エピローグ
エピローグ 前
カフェ&バー『
大学生のときは、よくコーヒーを飲みながらレポートを書いていた。ここのコーヒーの美味しさは格別で、インスタントのものが飲めなくなるほどだ。
お酒を飲める年齢になってからは、夜にも何度か利用したことがある。マスターの作ったカクテルは、居酒屋などで出されるそれとは一線を画していた。
秋のある日の夜。『D-HAL』で、私と
藍梨は二十七歳になってもやはり童顔で、まだ高校生と言っても通用するのではないかとさえ思える。高校時代にツインテールだった髪型は、今はポニーテールになっていて、こちらもよく似合っている。
「
「かしこまりました」
呂律の回らなくなり始めた藍梨のオーダーに、カウンターの内側にいる仙田
「ちょっと藍梨、そんなに飲んで大丈夫なの?」
「大丈夫だって。私のアルコール分解力は五十三万よ。ふふふふふ」
それぞれ別の大学へ進んだ私たちだったが、年に数回は一緒に遊んだり、飲みに行ったりという関係を続けていたのだ。高校を卒業してから八年以上が経ち、お互い社会人になった今も、こうしてときどき会っている。
私は大学を卒業後、大学院で臨床心理の資格を取得した。その後、中学校のスクールカウンセラーとして勤務していたが、現在は育児休暇中である。
藍梨は理工学部を卒業して、大企業でプログラマーとして働いている。そのうち自分でアプリを開発して起業するとか言っているけど、彼女ならやりかねない。
「それにしてもすごいよね」
藍梨が広げている雑誌を見て、私は言った。
「そうね。あの
その雑誌には、国内でも有数の大きな文学賞の結果が掲載されていた。今回の受賞者はなんと、私たちの高校の同級生である與
「インタビュー記事まで出てたよ」
藍梨はそう言って、ページを数枚めくる。
「ああ、うん」
そのインタビュー記事は、私も数日前に読んだ。そこに書かれていたことは、実はちょっと私と関係がある。
『高校生の頃に、一度だけ本気で、書くことをやめようと思っていた時期がありました。でも、そんなときに、同級生の女の子が僕に言ってくれたんです。「私は、與くんの小説がすごく好きだから、頑張って」って。びっくりしました。ちょうど、一番悩んでいたときだったので。そのときに書いていた作品が、僕のデビュー作なんです。あの言葉がなければ、今の僕はありません。彼女は何気なく言ってくれただけかもしれませんが、僕にとっては、人生を変える大きな一言でした。とにかく、感謝の気持ちでいっぱいです』
記事には、そんな風に書かれている部分があった。
私の運命の人をめぐる、ある非日常的な出来事が起こった高校二年生の夏。私は與くんが運命の人だと勘違いをして、重大な話があると呼び出してしまったのだ。
結局、勘違いでした、なんて言える雰囲気でもなかったので、代わりに前から思っていたこと、すなわち、記事に書いてあることを告げたのだった。
うすうす、彼が悩んでいたことには気づいていたけれど、そんな、人生を変える一言だなんて……。軽く励ましたつもりだったのに。
私の勘違いが彼を人気作家にしたと考えると、感慨深いものがある……ような気もする。
「それにしてもさ、この同級生の女の子って誰なんだろうね。
突然藍梨からそんなことを言われて、飲んでいたホーセズネックを吹き出しそうになる。ホーセズネックというのは、グラスの縁に飾ったレモンを馬の首に見立てた、ブランデーベースのカクテルだ。私が一番好きなお酒でもある。
「さ、さあ? わからないけど、與くんの小説は面白かったし、みんなそう思ってたんじゃない?」
「ふーん。みんな……ねぇ」
「そういえば藍梨、最近彼とはどうなのよ」
まだ気になっているらしい彼女の追及を逃れるため、私は話題を変える。
「聞いてよ! あいつったらね、土日は
彼女は、餌を前にした獣のように食いついてきた。
「早く結婚しちゃえばいいじゃない」
「そうなんだけどさぁ」
大きなため息をつく。
藍梨は現在、
「琴葉はいいよねぇ。素敵な旦那がいてさ」
「べ、別に素敵じゃないって、あんなやつ」
とっさに否定したけど、本気でそう思っているわけではなかった。首から上が熱くなったのは、たぶんお酒のせいだ。
「しかも教師! 公務員! 安定した将来! ああ、うらやましい!」
「たしかに安定はしてるかもしれないけどさ。教師なんて、残業が多くて大変だよ? それに燈麻くんだって公務員じゃん」
燈麻くんは市役所の職員だ。
「そうだけどさぁ。もっとこう、何というかさぁ、派手な感じの男はおらんのか!」
言っていることが滅茶苦茶だ。藍梨は酔うと、絡み方が面倒くさくなってくる。
「ほら、水飲んで」
仙田くんの叔父であるマスターが、気を利かせて持ってきてくれた水を飲ませる。
「プハッ! 私も石油王と結婚したいよぉ。玉の輿がいいよぉ」
毎回そんなことを言いつつも、なんだかんだで燈麻くんとの交際が続いているところを見るに、藍梨が純白のドレスを着るのも、そう遠くないのではないかと思う。もちろん横にいるのは燈麻くんだ。
「それなら
これはもちろん冗談だ。同じく同級生の伊凪
「やらぁ! みのくんがいいのぉ!」
なんだ、やっぱりラブラブじゃないか。
「ほら藍梨、そろそろ帰るよ」
「はぁい」
私たちは席を立った。
「ああそうだ、
会計を終えた私を、仙田君が呼び止めた。
「その呼び方で大丈夫だよ。何?」
ふらふらになった藍梨に肩を貸しながら、私は振り返る。
「よかったら、これ」
そう言って仙田君が渡してきたのは、小さな紙だった。
「これは?」
見ると、新しくオープンするバーのチラシのようだ。
「実は今度、自分のお店を出せることになって……。もしよかったら、来てほしいんだ」
「え? 自分のお店って、すごいじゃん!」
後ろの方では、マスターも嬉しそうにしている。
「うん、ありがとう。だから、旦那さんも連れてぜひ」
「わかった。今度絶対行くね」
そう言うと、私は藍梨を連れて店を出た。
外は秋風が吹いていて、セーターを着ていても少し寒かった。
「ごめんね、琴葉。こんな遅い時間まで」
駅までの帰り道の途中。両手を顔の前で合わせて、藍梨が言う。どうやら酔いが醒めたらしい。
「ううん。大丈夫だよ。子供の面倒も旦那が見てくれてるし」
「ま~た羨ましいことをおっしゃる。ああ、そういえば、明日じゃない? よかったら息子さん、預かりましょうか?」
そう。明日だ。
「いや、今年は一緒に連れていくことにしたの」
それに、藍梨に預けようものなら、何か変なことを教えられて返ってくるかもしれないし。
「そうなんだ」
藍梨が少し残念そうな顔をしたので、私の考えはおそらく正しい。
ひと際強い風が吹き、私は両手で体を抱きしめるようにして震える。
ふと上を見上げると、夜空に浮かぶ月が、私を見守ってくれているような気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます