第13話 ビギニング
「どこ行くんだよ」
彼の姿を見た瞬間、シエルの背筋は凍った。
「……」
クロノは黙って彼女を見つめていた。いつもは気だるそうなその瞳が、今は冷たく尖っていた。
「……!」
シエルも言葉が出なかった。こんがらがっていた。目の前の少年が突き刺す視線。沈黙。耐えられない。
「……っ!」
彼女は何も言わずに大空へ飛び立った。頭の中は混沌としていた。
……見られた……? クロノに……見られた……? 見られたよね、今? おもいっきり見られた……私がこれから飛ぼうとする所……翼……黒い翼……見られた……人間じゃないってバレた……!
少女はあまりの動揺でこれから何をするべきかわからなくなっていた。ただあの場から離れたくて空へ上がった。冷やかなあの空間から飛び去りたかった。彼から逃げ出したかった。
私が人間じゃないってわかったら、彼は私の事をどう思うのだろう? 私達は友達だ。でもそれは、人間のふりをしている私だからだ。人間―――――境界に住む人々は、悪魔の存在も天使の存在も知らない。世界は自分達が暮らしているこの世界ひとつだけだと信じている。そんな彼の目に、あの冷たい鋭い瞳に、異形の私はどう映ったのだろう……気味悪く感じたかな。それって、つまり……。
少女の瞳から、涙がどっと溢れ出た。
あれ、私、何で泣いてるんだろう。別にいいじゃない。正体がバレたからって。どうせ侵略する相手なんだから。それなのに私、どうして泣いているんだろう。
「……クロノに、嫌われた……!」
「だから、どこ行くんだよ」
「知らないわよ!」
このまま、どこか遠くへ、ずっとずっと遠くへ……誰もいない、何もない場所まで飛び去りたい……。
「……って、え?」
シエルは右を見る。
「よっ」
クロノが隣を飛んでいる。彼女と並んで。
「……えぇっ!?」
びっくりしてふらふらっとバランスを崩しかける。どうして横にクロノが。
「大丈夫か? ……あれ? 泣いてんのか?」
「べっ……別に泣いてないよ! 風が目に沁みるだけ!」
その涙は驚きから一瞬で吹き飛んでいった。
「どうしてここに……って、ええええぇっ!?」
クロノの体に目をやった彼女はさらに驚愕した。彼の背中にも翼が生えている。しかも、彼女が持っているような黒い翼ではない。それとは正反対の色をした、太陽の光に煌めく純白の翼だった。その美しさに王女は思わず見とれた。
「……って……白い翼……まさか……もしかして、あなたは……」
「うん、天使」
「!? てっ、天使っ!? ほんとに!?」
「見りゃわかるだろ? この羽。そういうお前は、悪魔か」
「なっ……そっ、そうだよ、悪魔だよ! てっ……敵だよ! あなたの!」
天使と悪魔は敵対種族。これは1+1=2になるくらいわかりきった事だ。
「待て待て。そう簡単に決め付けんな。確かに悪魔は天使の敵かもしれんがお前が俺の敵とは限らねー。お前は何のために
「何のためって……し……」
王女ははっとした。侵略、なんてはっきり言うと、クロノに即座に敵と認識されてしまうだろう。それだけは避けたい。そうなればクロノに今度こそ嫌われてしまう。
いや、侵略が困難になる!
