『斜めのカウンター』
北風 嵐
p1
居酒屋のカウンターは斜めになっていた。年代物の厚い木のカウンターであった。
日本酒の兆子を置くと、ツツーと滑り落ちそうであったが、実際にはそうはならない。
人間の視覚は、ちょっとした歪みや、角度をオバーに捉える。
「粋やナー、わざと斜めに作ったのですか?」と訊いた。
「なんぼなんでも、そんな作りはしまへん」と、カウンターの向の女将は笑った。
「年数が経って、自然とそうなったんです」と板さんが答えた。
場所は神戸、三宮。阪急高架下。
長年の電車の振動でそうなったという。足元のコンクリートの床を見た。
床の中央部が軽く凹んでいるのだ。
そりゃそうだろう。なんぼなんでも、最初から斜めのカウンターを作りはしない。
自分の言った言葉に思わず笑ってしまった。女将が笑うのは無理がない。
「この客は何ととぼけているのか?」と思ったのに違いない。
この居酒屋は家族でやっている。女将といったが、〈おカーチャン〉と言った方がお似合いだ。息子はお燗係。兆子の加減を見たり、ビールの栓を抜いたりするのを専らにしている。おカーチャンは洗い物係兼フロアー係と云ったところだ。
板さんは、息子ではなく、親戚筋だという。
この店の主(あるじ)は店内にはいない。専ら店先の硝子戸の前にいる。〈客の呼び込み〉ではない。酔っ払った客を断る係りである。周りはバー、居酒屋、飲食店が一杯ある神戸一番の盛り場である。飲んだ帰りに、寄っていこうとする客がある。すでに出来上がっている三人組の客がある。店に入ろうとすると、主は「満席です」と無愛想に言う。
客は背伸びをして、すりガラスの上の見える部分から覗き込む。「空いてるやないか!」というと、「予約ですんや」と答える。
酔っ払った客が嫌いなのだ。酔うならうちで酔えと言うことらしい。
板さんは、でっぷり太っている。出っ歯で、大の阪神フアンだ。何時もTVのナイターが映っている。阪神が点を取ろうものなら、手は休めないが、大きな口を開けてエールを送る。その度に、料理に板さんのおつゆが多少かかる。それさえ我慢出来れば、料理は旨くて安い。
客は高架下の店主。高架から山手にかけてのバーに飲みに行くのに下地を入れるサラリーマン。そしてこの店をこよなく愛する常連たち。
主が無愛想なのに比して、おカーチャンは無茶苦茶愛想がいい。世の中は上手くなっているものだ。「息子に料理を少しは手伝わせればいいのだが…」と思うのだが、息子にその腕はないらしい。息子は30を過ぎているが、独身だ。当分、嫁は来そうな感じはない。
店は、古い造り酒屋の大看板が中央に架けられ、その両脇には、日本髪を結った着物姿の懐かしいポスターが貼られている。この店の主は、灘の中堅どころの造り酒屋の次男で、造り酒屋の跡は長男がとっているとのことだ。店名も○○酒店という同じ名前を使っている。店の前には○○酒店と書いた菰樽が段重ねてある。それらが無かったら、殺風景極まりない高架下の居酒屋になる。別に殺風景でもいいが、トイレの板戸ぐらいは新しくしてもらいたい。
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