第4話 突撃! 隣のお兄さん
シエルが境界に来てから一夜が過ぎ、あと少しで二度目の夜を迎えようとしている。昨日ロイヤルハイム浅川101号室にやってきてからフェイスが作った愛臣弁当を食べた後、彼女は疲れて眠ってしまった。気が付いた時には日はすっかり暮れており、近くのコンビニエンス・ストアなる店に夕食を買いに行き(日本円は事前に手に入れている)、風呂に入った後食事を取りながらテレビというものを見ているとまた眠ってしまい、今日は部屋の家具を自分好みに配置したりテレビを見ていたりしているとあっという間に時は過ぎ、今に至るわけである。
そして、王女にはこれから大事な仕事が待っている。それは、隣人へのあいさつである。出発する前に父が言っていた。
―――――いいかい、新しい家に着いたらまず真っ先にお隣さんにきちんとあいさつをするんだよ。丁寧にね。
ほんとは昨日するべきだったんだろうけど疲れて寝ちゃったし、今日のお昼はいなかったし……。
「よし」
シエルは決心して立ち上がった。
「……緊張するなあ……」
隣の部屋の前に立ち、彼女は息を整えた。見知らぬ世界の住人へのあいさつ。今までで一番緊張しているかもしれない。
それに、これはただのあいさつではない。シエルはこの境界に、侵略のためにやってきたのである。彼女は考えた。境界侵略の一歩目として、まずは隣人から支配していこうと。言うなれば奴隷である。どうすれば相手が快く自分の隷属になってくれるだろうか。彼女は小さな頭をひねって考えたが、結局よくわからなかった。
とにかく、礼儀正しく、いい印象を与えれば、オーケーしてくれるかな。
「……これを押せばいいのかな」
ドアの横にあるボタンをぽちっと押した。
少しすると、中からどすどすどすと音が聞こえ、ドアが少しだけ開けられた。
「はい?」
顔を覗かせたのは青年だった。フェイスと同じくらいの年かな、と彼女は思った。
「あ、あの……」
少女は勇気を出して喋り始めた。
「隣に引っ越してきました。シエルっていいます。よろしくお願いします」
「はあ……」
よし、掴みはオッケーかな……? ちょっと面食らっているように見えるけど、突然訪問者が来たからびっくりしてるんだろう。
早速本題に入ろう……彼女は言葉を繋いだ。
「あの、ちょっと大事なお話があって……上がってもいいですか?」
「は?」
彼は口をぽかんと開けた。急にこんな事を言い出したのは、奴隷になってほしいなどという話をとても表(屋内であるが)でするわけにはいかないからだ。それにしても、ちょっと急すぎたかな……。
「……駄目ですか?」
彼の顔を見上げ、シエルは首を傾げた。
「……別に駄目じゃないけど……」
青年は困っているように見えたが、部屋に上がる許可を出してくれた。やったね。
「じゃあ、おじゃまします!」
彼女はにっこりしながらドアの隙間から玄関に入り込んだ。
「ちょ、ちょいちょい!」
そのまま靴を脱いで部屋に上がろうとすると、彼はさっとシエルの前に滑り込んできた。
「ストップ!」
「? 何ですか?」
さっき上がっていいって言ったのに……もしかして、おじゃまします以外にも、他人の家に上がる時に行わないといけない儀式みたいなものが境界にはあるのかな……。
「ちょ、ちょっと今、部屋が散らかってて……」
青年の言葉を聞いて、あ、何だそんな事か、と王女は安堵した。
「そんなの、私平気です」
「俺は平気じゃないの!」
間を置かずに彼は返してきた。そんなに気を遣わなくてもいいのに。
「だったら、お片付けします。そしたら上がってもいいですか?」
「いや、片付ける時点で上がってるから! 矛盾してるから!」
彼はがっとシエルの肩を掴んだ。
「ひゃっ!」
「ご、ごめん」
すると、ピンポーン、と音が鳴る。
「えっ!? またお客さん!?」
青年は覗き穴から外を見る。
「……外か……いいかい!? ちょっとここで待っててね! すぐに戻って来るから! 絶対に上がらないでね!」
驚いた様に彼は部屋へと戻っていった。どうやら別の訪問者がマンションのエントランスに来たらしい。どうする? シエルは咄嗟に考えた。もしその訪問者がこの部屋を訪れる事になったら、どうせならその人物も一緒に奴隷にできないものか。
部屋の奥から特に声は聞こえない。彼はモニターをじっと眺めているようだ。
「出ないんですか?」
シエルは尋ねた。奴隷候補が向こうから飛び込んでくるかもしれないのだ。
もう一度ピンポーンが鳴った。だが彼はなかなか応答しない。
まさか、この人、私の正体に気付いてる? 所詮人間じゃ敵わない事は知っているから、犠牲者を増やさないためにあえて出まいとしているの? さっき一度は上がっていいって言ったのに急に上がるのを止めてきたのも、私が悪魔だって知ったから? だとしたら、どうする? いっその事強硬手段に出る?
「は……はい! 叶ですけど!?」
少女が思考を巡らせていると、彼は突然話し始めた。その言葉を耳を澄まして聞いてみるが、特に何か彼女の事を知らせている様子はないように感じられる。
会話が終わった。訪問者もこれからこの部屋に来るらしい。
が、彼はなかなか戻って来ない。まさか、やはり気付いている……?
