第6話 恋

 悪魔の王女、シエルが人間の住む世界、境界に来てから三日目。彼女は朝からテレビを見ていた。境界に来てから彼女はずっとテレビを見ている。魔界にはそんなものはないので大変珍しいのである。四角い枠の中に色々なものが映し出される。これさえあれば暇というものがなくなりそうだ。この技術をその内魔界にも導入出来ればなあ。みんなきっと驚くに違いない。

 今見ている番組では主婦にインタビューを行っていた。レポーターが街行く女性に声をかけ、夫との馴れ初めを尋ねる、といった内容である。そういえば、お父様とお母様はお見合いで出会ったとか言ってたっけ……と王女は若かりし日の父と母の姿を思い浮かべる。写真でしか見た事がないが、その頃の父は今よりももっと細身でシュッとしていた。

「出会った瞬間に、ビビッときたんですよ。こう、体に電気が流れるような」

 とある主婦が照れ臭そうに語っている。その腕には赤ん坊が抱かれ、幸せそうな笑顔だ。

 私も、いつかこうなる日が来るのだろうか。お父様とお母様のように、誰か男の人と一緒になって、こんな風にかわいい赤ちゃんを抱いて歩く。そんな日が、私にも来るのだろうか。

「ふあ~……おはよー」

 そんな事を考えていると、寝起きのクロノがリビングに入ってきた。昨日から突然同居する事になった少年である。

「おはよう。眠そうだね」

「ああ、昨日ここに来たばっかで疲れてるからな」

 彼はぐしぐしと目をこすりながら答えた。

「だったらまだ寝てればいいのに」

「んー……何となく起きた」

 何だか普通に会話出来てるな。昨日の印象はあんまりよくなかったけど、そんなに嫌な人じゃないのかも。シエルは少し安心した。

「あれ」

 ダイニングテーブルを見たクロノが不思議そうな声を出す。もっとも、気だるそうに喋るため声に大した抑揚はないが。

「これは?」

 テーブルの上に置かれていたサンドイッチを指してシエルに尋ねてくる。先刻彼女が朝食を買いに行った時に彼の分も買っていたのである。

「よかったらどうぞ。ついでに買ったから」

「おお。ありがとな」

 彼は椅子に座ってサンドイッチを食べ始めた。

「なあ」

 口をもぐもぐしながらクロノはシエルに声をかける。

「なーに?」

「お前今日暇か?」

「? 暇……っていえば暇だけど、どうして?」

「何だそれ。何かやる事あんのか?」

「えっ……べ、別にないけど」

 侵略の事を考える、とは言えない。

「だったら、この街を探索しないか?」

「街を探索……」

 いいかもしれない。この街の地理を把握しておく事は侵略にとっては重要な事だろう。

「いいね、それ」

 彼女は笑顔で返事をした。


 というわけで、シエルとクロノはマンションを出て街に向かった。まず彼らが行ったのは、街の中心地、駅周辺である。ふたりが住むロイヤルハイム浅川から徒歩二十分程度だ。

「これが駅……」

 電車というものに乗れる場所。今は人数ひとかずが少なく穏やかだ。時間帯によってはもっと賑わうのかもしれない。自動車よりももっと速い乗り物、電車。乗ってみたいなあ……と王女は思った。

「も、もしかして、電車乗るの?」

 やや興奮気味にクロノに尋ねる。

「え? 別に乗るつもりはねーけど……乗りたいの?」

 彼はあっさりと答えた。

「えっ? べ、別に、そんな事は……」

 まずい。電車にも乗った事がないとか思われたかな。私はあくまでも人間のふりをしてこの人の前で過ごさないといけないんだ……。

「んじゃ、次行くか」

「あ、うん……」

 あうあう、と彼女は何度も駅を振り返りながら少年の後を追い、ふたりはそのまま目の前にあるアーケード商店街へと向かった。ここもやはり静かだ。

「あ!」

 シエルは洋服屋の前で立ち止まった。

「ねえねえクロノ! ちょっと見てもいい?」

「え? ……ああ。俺はここで待ってるよ」

 彼女はうきうきしながら店内へと入った。

「うわあ……かわいい服がいっぱいある……!」

 魔界の服屋とはまた少し違ったラインナップだ。あ、これいいな……これから暑くなってくるし、こっちの薄手のもいい。夏になったら思い切ってノースリーブでも着てみようかな。