「し?」
「し……視察のためだよ。異世界を視察して見聞を広めて、いずれ魔界を発展させたいの」
「魔界の発展のために異世界見学ねえ。さすが王女様といった所だな」
「なっ! どうして私が王女だって事知ってるの!?」
「この間しょっ引いた悪魔が王女がどうのこうのっつってたからな。まさかとは思ったけどほんとにお前が王女だったとはねえ……世間は狭いな」
この間の悪魔って……あ! この前会ったあの……? それとも別の……? とにかく、シエルが本当は侵略のためにやってきた事はまだバレてはいないようだ。
「それで、私をどうするの? 殺すつもり?」
「殺す? まさか。俺がしょっ引くのは悪さをする悪魔だ。視察に来たぐらいだったら別に何もする必要ねーよ」
王女はこの言葉を聞いてほっとした。ひとまず戦闘にはならずに済みそうだ。
「それに、お前はそんな悪い奴には到底見えねーしな」
「褒め言葉としてありがたく受け取っておくわ。魔王家の者としてね」
「魔王家!?」
クロノはききっと止まった。シエルも合わせる。
「お前、王女って……魔王家の王女だったのか!? 魔王の娘なのか!?」
「ええ、そうよ。さすがにこれには驚いた?」
「は……はは……はははははははは……」
彼は突然笑い始めた。
「? どうしたの? 急に」
「いや、世間はほんとに
「!? えっ!? 神って……あの神!? 天使の頭首の? クロノが……その弟?」
何という偶然。互いの種族を束ねる一族の者がひとつ屋根の下で暮らしていたとは。しかも、本来は敵対するはずのふたりが。
「……!」
シエルもついつい口をぽかんと開けてしまう。
「信じられない……!」
「ほんとにな」
ふたりはしばらく黙って見つめ合っていた。こんな偶然があるだろうか。
「……って、そういやお前、だからどこに行くつもりだったんだよ」
クロノのこの一言でシエルははっと我に返った。
「あっ……さっきのおっきい人!」
「さっきのおっきい人って……あのぶつかった? あいつを捜してたのか?」
「うん! もしかしたらあの人、悪魔かもしれない」
「捜してどうすんだ?」
「えっ!? それは……私もクロノと同じだよ。
これはあながち嘘ではない。
「何だ、悪魔も同じ事やってんのか? よし、だったら俺も手伝うぞ」
「う、うん。お願い」
「とりあえず、さっきの公園まで戻んねーか?」
「そ、そうだね」
というわけでふたりは再び臨海公園へと向かった。何だかおかしな気分だ。敵である天使と共通の目的のために行動を共にするとは。
公園の上空にはすぐに戻ってこれた。
「ん~……さすがにもういないかな……」
クロノはきょろきょろと地上を見下ろしている。シエルも捜す。臨海公園はなかなか広い。
「あれ? ……ねえ、あれ……」
彼女はとあるベンチを指差した。先ほどぶつかった大柄の男が座って休んでいるように見える。
「……のんきな……」
ふたりは少し離れた場所に下り立った。
「こんにちは」
ベンチで休んでいた男にシエルは優しく声をかけた。
「ぎょえっ!? 王女様!?」
男は目を丸くして跳び上がった。
「待って! 逃げないで!」
「そ、そない言いはっても、逃げへんとワイ、捕まるんとちゃいますか?」
「落ち着いて! 私はあなたを捕まえません! どうしてそう思うのですか?」
「え、だって、密行がバレたさかい……」
「密行? ……なるほど。許可もなしに境界に来ちゃったから、私に見つかると捕まって魔界に連れ戻されると思ったのね」
「……
「心配しなくても、私はあなたを捕まえません。確かに勝手にこっちの世界に来たのはいけない事だけど……何も悪い事をしなければ怒りません。そもそも、異界の秩序を乱さないための法ですし」
「わ、悪い事なんて、なーんにもしてません! ワイはただ、商いに来ただけですさかい!」
「商い?」
「はい! ワイは商人をやってますギルバートいいます。魔界のそらもうありとあらゆる所へ商い回りまして、いよいよ行く所がなくなったさかい境界に来たっちゅう訳です」
「異世界にわざわざ商売に来たってかい」
ベンチの後ろの茂みからクロノが顔を出した。
「うわあびっくりしたあっ!」
「どうしてまた」
