第41話 堕ちていく少女

 涙でぼろぼろになった顔で見上げると、シロの後ろにいたのは今朝会った少年だった。クロのクラスメイトの、今月いっぱいで転校してしまうという。

「……あなたは……」

「泣いているのかい」

「えっ?」

 彼女は慌てて涙を拭った。

「なっ……何でもないよ」

「はは……何でもない人が泣く訳ないよね……」

「だっ、大丈夫だから。それじゃ」

 その場を立ち去ろうとする彼女の腕を少年は掴んで引き止めた。

「待って」

 こんな風に私も彼の腕を掴んでいたいと思いながら彼女はくるりと振り返る。

「よかったら話してごらんよ。気持ちが楽になるかもしれない」

 シロは少年の瞳を見つめた。とても澄んでいる。怪しいほどに。

 どくん、と彼女の心臓が鳴った。少しだけ頭が軽くなった気がした。何かがすーっと抜けていった様だ。

「……そうかもね……」

 同意して、シロは少年に付いて行った。


 ふたりが入ったのは喫茶店だった。もう八時を回っているのに、店内には客がまだたくさんいる。ファストフード店の様に全国展開している事前清算式の店で、先にカウンターで注文をして飲み物を受け取った後、適当な席を見付けてふたりは座った。

「……ありがとう」

 シロは礼を述べる。こうしてこの少年と共に賑やかな空間に入ると、鬱屈していた気分が少しは晴れてきたのを感じたからだ。コーヒーもまた温かく、おいしかった。

「どういたしまして」

 彼もコーヒーを一口啜る。

「ところで君、シエルさん……だっけ」

「あ、うん……どうして名前を?」

「だって君、有名人だから。クロノ君もね。アメリカ人の転校生なんて」

「あ、そっか……そういえばあなたは?」

「早見リンク。以後お見知りおきを」

「早見君……変わった名前してるんだね」

「……まあね。それより、どうして泣いてたんだい。何があったの」

「それは……」

 何て説明したらいいんだろう。シロは早見の目を見た。何となく、気分がすっと楽になる。

「その、私、ある人にだけ触れなくて……」

「……触れない?」

「信じられないと思うけど、触ると痛みが走るの」

「……それは、触った所に?」

「うん」

「……なかなか珍しい現象だね」

 彼は腕を組んで答えた。

「……信じてくれるの?」

「唐突にそんな嘘をついて君に何のメリットがあるんだい?」

「……論理的に考える人なんだね」

「どういたしまして」

 そう言うと早見はまた一口コーヒーを啜る。シロもつられて一口。

「その相手っていうのは、クロノ君かい?」

「え?」

 図星を突かれて彼女は焦った。いつもなら慌てて否定する(それでも結局ばれてしまう)が、今日は素直に認めた。なぜかこの少年の前では嘘をつく気になれない。

「うん……どうしてわかったの」

「真っ先に思い付いたのが彼だったから。君達一緒に住んでるらしいし」

「あ、そっか……」

 ふたりが一緒に暮らしている事をシロはクラスメイトぐらいにしか言っていないが、いつの間にか学年中に知れ渡っていた様だ。隠す事でもないし別にいいが。

「ちなみにそれって、どんな痛み?」

「……びりってする様な……鋭いの」

「……それって彼の変な体質のせいなんじゃないの? 噂では彼、放電出来るとかいうし……それであの郷田君にけんかで勝ったとか」

「あー、うん……そうなんだろうけど、何となく、それは私の体の方に原因があるんじゃないかって思って」

「どうして?」

「ええと……わかんないや。何となく」

「……そうかなあ」

 彼は首を傾げる。

「彼の方に原因がある可能性が高い気がするけど。だって君はただの普通の人間だろ?」

「……う、うん」

「それに、もうひとつ、大事な可能性を無視してないかい?」

「大事な可能性?」

 早見は笑顔を作る。

「君は自然現象みたいな言い方しているけど、そうじゃないって事さ」

「……?」

「つまり、彼が意図的にやっている、って事」

「……え?」

「というか、これが一番大きな可能性なんだけどね」

「……ちょっと待って。クロが意図的にやってるって、どういう事?」

 シロは取り乱した。

「そのまんまの意味さ。君に触れられると同時に放電する。それだけ」

「ど、どうしてそんな事……!」

「それは……たとえば」

 ここで早見は一呼吸置いた。

「君の事が嫌いだから、とか」

「! ……え?」

「だから君に触れられたくない」

「……そ、そんな……クロが私の事を嫌いだなんて、そんな……」

 シロは自分を落ち着かせようとカップを持つ。しかしその手はがたがたと震え、上手く口元まで持っていけない。

「そんな事……そんな事ないよ」

「どうして?」

 早見は尋ねる。

「どうしてそんな事言えるんだい」

「だって……だってクロは友達だから」

「本当に?」

「え?」

「本当にそうなのかい。そう思っているのは君の方だけじゃないのかい」

「……! ち……違うよ……! ク、クロだって私の事友達だって言ってくれたもん……!」

「君はその言葉を信じたと」

「! ……し、信じるよ! だって友達だもん!」

 ようやく口元まで運んだコーヒーを少し口に入れる。冷めてしまったのか、すっかり味気無い。

「いいかい、シエルさん」

 彼はシロの瞳を見つめて続けた。

他人ひとが本当はどう思っているのか、なんて誰にもわからない。彼は上辺では君の友達を装っているかもしれないけど、本心では真反対に、君の事なんて大嫌いなのかもしれない」

「そっ! そんな事無い! 大体、私クロに嫌われる様な事……」

 その時シロははっとした。クロとの友情を裏切る思考に走ってしまった。理由なんて必要無いじゃない。誰かが彼女の心に囁きかけた。

 だって、天使と悪魔は敵同士なんだから。

 この瞬間、彼女は自分自身の心に敗北した。

 そしてそれが、暗黒への入り口だったのだ。

「……ち……違う……違う違う違う違う違う違う違う違う! 違うっ!!」

 どれだけ言葉で否定しても心は否定出来なかった。

「落ち着くんだシエルさん」

 早見が彼女の手を握る。

「落ち着いて」

 少女の瞳に移る彼の顔。何て澄んだ瞳……それに全てを赦してくれる様な笑み……気持ちが楽になる……何かがすーっと抜け出ていく様に……。

 私が私じゃなくなる様に。

「あ……うん……………………」

 少女は深い深い闇の奥深くへと堕ちていった。

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