「あのー……まだですか?」
思い切って尋ねてみた。すると彼は急いだ様に彼女の元へ戻って来た。
「シッ……シエルちゃん……」
「はい?」
「上がっていいよ! 上がっていいからドアを閉めて部屋の中で黙って待っててね!」
今度こそ正式な許可が下りた。どうやら彼女の考え過ぎだったようだ。シエルは嬉しい声で返事をした。
「はい! わかりました!」
それから靴を脱ぎ、きれいに揃えて置いてから廊下を進んだ。よかった、やっぱり私の正体に気付いてなかったみたい。
そしてその先では、奇妙な光景が彼女を待ち構えていた。
壁に何枚も貼られた、その全てに少女の絵が描かれているポスター。小さな音楽を流しながらずっと同じ絵を表示している画面(パソコンという奴だ)。CONTINUEと書かれた文字の後ろ側にはやはりうっすらと少女の絵が見える。床には小さなケース。もちろん少女の絵が描かれている。
「……女の子が好きなのかな……?」
男の人だったらみんなそうかな、と少女は思った。でも、私は別にそんなに男の子が好きでもないしな……でもまあ私は女だし。女と男は違うし。そもそも、好きって何なんだろ……お父様やフェイスやサバスに対する好きとは違う好き……お父様がお母様に抱いていた、ううん、今も抱いている好き……そんな好き、私は一度も感じた事がない。大人になったら、その内わかるのかな。
そんなに散らかっていない気がするけど。王女は壁際に置かれているベッドに腰を下ろした。大魔城の彼女の部屋のものと比べると全然小さいし、ふかふかも全然しないが、これはこれで落ち着く。昨日はリビングでそのまま寝ちゃったから、まだ自分の新しいベッドで寝てないや……気持ちよかったらいいな。
「……これが、人間の部屋か……」
壁に貼られているポスターをもう一度眺める。
すると、来訪者が帰ったらしく、青年は大きな音を立てながら部屋に入ってきた。残念、奴隷候補は増えなかった。
「君は! 何をしに来たの! 大事な話って何!」
「え?」
何やらただならない様子だ。上がっていいよと言ったさっきとは態度がまるで違っている。
「さっき言ってただろ! 大事な話があるって! 何!」
怒鳴りながら彼はどかどかとシエルの元へと迫ってくる。
しかし、足が滑ったのか、突如彼は体勢を崩した。
「あ……」
大きな影がシエルに被さり、彼女はそのままベッドの上に倒れた。
「……」
こんなに激しく迫ってくるとは。よっぽど何の話かが気になるのか。
よし、だったら話そう。
「……」
しかし、青年に気圧されて何だかなかなか言い出せない。彼はずっとシエルの顔を見つめている。
「あの……」
奴隷になってください。
っていきなり言って、はいって言ってくれるかな? それに、初めて会ったばかりの人だし、奴隷っていう言葉はちょっと硬いというか、もう少し婉曲な表現がいいんじゃないかな……。
そこで少女は閃いた。
言いなりになってください、っていうのはどうだろう。何だか柔らかい表現だし、いいんじゃないかな。よし、これでいこう。
「すーっ……はあーーーーーーーっ」
しっかりと深呼吸をしてから言葉の準備をする。緊張するなあ……。
「い……言いなりに
……! 言っちゃった……! 顔が燃えるように熱い。それだけ緊張している。
「……」
シエルも青年も、お互い黙り合っていた。なぜだかわからないが彼の顔も赤くなっている。
「……駄目ですか?」
小さな声で回答を促した。
「うわあああああああああ!」
すると突然彼は叫び声を上げた。いきなりすぎてシエルは驚いた。
「あの! 意味がわかんないんだけど!」
彼は赤い顔で続けた。
「えっ……!」
やっぱりはっきりと言った方がよかったのかな? 私の奴隷になってくださいって。それとも私、何か言い間違えちゃったかな? まだ使い慣れていない言語だから、ちょっと文法とか単語とか間違えちゃったかも。
「帰ってくんない!? 今すぐ帰ってくんない!?」
「えっ……駄目……ですか?」
これは、断られている……? それに、もしかして、怒ってる……?
「君い、見知らぬお兄さんをからかっちゃいけないよおっ!」
シエルはがばっと抱えられ、素早く部屋の外まで持っていかれた。
「俺は叶! よろしくね!」
そう言い捨てて彼はガチャンとドアを閉め切った。
「……」
少女は少しの間彼の部屋の前に立ち尽くしていた。やっぱり、初対面でいきなり奴隷にしようとしたのは失礼だったかな……怒ってたし。きちんと謝りたいけど、多分今日は無理だろうな……また明日謝りに来ようかな。申し訳ない気持ちでいっぱいになりながら、彼女は自分の部屋に戻った。
「!」
玄関に入ると、彼女が先ほど出ていった時とは決定的に様子が違っていた。
……靴がある!
誰かの靴が置かれている。彼女は靴は一足しか持ってきていない。その一足は今履いている。という事は……。
誰かが部屋に上がっている!
「……? 一体誰が……?」
勝手に人の部屋に……空き巣? 魔術でこらしめちゃおうかな……?
少女はそーっと部屋に上がり、ゆっくりとゆっくりとリビングに足を踏み入れた。そこでその瞳に映したのは……。
「お? 誰?」
そして、運命は動き出す。彼と彼女の知らない間に、ゆっくりと。
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