彼は驚くギルバートに構わず尋ねる。
「どうしてって……だって、ワイの昔からの夢やったんです。いつか異世界で商いをやって、繁盛したるって。ワイの腕が異世界でもちゃーんと通用するって所を証明したかったんです。魔界中を渡り歩く行商人はワイ以外にもそこそこいてはりますけど、異世界にまで足を伸ばした
「物好きな……」
クロノは共感出来ないようだった。
「ところで、あんさんは?」
「俺? 俺はクロノ。天使。よろしく」
「はあ、よろしゅう……って、ええっ? 天使?」
ギルバートは跳び退く。
「うん。ほら」
クロノはばさりと翼を広げた。
「ほ……ほんまや……! 王女様! どないします!?」
「そ、それがねギルバート……私の友達なの……」
「と、友達ぃ!?」
「私達もさっきお互いの素性を知ったばかりなんだけど……悪い人じゃないから」
「せ、せやかててっ、天使ですよっ!? 天使と悪魔は敵同士っちゅうんは昔っからの常識やないですか!」
「そ、そうなんだけど……でも、私達は友達だから……」
「そうそう。それに敵同士っつっても、今はとっくに停戦してるし、お互い無干渉を決め込んでるからそんなに慌てる事でもねーと思うけど」
「ま、まあ、ワイも客なら天使も悪魔も関係ありませんけど……」
「理解早いね、あんた」
「それじゃ、ここには商売のために来たのであって、決して悪い事をする気はないのね? ギルバート」
シエルはしっかりと確認をとった。
「は、はい! それはもちろんです!」
彼は自信あり気に答えた。この人、ひとまずは信用してもいいのかな、とシエルは思った。
「じゃあさ、あんたの店連れてってくれよ」
するとクロノが突然こう言い出した。
「そうね、私も見てみたいわ」
彼女も賛同する。念のためにその店とやらを実際に見ておくのがいいかもしれないし、単純に好奇心から見てみたい。
「そっ、それはもちろん!」
ギルバートは喜んでふたりに案内を始めた。
「この下です」
その入口は午前中に彼らが歩き回った繁華街のアーケードの片隅、並行する五本の通りを垂直に交わり繋ぐ
「看板とかねーのかよ」
「こないだ借りたばっかりで、まだ開店準備中ですねん。ささ、足元に気い付けて」
ギルバートに続いてふたりは地階に伸びる階段を下りていった。
下に着きドアをくぐると、暗い空間に入り込んだ。
「ちょいお待ちください。今電気点けますさかい」
そう言ってギルバートが店の奥へと消えた数秒後、ふたりの視界がぱっと明るくなった。
「……わあ……!」
そこはログハウスのような内装だった。観葉植物が立ち、水槽に魚まで飼われている。天井の角にはスピーカーが設置されていた。音楽を流すのだろう。
「どうですか? ワイのマイ・ショップ」
店の奥からギルバートが自慢げに話してきた。何と、彼はバー・カウンターの奥に立っている。
「おい、店ってバーかよ」
「
「じゃあそのカウンターは何なんだよ」
「もちろんカウンターです。ついでにカフェもやろう思いまして。アルコールは扱いません。ワイのモットーは老若男女が満足出来る商いですさかい」
「へ~……それにしても意外とおしゃれじゃねーか……変な言葉遣いするくせに」
「シュヴァルゼン訛りよ。商人の町が多くて有名なシュヴァルゼンっていう国があるの。多分そこの出身なんだと思う」
シエルが解説を加える。
「オープンはいつ頃なんだよ」
「ん~……来月出来たらいいな思てますけど……」
「それじゃあオープンしたら遊びにくるね」
「はい! ええもんぎょうさん準備してますさかい!」
「ま、とりあえずは危険視しなくてもよさそうだな」
クロノがシエルに話しかける。
「そうね。もう帰る?」
「ああ。開店準備の邪魔しちゃ悪いしな」
「じゃあちょっと外で待ってて。ちょっとだけギルと
「? ああ」
彼が外に出たのを確認してから彼女はギルバートの近くまで寄っていった。
「あれ? 王女様はまだ帰らへんのですか?」
「ちょっと大事なお話があるんだけど……」
シエルは声を潜めた。
「彼、クロノはね、実は、神の弟なの……」
「えぇっ!?」
ギルバートは大声を出す。リアクションがいちいち大きい。わざとには見えないが。
