第8話 旅立ちその2
人が、空を飛ばなくなってからどのくらい経ったのだろう。
なんて事を、人はその内言うのだろうか。
「坊ちゃま~、起きてください、坊ちゃま」
コンコン、と部屋に軽い金属音が鳴り響く。
「ん……ん~……」
何だよ、せっかく気持ちよく寝てたのに……。
少年は寝返りを打ち、ぼんやりと開きかけた目をまたぎゅっと閉じた。
「も~、坊ちゃま……起きてくださ~い!」
再びコンコン、と鳴る。今度は耳元に聞こえてくるので、否が応でも彼は目を開けた。
「……うるっせえよ……」
「あっ、やっと起きましたね~坊ちゃま! おはよーございまーす!」
天真爛漫な笑みがにゅっと彼の顔の前に現れた。
「……っ!」
彼はその距離の近さに慌てて起き上がる。
「エリー……その起こし方やめてくれよ……」
「ほえ? いけませんでしたか?」
少しも悪びれた様子のないこの女性の名はエリザベス。彼の身の回りの世話をする侍女である。両手に持たれたおたまとフライパンは、彼を起こす目覚ましだ。
「いや……いけないわけじゃないけどさ……ちょっとびっくりするよな」
「なーんだ、そしたら目が覚めてちょうどいいじゃないですか~!」
「お前なあ……」
こうしてクロノは今日も寝覚めの悪い朝を迎えた。
これから、彼の物語が始まる。
「さあそれでは歌って頂きましょう。フェアリー・テイルで『気持ちが伝わる5秒前』です。どうぞ~」
テレビでは近頃注目を集めているアイドルグループがヒットソングを披露していた。またこいつらか……と少年は画面を見つめる。
「ほ~んと、最近大人気ですね~」
エリーも同じくテレビを見ながら食卓に着いた。
「ああ、そうだな」
「さあ、今日のご朝食はエリザベス特製目玉焼きですよ~!」
「いつもだろ……」
彼女の言葉をさらりと流してクロノは目玉焼きを一口食べた。態度こそ素っ気ないが、エリーが作った目玉焼きは彼の舌にとてもよく合う。つまり好物だ。悔しい事に。
「いよいよ今日ですね~。いただきます」
彼女も食事をとり始めながら会話が進む。これがクロノとエリーの朝のお決まりだ。
「……そうだな……」
ご飯をもぐもぐとしながら彼は答える。
「坊ちゃま、今のお気持ちはいかがですか? まだ見ぬ世界にワクワクですか? それともドキドキですか? それともそれとも、エリザベスと離れるのが寂しいですか?」
「だ~っ、うるっせ~! 飯ぐらい静かに食わせろ! ったく……」
いくつなんだよお前は。と味噌汁をすする。もう今年で21だろ。俺と8つも違うのに、何だこの落ち着きのなさは。
食事を終えるとクロノは着替えて、支度を済ませる。ベルトポーチを身に着けて準備完了だ。
「じゃ、いくぞ」
「はい!」
ふたりは外に出て翼を広げた。
彼らは天使だ。彼らが暮らしている世界は天界と呼ばれている。天使はその背に純白の翼を持っており、必要な時は背面の小さな穴から広げて表に出し、自由に空を飛び回る。
ここで、彼らの歴史についても少しだけ触れておく。彼ら天使には悪魔と呼ばれる敵対種族が存在する。ただし、悪魔はこの世界にはいない。別の次元にある世界に暮らしている。それが魔界である。悪魔の姿は天使と酷似しており、唯一見分ける方法があるとすれば、翼の色である。天使の翼は清らかな白色であるのに対し、悪魔の翼は
加えてもうひとつ説明をしておく。クロノはその天使達の主導者である神の弟なのである。神は代々彼の一族が世襲しており、天界の政治を取りまとめると同時に天使の象徴となる存在なのである。
クロノの邸宅を出た後、彼らはその神の元へと向かった。といっても彼の邸宅はすでに神の暮らしている敷地内にある。ただかなり広いのである。
「ったく、ほんっとにだだっ広いな、ここ……」
大池を上から覗きながら彼は言った。水面には彼ら二人の飛ぶ姿がはっきりと映っていた。