 などとあれこれ見回っている内に、三十分は経っていた。

「……おう、楽しかったか?」

 外でクロノが待っている事に気付き慌てて店を出ると、彼はぶすっとした顔でショーウインドウに寄りかかっていた。

「ごっ、ごめん! つい物珍しくて……!」

「物珍しい? 何が?」

「えっ、あっ、何でもない!」

「?」

 危ない危ない! また不審がられる所だった。私はこの人の前では人間らしく振る舞わないといけないんだから。

「そっ! そんな事よりお腹空いてきたね! ご飯食べよっか?」

「……誰かさんが待たせるからな」

「さ、さあ行こっ」

 ふたりは商店街にあったハンバーガー・ショップに入った。手軽に食べられるものがいい、というクロノの意見を参考にしたのであるが、そこで王女は衝撃を受ける。

 注文してからたったの一分で頼んだ商品を渡される。何という速さ。

「ま……魔術でも使ったのかしら……」

「え? 何だって?」

「え、いや何でもない」

 これが人間の力だとでもいうの? もしかしたら彼らは、魔術なんかよりももっと恐ろしい力を持っているんじゃないの? これは侵略は一筋縄ではいかなそうだ……。

 店は五階まで席があり、ふたりは最上階まで上った。別に一階に十分席は余っていたのだが、何となく上の方へ行きたかったのだ。

「せっかくだから窓の方へ座ろうよ」

「何がせっかくなんだよ」

「景色が見たいし」

 そう言って端っこの席に座る。さすがに五階という事もあって窓の外には建物と空しか見えなかった。だがその空の色、何とも美しい青色か。魔界の空よりもずっと明るい青。この空を見るだけでシエルは心躍った。

「景色っつっても、何も見えないぞ」

「見えるじゃない」

「……何かいるか?」

「何もないから、綺麗なんじゃない」

「はあ?」

「それより、早く食べよう?」

 ふたりは包み紙を開いてハンバーガーを食べ始めた。そういえば朝もパンだったな。

「……なあ」

「何?」

「空、好きなのか?」

「え?」

 クロノはストローに口を付ける。

「……好きだよ。こんな空見たの、初めて。とっても綺麗」

「……そーなんだ」

「……! はっ! あっ、えっと、普段はあんまり空とか見ないから……」

 ちょっと苦しい言い訳かな……と彼女はハンバーガーを一口二口三口と含めるだけ含んで言葉を絶った。

「もしかしてさ、飛びたい、とか思ったりするわけ?」

「もぐもぐんぐんぐ?」

「……何でもねーわ」

 クロノは質問を取り下げて今度はフライドポテトに手を伸ばす。

 シエルはふと外を眺めた。すると遠くの空に思いがけないものを目撃する……人が飛んでいる……? 黒い翼で……。

 ……悪魔……?

「んぐんぐんごっ!」

 びっくりしてハンバーガーを喉に詰まらせる。こんなにいっぱい食べなきゃよかった。

「おっ! おい! 大丈夫かよ!」

「んっ……んんん」

 彼女は急いでドリンクを喉に流し込んだ。

「ぷはっ! あー苦しかった」

「一度にいっぱい食べるからだろ」

「そっ、そうだね……!」

 そう言ってガタッと席を立つ。

「? おい、どこ行くんだ?」

「ちょっ、ちょっとお手洗いに!」

 ばたばたとトイレに駆け込む。中には窓があった。よし、ここなら……。

 彼女は窓枠に足をかけ、空に身を投げた。瞬時に翼を広げる。

 さっき空に見たもの、あれは紛れもなく人だった。黒い翼の生えた。どういう事……? 私以外にも、ここに来ている悪魔がいるの?

