシンフォニーを奏でていた。


 集会では発言を控え大人しかったトクジこと徳島次郎は、改造バイクのクラクションを鳴らして騒がしかったが、後続のスクーターに乗る有田に合わせてゆっくりと帰り道の県道を北上していた。

 彼は、警察の取り締まりが厳しくなったのに加え、少子化で参加者が次第に少なくなっていた地元暴走族が解散したため、都会風の不良グループ・ホワイトマフィアに加わったが、同じ不良でもスタイルが違うために他のメンバーからそのリーゼント頭がダサイと批判されていた。

 それでも彼は、以前の髪型を変えることなく、自分流を貫いていた。さすがにハッピは着ることはなくなったが。

「アイの奴、やっぱ来なかったな」

 トクジがそういっても、バイクの音がうるさいので、

「え? 何言ってるか聞こえない」

 トクジはさらにスピードを落とし、アリのスクータの横に来ると、大声で同じ言葉を繰り返した。するとアリは、

「相原ねえ、もう俺たちとは関わりたくないんだろう。あいつ元々、城西だからな」とそっけなく言った。

「城西って原田って子もそうだろう?」

「そう。あの栗田って野郎もそうだ」

「あいつ気にいらねえ野郎だよな。いつも原田の近くにいやがる。一緒にいるならまだわかるけど、少し離れているもんだから、俺たちが原田さんと楽しくおしゃべりしようとすると、すぐに邪魔しにきやがる」


 県道を曲がりアリの実家に近付くと、二人は道路脇に一台の赤のコンバーチブルが停まっているのに気付いた。

「おい、あれ見ろよ」

 二人は、そこに停まって様子を見た。


 そのコンバーチブル(オープンカー)の後部トランクが独りでに開くと、中から折れ曲がったハードトップ(自動車の屋根の部分)が現れ、上に持ち上がって車に覆い被さった。するとトランクが閉まり、クーペに変身した。

 クーペ・カブリオレと呼ばれる自動格納式ハードトップを装備するタイプだ。


 二人の目の前で、クーペに変身したばかりの車は、またトランクが開いたかと思うと、ハードトップが持ち上がり、後部トランクへ収納されていく。トランクが閉まるとコンバーチブルに戻った。

 その間、22秒。車の持ち主は、暇なのかまた同じことを繰り返す。


 そうして車の持ち主は、二人を挑発するように、何度もサンルーフのオープン・クローズを繰り返している。

「畜生。見せつけやがって」

 二人は、オープン状態のタイミングで、運転席の青年に近付いた。

「この車、傷つけられたいのかよ」

「俺たちが来るの待ってたのかよ」

 青年は、二人の方を向くと「やあ」と手を振り、ハードトップの開閉を止めた。


「おい。栗田。てめえ勝負しろよ。ゴールは城西の校門だ!」

 元暴走族の血が騒いだのか、トクジはそう言ってアクセルをふかした。

 栗田はルーフを開けたまま、エンジンをかけた。

 両者はほぼ同時にスタートした。その後を有田のスクーターが追う。

 夜の街を走るオープンカーとバイクの勝負は、巧みなテクニックでオープンカーに軍配が上がった。

「勝負あったようだな」

 栗田は感情を出さずに言った。

「もう一回だけ勝負してくれ」

トクジは、人差し指を突き出して1という数を強調した。

「あいにく時間がないので」

 そう言い残すと、ルノー・メガーヌ・グラスルーフ・カブリオーレはどこへともなく走り去って行った。それからしばらくして有田のスクータが到着したが、トクジのバイクも消えていた。


 後ろを追ってくるバイクの音がうるさいので、栗田はルーフを閉じた。その状態でも天井部の大部分は透明グラスになっているので、開放感が味わえる。ただ今の彼は、無気になって追ってくる元暴走族を引き離すのに集中していて、星を眺めている余裕はない。


 角を何度も曲がって、バイクの姿がバックミラーに映らなくなる頃には、彼は実家のある隣市に来ていた。成績優秀なのに卒業できず留年が決まると、彼の父親は当座の生活費を渡して彼を家から追い出した。明確な理由を言えない彼は、それに従うしかなかった。


 あれから家には帰っていない。彼は車を実家の前に停め、ルーフを開いた。近くを人が通りかかったとしても、夜空の星々の明かりでは、彼の涙はわからなかっただろう。

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