エピローグ

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 カフェ&バー『D-HALでぃーはる』の店内は、いつもと同じようにお洒落だった。現在は午後の九時を過ぎていて、カフェの姿をしている昼に比べると、さらに一段階落ち着いた雰囲気である。薄暗い店内はムードに満ちていて、ジャズ調の音楽が耳に心地よい。

 

 大学生のときは、よくコーヒーを飲みながらレポートを書いていた。ここのコーヒーの美味しさは格別で、インスタントのものが飲めなくなるほどだ。

 お酒を飲める年齢になってからは、夜にも何度か利用したことがある。マスターの作ったカクテルは、居酒屋などで出されるそれとは一線を画していた。


 秋のある日の夜。『D-HAL』で、私と白幡藍梨しらはたあいりは談笑していた。

 藍梨は二十七歳になってもやはり童顔で、まだ高校生と言っても通用するのではないかとさえ思える。高校時代にツインテールだった髪型は、今はポニーテールになっていて、こちらもよく似合っている。


仙田せんだく~ん、おかわり~!」

「かしこまりました」

 呂律の回らなくなり始めた藍梨のオーダーに、カウンターの内側にいる仙田朔矢さくやが爽やかに応えた。


「ちょっと藍梨、そんなに飲んで大丈夫なの?」

「大丈夫だって。私のアルコール分解力は五十三万よ。ふふふふふ」


 それぞれ別の大学へ進んだ私たちだったが、年に数回は一緒に遊んだり、飲みに行ったりという関係を続けていたのだ。高校を卒業してから八年以上が経ち、お互い社会人になった今も、こうしてときどき会っている。


 私は大学を卒業後、大学院で臨床心理の資格を取得した。その後、中学校のスクールカウンセラーとして勤務していたが、現在は育児休暇中である。

 藍梨は理工学部を卒業して、大企業でプログラマーとして働いている。そのうち自分でアプリを開発して起業するとか言っているけど、彼女ならやりかねない。


「それにしてもすごいよね」

 藍梨が広げている雑誌を見て、私は言った。

「そうね。あのあたえっちがまさかねぇ」


 その雑誌には、国内でも有数の大きな文学賞の結果が掲載されていた。今回の受賞者はなんと、私たちの高校の同級生である與時宗ときむねなのだ。


「インタビュー記事まで出てたよ」

 藍梨はそう言って、ページを数枚めくる。

「ああ、うん」

 そのインタビュー記事は、私も数日前に読んだ。そこに書かれていたことは、実はちょっと私と関係がある。


『高校生の頃に、一度だけ本気で、書くことをやめようと思っていた時期がありました。でも、そんなときに、同級生の女の子が僕に言ってくれたんです。「私は、與くんの小説がすごく好きだから、頑張って」って。びっくりしました。ちょうど、一番悩んでいたときだったので。そのときに書いていた作品が、僕のデビュー作なんです。あの言葉がなければ、今の僕はありません。彼女は何気なく言ってくれただけかもしれませんが、僕にとっては、人生を変える大きな一言でした。とにかく、感謝の気持ちでいっぱいです』

 記事には、そんな風に書かれている部分があった。


 私の運命の人をめぐる、ある非日常的な出来事が起こった高校二年生の夏。私は與くんが運命の人だと勘違いをして、重大な話があると呼び出してしまったのだ。

 結局、勘違いでした、なんて言える雰囲気でもなかったので、代わりに前から思っていたこと、すなわち、記事に書いてあることを告げたのだった。


 うすうす、彼が悩んでいたことには気づいていたけれど、そんな、人生を変える一言だなんて……。軽く励ましたつもりだったのに。

 私の勘違いが彼を人気作家にしたと考えると、感慨深いものがある……ような気もする。


「それにしてもさ、この同級生の女の子って誰なんだろうね。琴葉ことは、知らない? 同じ文芸部だったでしょ?」

 突然藍梨からそんなことを言われて、飲んでいたホーセズネックを吹き出しそうになる。ホーセズネックというのは、グラスの縁に飾ったレモンを馬の首に見立てた、ブランデーベースのカクテルだ。私が一番好きなお酒でもある。