「もう……どうしてこう知らない事が次から次へと……!」

 王女は先ほどの悪魔らしき存在の飛行ルートを予測して空を翔けた。まだそんなに離れていないはず……私がスピードを出せば追い付くかも……!

 シエルの予測は当たり、すぐに目の前に先ほどの人影を発見した。やはり悪魔だ。間違いない。彼女はさらにスピードを上げた。

「ちょっと! そこのあなた!」

「えっ?」

 悪魔の男は驚いて振り向く。

「え? あれ? もしかしてあんたは……!」

 シエルの顔に見覚えがあるようだ。王女だとすぐに気が付いたのだろう。

「王女シエルです。今すぐお話がしたいので、どこか人がいない所に下りませんか」

「……いいでしょう」

 そして、シエルと男は廃墟へと降り立った。ずいぶん前に人は去っていった雰囲気で、見るからにぼろぼろの外見だった。

「単刀直入に聞きます。どうしてここにいるんですか」

「……あんたと一緒さ。次元の穴に飛び込んだ」

「……まさか、私が開いた、一昨日?」

「そうさ。次元のゆがみは複数箇所で同時に起こる。どこかが歪めば、必ず他のどこかも歪んでいる。あんたが開けた時にももちろん世界中の他の何箇所かで次元が歪んだ。それに俺は飛び込んだのさ」

 次元の歪みは同時多発的に起こる。この事はシエルも知っていた。魔術で人為的にひずませなくても、そもそも次元の歪みは自然発生するものであり、幾多の観測からこの事実は知れ渡っていた。魔界はこれまで境界に公式には手を出していないが、自然発生する歪みに飛び込んだ、または巻き込まれた悪魔がこれまでにひとりもいないのかといえばはっきりとそうだとは言えない。次元の歪みはいつ、どこで起こるか予測不能なのだ。こればかりはどうしようもないのである。

「もしかしたらとはお父様が言っていたけど……ほんとに起こっちゃったみたいね。しかも自分から飛び込んだなんて……確認するけど、あなたは急進派かしら」

「急進派? そんなもんかんけーねーよ」

 男は目を吊り上げた。

「境界侵略とか俺にとっちゃどうでもいいんですよ。ただ楽しめればそれでいいの」

「楽しむって……どんな風に?」

「ん~……王女様みたいな子供には言えないかな~……」

「……何を考えているのかわかりませんが、下らない事はやめてください」

「もしかしたら、王女様の侵略の手助けになったりするかもしれなかったりですよ~」

「手助けは不要です。まずは私がひとりでここに向かう。それが議会で決まった世界の意見です。私の意に背くような行動はくれぐれも行わないようにしてください。わかりましたね?」

「あ~、わかったような、わからなかったような……」

 何とも歯切れの悪い回答だ。

「それと、無闇に空を飛ぶのも控えてください。正体が人間にばれてしまいますから」

「俺の正体が人間にばれようが王女様には関係ない事だろ?」

「あります。一度悪魔の存在が確認されてしまうと、同じ悪魔である私が動きにくくなります」

「へえ~……それは気を付けますよ……」

 男の言い方は何とも信用出来ないようなものだ。

「……お話は以上です。では、くれぐれもお気を付けて」

 シエルは地面を蹴った。

「あれ? 空は飛んじゃ駄目なんじゃなかったんですか?」

「……これは仕方がないんです! あなたを追いかけてきたおかげで、私は友人を待たせてしまっているんですから。もちろん細心の注意を払います」

「へ~、侵略をなさる王女様が早速人間のご友人を作られたんですか。さすがでございますね~」

 彼は皮肉るように言った。

「……それでは!」

 王女は男の元を去り、クロノが待つハンバーガー・ショップを目指した。今の人……何だか話していてとても不愉快だった。昨日初めてクロノに会った時は少しむっとしたけど、それよりももっともっと嫌な感じだった……何事もなければいいのだけど……。