「まあまあ、明日からしばらく来れないんですから……確かに疲れますけど……」
「いい加減線路でも通したらどうだ? じじいばばあにはきついだろ、この敷地内の移動」
天界の主な公共交通機関は機関車である。近距離ならばもちろん飛んでいく。
「ん~、でも、せっかく羽があるんですから。今の内に鍛えとかないと」
「エリーまでそんな事言ってんのか」
十分ほど飛行した後、ふたりはようやく神宮へと到着した。そのまままっすぐ神との謁見の間へと向かう。
「……遅い!」
そこにはもうすでに神が座って待っていた。彼の姉が。
「今何分だと思ってる!」
「え? 何分って……」
クロノはちらりと時計に目をやる。
「10時15分」
「約束は10時だっただろうが! お前はいつになったら時間通りに来るんだ!」
「だってよー、エリーが起こすのが遅くて」
とクロノ。
「ええっ!? そっ、そんな、私のせいですか!?」
とエリー。
「人のせいにするなっ!」
と神。
「人のせいにするなってさ、エリー」
「お前だこのアホ!」
いつものように姉弟喧嘩が始まった。
改めて紹介するが、この人物こそが天使の主導者、天界の象徴である神である。名はベル。クロノの姉だ。現在二十三歳。趣味は飲酒と花札・麻雀・トランプなどの遊戯。恋人絶賛募集中である。
神の一族は、嫡流はたったふたりしかいない。ベルとクロノの姉弟だけである。
「さて」
ふーっと息をひとつつき、彼女は場を仕切り直した。
「改めて言いますが、クロノ。あなたにはこれから天下ってもらいます」
これまでとは話し方が180°変わる。仕事スイッチが入ったようだ。
「おう。知ってるよ」
「……お前なー、一応儀式なんだからもう少し緊張感を持て」
口調が元に戻る女神。
「だったら何で祭儀場でしないんだよ」
「これはかなり特別な儀式だからこうやって限られた者だけでこの神宮の謁見の間で行うんだ」
「ふ~ん……」
天下り、とはすなわち天界を下って別の世界に行く事である。魔界にではない。
実は、天界、魔界以外にもうひとつ、天使が確認している世界がある。それが境界だ。
境界には人間という種族が住んでいる。彼らも天使と悪魔と見た目が大して変わらない。ただ決定的に違う点として、翼がない事が挙げられる。
境界は天使と悪魔の戦いの主な舞台となった場所だ。1000年前に戦争が終結して以降、実は天使がこっそりとその治安を守ってきた。
「つっても、形だけなんだろ? その治安維持は」
「まあそうなのですが……そもそもは1000年前の終戦時、悪魔が境界を侵略してこないかどうかを見張るために始まったのがこの天下りです。結局彼らはそんな事は一切行ってきていないのですが、形式的な儀式として今も私達神の一族の間で続いているのです。13になる年から6年間、これが昔からの決まりです」
「めんどくせえ……」
クロノは気だるそうに言った。
「仕方がありません。これは義務なのです。
「……でも正直な所、ちょっと楽しみではあるんだよな」
彼は瞳の奥の奥のさらなる奥をほんの少しだけ輝かせた。
「ほう……意外ですね。いつも冷めた顔をしているあなたが」
「人間ってのは翼がないんだろ? 何でかわかるか?」
「なぜって……それは、生物の進化の過程で生えてこなかったからでしょう」
「半分正解。生やす必要がなかったんだよ」
「……へえ……それはまたどうして」
「科学だ。人間には進歩した科学がある。自動車とか、電車とか。翼なんていらないんだよ。必要としてないんだ。ついに飛行機なんてのまで発明しちまった。自分で飛ばなくても飛べるんだよ。これだけ進化した種族はないね、と俺は思う」