「さ、さあ? わからないけど、與くんの小説は面白かったし、みんなそう思ってたんじゃない?」

「ふーん。みんな……ねぇ」

「そういえば藍梨、最近彼とはどうなのよ」

 まだ気になっているらしい彼女の追及を逃れるため、私は話題を変える。



「聞いてよ! あいつったらね、土日は嶺明れいめい高校のバレー部のコーチなんかしてるのよ! おかげでどこにも出かけられなくて」

 彼女は、餌を前にした獣のように食いついてきた。


「早く結婚しちゃえばいいじゃない」

「そうなんだけどさぁ」

 大きなため息をつく。


 藍梨は現在、燈麻実律とうまみのりと付き合っている。高校のときから数えると、もう十年近い。いい加減結婚してもいいのでは、と会うたびに思うのだが、藍梨はなかなか踏ん切りがつかないみたいだ。燈麻くん、いい人だと思うんだけどなぁ。


「琴葉はいいよねぇ。素敵な旦那がいてさ」

「べ、別に素敵じゃないって、あんなやつ」

 とっさに否定したけど、本気でそう思っているわけではなかった。首から上が熱くなったのは、たぶんお酒のせいだ。


「しかも教師! 公務員! 安定した将来! ああ、うらやましい!」

「たしかに安定はしてるかもしれないけどさ。教師なんて、残業が多くて大変だよ? それに燈麻くんだって公務員じゃん」

 燈麻くんは市役所の職員だ。


「そうだけどさぁ。もっとこう、何というかさぁ、派手な感じの男はおらんのか!」

 言っていることが滅茶苦茶だ。藍梨は酔うと、絡み方が面倒くさくなってくる。

「ほら、水飲んで」

 仙田くんの叔父であるマスターが、気を利かせて持ってきてくれた水を飲ませる。


「プハッ! 私も石油王と結婚したいよぉ。玉の輿がいいよぉ」

 毎回そんなことを言いつつも、なんだかんだで燈麻くんとの交際が続いているところを見るに、藍梨が純白のドレスを着るのも、そう遠くないのではないかと思う。もちろん横にいるのは燈麻くんだ。


「それなら伊凪いなぎくんがいいんじゃない?」

 これはもちろん冗談だ。同じく同級生の伊凪こうは、全国でもトップレベルの大学の医学部に合格し、現在は大学病院で働いている。将来的には開業医の父親の後を継ぐそうだ。


「やらぁ! みのくんがいいのぉ!」

 なんだ、やっぱりラブラブじゃないか。


「ほら藍梨、そろそろ帰るよ」

「はぁい」

 私たちは席を立った。


「ああそうだ、鳴瀬なるせさん……じゃないんだっけ、今は」

 会計を終えた私を、仙田君が呼び止めた。

「その呼び方で大丈夫だよ。何?」

 ふらふらになった藍梨に肩を貸しながら、私は振り返る。


「よかったら、これ」

 そう言って仙田君が渡してきたのは、小さな紙だった。

「これは?」

 見ると、新しくオープンするバーのチラシのようだ。


「実は今度、自分のお店を出せることになって……。もしよかったら、来てほしいんだ」

「え? 自分のお店って、すごいじゃん!」

 後ろの方では、マスターも嬉しそうにしている。


「うん、ありがとう。だから、旦那さんも連れてぜひ」

「わかった。今度絶対行くね」

 そう言うと、私は藍梨を連れて店を出た。


 外は秋風が吹いていて、セーターを着ていても少し寒かった。

「ごめんね、琴葉。こんな遅い時間まで」

 駅までの帰り道の途中。両手を顔の前で合わせて、藍梨が言う。どうやら酔いが醒めたらしい。


「ううん。大丈夫だよ。子供の面倒も旦那が見てくれてるし」

「ま~た羨ましいことをおっしゃる。ああ、そういえば、明日じゃない? よかったら息子さん、預かりましょうか?」

 そう。明日だ。


「いや、今年は一緒に連れていくことにしたの」

 それに、藍梨に預けようものなら、何か変なことを教えられて返ってくるかもしれないし。

「そうなんだ」

 藍梨が少し残念そうな顔をしたので、私の考えはおそらく正しい。

 

 ひと際強い風が吹き、私は両手で体を抱きしめるようにして震える。

 ふと上を見上げると、夜空に浮かぶ月が、私を見守ってくれているような気がした。

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