「……大丈夫か?」

 店に戻るとクロノはもうとっくに完食していた。そりゃそうか。また二十分ぐらい待たせちゃったし。

「その……具合悪いのか?」

 少し聞き辛そうにしながらも彼はシエルの身を心配していた。意外にデリカシーあるんだ、と彼女は彼を見直した。

「あ~……大丈夫。その……待たせてばっかりでごめん」

 ほんとに申し訳なく思っていた。まさか境界で悪魔と出会うとは……シエルも驚きである。

「さ、さっさと食べちゃうね!」

「無理はするなよ」

「あ、うん」

 目の前の少年を見ながら少女は自らの言葉を思い返していた。クロノの事を友人と言った。私達は、もう友達なんだろうか。

 食事を済ませると彼らは帰路に就いた。まだまだ街には見回る場所があるのだが、ふたりとも精神的に疲れていたからである。シエルは悪魔の男の事で、クロノは待ち続けた事で、である。

「ねえ……怒った?」

 帰り道、シエルは思い切ってクロノに聞いてみた。

「? 怒った? 何で?」

 だが彼女の予想とは裏腹に、彼はけろっとしたように答えた。

「だって……たくさん待たせちゃったから」

「女の買い物が長いのは当たり前だし、それにさっきのは……しょうがないだろ」

「あ……そう……ならよかった……あ……あのさ……」

「何だ?」

「私達……もう友達……かな……?」

「……」

 クロノは何も言わずに空を見た。

「そんなの、友達ならいちいち確認する必要ねーだろ」

「……!」

 シエルの顔はぱあっと明るくなる。

「……り、先帰っててくれ」

「え?」

 突然、クロノはそんな事を言った。

「ちょっと用事が出来た」

「え? 用事?」

「じゃ、先に帰ってろよ!」

 そうして彼はどこかへと走っていった。

「……? 何なんだろ……?」

 まあ何はともあれ、クロノと友達になれた事だし、これで境界侵略は一歩前進したわけだ。あとは彼ともっともっと仲良くなって、奴隷にしちゃえばいいんだ。とりあえず、そこから始めよう。

 そしてシエルが部屋に戻ってから約三十分後にクロノも帰ってきた。彼女が用事って何だったの? と尋ねても彼は教えてはくれなかった。

 それからさらに三時間ほど過ぎた頃、事件は起きた。

「あれ? お前何飲んでんの?」

 シエルが朝買っておいたミルクティーを飲んでいるのを見てクロノが言った。

「ミルクティーだけど……飲む?」

「おう。コップコップ……」

「はい」

「サンキュー」

 クロノがコップを用意し、シエルがミルクティーの入った紙パックを彼に手渡そうとした時。

 たまたま、クロノの手にシエルの手が触れてしまった時。

「ひゃっ!」

 触れた指先からぴりっと体中に刺激が走った。まるで電気が流れたかのようだ。

「おっ! どうした?」

「え……今びりって……」

「え?」

「!」

 その時、彼女は朝に見ていたテレビのインタビューを思い出した。

 ビビッときたんですよ。こう、体に電気が流れるような。

「……!」

 はっとしてとっさに触れた手で口を塞ぐ。体はかたかたと震え出し、頬はぼっと熱くなる。目はずっとクロノを見つめていた。

「? おい? そのびりって……」

「な……何でもない!」

 彼女は急に恥ずかしくなって部屋を飛び出た。

 ビビッときたんですよ。こう、体に電気が流れるような。

       いつかこうなる日が来るのだろうか。

     大人になったら、その内わかるのかな。

              お父様がお母様に抱いていた、

   そんな日が、私にも来るのだろうか。


 ……そんな好き、私は一度も感じた事がない。


 これが……もしかしてこれが……恋……?

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