境界の情報は使者によって度々天界へと入ってくる。確かに彼の言う通り、人間の科学には目覚ましいものがあるのは事実だとベルは認める。天使もその技術を参考にしたほどなのだ。
「なるほど。それは面白い解釈ですね。ならばよかったではありませんか。6年間、たっぷりと楽しんでくるといいですよ」
「いっその事永住してもいいんだけど」
「ぼっ、坊ちゃま! 先輩は、あ、いや、神様は坊ちゃまのたったひとりの肉親なんですよ! お願いですからそんな事言わないでください!」
横からエリーが口を挟む。
「はっはっは! そりゃあいい!」
しかし、対してベルも口調を戻して高笑いをした。
「何ならば期間を延長してもよろしいですよ? 生意気なあなたの顔を見ないで済むのならば」
「もうっ! 先輩まで!」
「だ~もうわかったからさっさと続けろよ。もう終わりか?」
また言い合いになる前にクロノが引き下がった。先を促す。
「いえ、まだあります。これから天下るあなたに、三種の神器を授けます。悪魔との戦闘に役立ててください」
「でも、どうせ会わないんだろ?」
「
「いやいいよ。めんどくさい」
「ふっ。では受け取ってください」
ベルは側の小さな台から三枚のカードを取ってその手を差し出す。クロノは前に出てそれを受け取った。
「えっ! 神器ってカードなんですか?」
エリーが驚いた声を出す。
「これは
続けて彼女はブレスレットを渡した。
「……これを装着しとけと? ……だせー……」
「黙りなさい。
「あのー、そのカードとブレスレットをどういう風に使うんですか?」
エリーがもっともな質問をする。
「ええ。そのブレスレットには溝がありますね?」
「……ああ」
クロノはブレスレットを見た。確かに細い溝がある。カードが一枚通りそうだ。
「そこにカードを通してください。そうしたらそのカードに埋め込まれている情報をそのブレスレットが読み取り、宝殿まで送ります。すると宝殿に仕掛けられている装置がそれを受信して、神器があなたの手元に転送される、という仕組みになっています」
「ふひゃあ~、凄いですねえ!」
「……それだけの技術があるならもっと色んな所に使えるだろうに」
こうした最先端技術が使われているのはごくわずかな場面だけだ。一般の人々の間にはまず浸透していない。そこまで需要がないからなのだが。
「一応神器の説明を簡単にしておきます。一つ、最強の矛神薙。矛といっても槍で……」
「あ~いいいい。知ってるから」
「しかし、一応これも……」
「もうめんどくせーよ」
「ですが、一応儀式なので……」
「神器の事はわかるからいいって。他には?」
「……わかりました。あとはこれを持っていってください」
そう言って彼女は再びカードを渡す。三種の神器とは別のものだ。
「戻ってくるための次元間移動用カードです。ここの転送室が目的地としてインプットされています。同じようにブレスレットでスキャンして使ってください」
「了解」
クロノは四枚のカードを大切にポーチにしまった。
「以上、これで終わりです。は~、めんどくさかった。あ、神器は間違っても悪魔以外には使っては駄目ですよ」
「りょ」
了解、の略である。
「……くそ生意気なガキだ……」
一通りの儀式が終わったので、ベルの口調はすっかり素に戻っていた。
「姉貴こそ、そんな言葉遣いしてていいのかよ。神なんだろ?」
「ああ言えばこう言う……もういい、とっとと行っちまえ! 境界にでも魔界にでも! 言語はもうインプットしておいたんだろうな?」
「ああ、昨日な」
クロノはこれから境界の日本という国に行く。そこで主に使われている言語のデータを事前に装置を使って脳に記憶させておいたのだ。
「じゃあさっさと行ってこい、我が愚弟よ」
「言われなくとも」
彼はくるっと出入口へと向かった。
「んじゃーな姉貴。またな」
そう言ってひらひらと後ろに手を振り、謁見の間を後にした。