「しっ! それでね、どうやら境界で悪さをする悪魔を捕まえにきたみたいなの」
「それ……王女様大丈夫ですの? もし侵略にきたいうのがバレたら……」
「そう! それなの! クロノにはその事はもちろん内緒にしてるの! だからお願い! ギルバート! どうかその事はクロノには黙っておいて!」
彼女は両手を合わせて頼み込んだ。
「そりゃあ王女様のお願いやったら聞かない訳ありませんけど……」
「……けど?」
彼はにやりと不敵な笑みを浮かべる。
「実はこの店、ただの雑貨屋ちゃいますねん。もちろん普通の境界の雑貨も扱いますけど、魔界の、こっちにはあらへんようなもんも売ろう思てますねん」
「……それはつまり、密輸……って事?」
「お堅く言うとそないなりますね……」
「……それを見過ごせと?」
「約束します。ぜーったい危険なもんは扱いません」
「……わかったわ。でも、魔界の物なんてどうやって仕入れるの?」
「それはまあ、これで……」
ギルバートはポケットからぴらっと一枚の札を出した。シエルは何だかその札に見覚えがある。
「……それはまさか……異界への門を開ける……!」
「レプリカです。さすがにモノホンは魔王家にしかありませんから。範囲がごくごく狭くて尚且つ回数制限がある奴です」
「……そんなものが出回ってるの……?」
「裏のルートにね……」
「……わかったわ。それも、とりあえず今は見逃します」
「おおきに! それから、同業者もこっちに何人かはいはるみたいですよ。何とかそのネットワークに入り込めたら思てますのん」
「そうなの……?」
魔王家が把握出来ていないだけで、思ったよりもたくさんの悪魔が境界にはいるらしい。それが全員悪い連中とも限らないが。ギルバートのように(恐らく)純粋な思いを持ってこちらにやってきた者もいるだろう。
「ただし、もし約束を破ったら、その時は……」
シエルは釘を刺す。
「わかってます! ワイも魔王家は怖いもんで。せやからワイも絶対あの坊主に、いやいや誰にも王女様の秘密は喋りません!」
「わかりました。交渉成立ね。ほんとに商売上手な事」
「毎度おおきに」
とりあえずはこれで彼から自分が境界に来た本当の目的がクロノに漏れる事はない。彼女は商売人に別れを告げ店の外で待つ少年の元へ向かった。
地上ではクロノが退屈そうにしていた。
「何話してたんだ?」
「え? 何かあったら相談に乗るからねって」
「ふ~ん……」
「帰ろっか」
「おう」
ふたりで並んで歩き出すと、改めて奇妙だなとシエルは思った。天使と悪魔が共に歩んでいるのだ。
「ふふっ」
「どうした?」
思わず彼女は笑った。
「んーん。天使って、何か悪い人達だって思ってたけど、実際会うとそうでもないんだなって思った」
「そりゃまあ、1000年前にあんな事があったんならそうなるだろうな」
でも、私は侵略のためにここにやってきたんだ……いずれは天使に対抗するために。悪魔の未来のために。その事を忘れてはいけない。
そうだ、私はそのためにやってきたのだから。
……でも……シエルはクロノを見つめた。
「? 何だよ、シエル」
隣を歩くだけで、どうしてこんなにもどきどきするんだろう。声を交わすだけで、どうしてこんなにも弾むんだろう。その瞳を見つめるだけで、どうしてこんなにも震えるのだろう。
「……シロでいいよ」
「え?」
「親しい人はみんなそう呼んでる。だから、シロ、でいいよ。シロ、って呼んで」
あーあ、せっかくさっき言えかけたのに、また言えなくなっちゃった。結局今日も言えそうにないや、この気持ち。
だから、ごめんなさい。
この気持ちを伝えるまでは、ほんの少しだけ侵略の事は後回しにさせてください。
「お、おう……シロ」
少年は少し照れながらも少女の名を呼んだ。
「うん……クロ」
「! んなっ! 何でその呼び方をっ……!」
「これからもよろしくね」
だって私、恋をしているから。
こうして、シロとクロ、ふたりの歯車は動き出した。そう、これは、天使と悪魔の、小さな恋の物語である。
第1節 運命の出会い 了
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