4.5 煌めく未来の展望が


「これ、お代は要らないから」

 コーヒーを運んできたダンディなオジサマはダンディに微笑んで、二人分のコーヒーをテーブルの上に置く。いきなりの砕けた口調と、無料でのコーヒーの提供に、私は戸惑う。


「いや、そんなわけには――」

「いいっていいって。君たち朔矢の友達でしょ?」

「えっと、友達というか……」

 前世で恋人だったかもしれない仲です、なんて、頭がおかしいことこの上ない台詞は飲み込んだ。


「まあ、何でもいいや。あいつが学校の知り合いを連れてくるなんて珍しいからね」

 この人は、仙田朔矢とどういった関係なのだろう。


「失礼ですが、あなたは……」

「僕はこの店のマスターで、朔矢の叔父だよ」

 やはりマスターなのか、という感想と同時に、仙田朔矢の親戚であることを知らされて驚く。


 弓槻くんの先ほどの大丈夫だという発言の意味も、このときわかった。夜は、雇用者と労働者の関係でなく、親戚の手伝いとして働いているのだろう。それならば条例にも反していない。一安心する。


「叔父さん、だったんですね」

 いつもお世話になってます、なんて言えるほど仙田朔矢とは親しい間柄ではない。それどころか、さっき初めて会ったばかりだ。


「コーヒー、冷めないうちに召し上がって」

「あ、いただきます」

 私はテーブルの上に設置してあった砂糖とミルクを入れる。


「……いただきます」

 弓槻くんも同様に砂糖とミルクを入れたのだが、その量は私の三倍ほど。彼が極度の甘党だということが判明した。


 ステンレス製のマドラーでかき混ぜて、まずは一口飲む。

「美味しいです」

 お世辞などではなく、勝手に私の口から滑り出ていた感想だった。まろやかでコクがあり、自然と体に染み込むような深い味わいだ。


「甘くて美味しいです」

 弓槻くん、甘いのは当たり前だよ。あんなに砂糖とミルクを入れたんだから……。


「それはよかった。ところで君たちは、愛する人はいるかい?」

 突然の質問に、私はコーヒーを吹き出しそうになる。

「愛する人……ですか?」

 なんとかコーヒーを飲み込んで、聞き返した。


「ああ。家族や友達じゃなくて、恋人という意味で、だ」

「私は、いません」

 恥ずかしさをどうにか表に出さないよう答えて、弓槻くんの方を見る。


 そういえば、弓槻くんはそういう人、いないのかな。もしいたとしたら、その人は幸せなんだろうな、と考える。彼の優しさと頼もしさを知った今だからこそ、思うことだった。


「同じく、いません」

 弓槻くんは、まるで視力検査でランドルト環の空いている方向を答えるように、無機質な声で言った。


 少しだけホッとした。ここのところ私は、弓槻くんと毎日行動を共にしている。もし彼に恋人がいたとして、私のせいで、二人の関係にひびが入ったりしたら嫌だし……。ホッとしたことに、それ以上の意味はない……と思う。


「そうか。それじゃあ、まだコーヒーの本当の美味しさはわからないのかもしれないね」

「どういうことですか?」

 私がそう聞くと、さっぱりした笑みを浮かべて、マスターは喋り始めた。


「よいコーヒーとは、悪魔のように黒く、地獄のように熱く、天使のように純粋で、愛のように甘い。フランスの政治家、シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴールの言葉だ。つまり、愛を知らなければ、コーヒーの美味しさを絶対的に評価するということはできないんだ」


 悪魔も地獄も天使も知りようがないんだけど、そこらへんはどうなのだろうか。そう思ったけど、口に出して質問をすることは無粋というものだろう。


「なるほど。それで、『D-HAL』か」

 突然、弓槻くんが言った。

「え?」

 私は何のことか理解できなかったが、マスターはまた別の意味で驚きを露にしていた。


「……すごいな。僕の説明の前に、このことを言い当てたのは君が初めてだよ。

素晴らしい」

「……どうも」

 褒められてもなお、弓槻くんの無表情の仮面は剥がれない。


「あの、私にもわかるように説明してほしいなぁ……なんて」

 これじゃあまるで私が頭悪い子みたいじゃないか。まあ、弓槻くんに比べればそうなんだろうけど。


「悪魔、地獄、天使、愛。それぞれ英語で何という?」

 弓槻くんが問いかける。どうやら、私にも理解できるように解説してくれるらしい。


DevilデビルHellヘルAngelエンジェル、えーと、Loveラブ?」

 英語なら数学よりは得意だし、そもそもこのレベルなら中学生でも答えられる。


「その頭文字を並べると?」

DディーHエイチAエー……あっ! 『D-HAL』!!」


「その通り。そのままだと読みにくいから、ハイフンを入れたけどね。ただの言葉遊びだけど、僕は気に入ってるんだ」

 マスターが誇らしげに言う。名前だけじゃなくて、この店の全部が好きなんだということが伝わってくる口調だった。


「でも、このコーヒー、本当に美味しいです。愛を知ったときに、多分この味を思い出します」

 勢いで言ってしまったけど、かなり恥ずかしい発言だった。言い終わってから気づく。けれど、マスターは笑わずに、うなずいてくれた。


「実はこのコーヒー、あいつが淹れたんだ」

 彼は、カウンターの向こう側で作業をしている仙田朔矢に視線をやりながら言った。


「へぇ、仙田君が。すごいですね」

先ほどの恥ずかしい台詞を、コーヒーを淹れた本人に聞かれなくてよかった。


「あいつは小さいときから、僕の姉、つまり朔矢の母親によくこの店に連れて来られてるからね。その影響かどうか知らないけど、バーテンダーになりたいなんて言い出して。仕事を手伝わせてくれって言われたときは驚いたね」


「そうなんですか」

「将来的には自分で店を開きたいなんて言って」

 それで夜も店の手伝いをしているのか。高校生なのに、しっかりした将来のビジョンがあってすごい。


「仙田くんなら、きっとなれますよ」

 これだけ美味しいコーヒーを淹れられるんだから。あれ。でもコーヒーはバーテンダーには関係ないのかな。


「僕が言うのもなんだけど、カフェ店員としてはかなり優秀だと思うよ。バーテンダーとしてはまだ修行中だけどね。まあ、カクテルを作ったり氷を削ったり、ある程度はできるようになってきて、ちょっとはバーテンダーらしくなってきたかな」


 そう話すマスターの表情には、優しげな微笑みが浮かんでいた。本当の子供のようにかわいがっているのだろう。


「ちょっと。あんまり喋らないでよ、叔父さん。恥ずかしいなぁ」

 そこへ、ちょうど休憩に入った仙田朔矢がやって来た。

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