「あっ、ちょっと坊ちゃま! ……もう、あんなお別れのし方って……しばらく会えないのに……」
「そんなに改まって別れのあいさつをしたって、何だかしんみりするだけだろ」
弟が去った後、ベルは平然と話した。
「何も今生の別れじゃあるまいし」
「……それもそうですね」
エリーは彼女の顔を見て微笑んだ。
「エリー、あの馬鹿をしっかり送ってやってくれ。それがお前の仕事だろ?」
「はっ! そーでした! では、しっかりと送り届けてきます!」
「……お前、忘れてたな……」
少年は神宮を出た後、敷地内にある研究施設の一部屋、転送室にいた。
「おせーよエリー。何でお前まで姉貴と一緒に見送ってんだよ」
「すっ、すいません! はは!」
この部屋にある転送装置でクロノを境界へと送り出す。それがエリーの役目だった……本人は今の今まで忘れていたが。
「ではエリザベスさん、こちらに」
「はっ、はいっ」
研究員の男に促され、彼女はコントローラーの前までやってきた。
転送装置はまるでガラス張りのカプセルのような形をしていて、外から中の様子が360°見える構造となっている。この中の空間を歪ませる事によって指定した別次元の一点へと中のものを移動させる事が出来るのだ。カプセルからは無数のケーブルが伸びていて、その根元は固定されたコントローラーへと繋がっている。
「では、この地点で間違いないですね?」
男がエリザベスに境界での到着地点の確認をする。コントローラーの画面に境界の地図と座標が示されていた。
「はっ、はい! 大丈夫です!」
「ではクロノ様。中へお入りください」
彼がコントローラーのボタンを操作するとカプセルのガラスの一部がスライドし、180°開いた状態となった。
「おう」
クロノはさっとカプセルの中に入った。
「ああ、坊ちゃま、大丈夫ですか? 怖くないですか?」
「……いつまでも子供扱いすんなよ……」
「では閉めますね」
「ああ」
男のボタン操作でカプセルのガラスは再びスライドし閉まった。いよいよ転送が始まる。
「それではいきます……1分前です……」
「あああああ! 坊ちゃま~! お気を付けて~!」
俺よりお前が興奮してどうするよ。
「30秒前……」
「……! そうだエリー……」
クロノは内部にあるマイクで外に話しかけた。
「はい? 何ですか?」
「俺がこれを終わらせて帰ってきた時ってもう18だよな? そん時はさー、さすがにもう坊ちゃまなんて呼ぶのやめてくれよ」
「……んー……でも、坊ちゃまはいつまで経っても坊ちゃまですからねー……」
「10秒前……」
「……そん時はもうガキじゃねーんだからな」
「わかってますよ。立派な成長、期待してます」
「5秒前……4……」
「それから……姉貴の世話よろしくな」
「承りました! いってらっしゃいませ!」
「1……転送!」
バシュッ。
という音が聞こえ、カプセルの中にあったクロノの姿が消えた。
「……坊ちゃま……どうかご無事で……」
「いやー、何事もなく転送が完了して一安心です」
研究員の男が安堵の溜め息を漏らす。
「どうも、ご苦労様です」
ふとコントローラーの画面を見るエリー。
「……あ! 座標……間違えてる……7じゃなくて1ですよ……!」
「えっ!?」
再びバシュッという音と共に、少年は見知らぬ場所に立っていた。
「……ここが……境界……」
辺りを見回す。確か人目に付かないように山の中を指定したはずだったけど……。
彼がいたのは、紛れもないビルの屋上だった。
「……どこだここ……」
その後彼は、予定よりも六時間ほど遅れてこの世界での新居に到着する。そこで運命の出会いがあるとも知らずに。
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