4.4 恋の甘さを知らぬ心を
蒸し風呂の様相を呈していた体育館をあとにして、校門へ向かう。三人目のシロちゃんの生まれ変わり候補である、仙田朔矢に話を聞きに行くということだったが、学校の外で会うのだろうか。
「これからどこに行くの?」
疑問に思ったので聞いてみることにした。
「仙田朔矢のところだ。彼とは去年同じクラスで、面識はある。すでに話を聞かせてもらう約束もしてあるから安心しろ」
「わざわざ学校の外で?」
「ああ。彼は忙しいからな。こちらが出向く形になる」
「それで、どこへ向かってるの?」
「そう急かすな。すぐ到着する」
弓槻くんに言われ、黙って彼の後ろをついていく。彼に全部任せっきりなのだから、何も文句は言えない。
五分ほど黙って歩いた頃だろうか。
「『
無駄のない歩き方で私の前を進む弓槻くんが、振り返らずに言った。
「なんとなく、名前は聞いたことあるような気がする」
私はハンカチで汗を拭きながら答える。どこで聞いたんだっけ……。
「あるカフェなんだが、その場所が……」彼は一軒の店の前で立ち止まる。「ここだ」
見上げた先にある看板には、たしかに『D-HAL』の文字。私がいつも、学校から駅まで自転車を漕ぐときに通る道にあった。『D-HAL』という名前に既視感があるのも頷ける。
建物自体は古く、周りには草が生い茂っているものの、決して薄汚さを感じさせることなく、むしろ隠れ家的名店という印象さえ受ける。外装は古風ながら、きっちり手入れをされていて小ぎれいであるし、周囲の草も適度な長さに保たれているようで、ひっそりとした雰囲気を引き立てるのに一役買っている。
入口の前に設置されているブラックボードには、整った文字でメニューとその値段が書かれている。価格もリーズナブルだ。いくつかランチメニューの写真も貼ってある。料理の腕がいいのか写真の腕がいいのかはわからないが、非常に美味しそうに見える。
「ここで仙田くんと会うの?」
帰り道にいつも目に入るとはいえ、入店はおろか、立ち止まってきちんと見たのも初めてだった。カフェといえば、お洒落な人が行くところという漠然とした印象があって、私が入るには不相応な気がしていた。
「そうだな。とりあえず中に入ろう」
弓槻くんが手動のドアを開け、入店する。私もそれに続く。チリンチリンと、客の来店を知らせるベルが鳴った。
「いらっしゃいま……ああ、弓槻くん」
若い店員が現れ、弓槻くんの名前を呼んだ。上半身が白、下半身が黒の制服に身を包んで、爽やかな笑みを見せる男。お洒落なオーラを感じた。芸能界にいてもおかしくはない雰囲気で、チャラいとか軽そうだとか、そういった悪い印象はない。私たちと同じくらいの年齢に思えるけど、弓槻くんの知り合いだろうか。
「突然無理を言って悪かったな、仙田。今大丈夫か?」
弓槻くんのその台詞で、彼が仙田朔矢その人だと判明した。
「あと十分もしたら休憩の時間だから、それまで少し待っててもらえるかな」
仙田朔矢は、店内の壁にかかった時計をチラッと見て言う。時計の針は、午後二時二十分を指していた。
「ああ、そうさせてもらう」
「美味しいコーヒーでも飲んでてよ」
四人掛けのテーブルに案内され、私と弓槻くんは並んでそこに座った。
改めて店内を見回す。カウンター席とテーブル席が半分ずつくらいの割合。明るく洒落た風情の店内には、安らかなジャズ風のBGMが流れている。お客さんは私たちの他に二組。カウンター席でパソコンを開いて一心不乱にキーボードを打つ大学生風の若者と、テーブル席で談笑するおっとりした雰囲気の老夫婦。この店の内部の全てが、和やかで安心感のある空間を構成している。
「あの店員さんが仙田朔矢くん?」
「そうだ。彼はこのカフェでアルバイトをしている」
「へぇ、アルバイトか……。ここ、素敵なお店だよね」
思ったことを率直に口にする。
「この店は夜の九時からはバーになるらしい。棚に酒瓶が並んでいるだろう」
弓槻くんに言われて初めて気づく。
「あっ、本当だ。それでこんなに落ち着いた感じなんだ」
まだお酒なんて飲んだことがない高校生の私でも、この店の夜の様子をなんとなく想像できる。
「ちなみに仙田朔矢は夜もここで働いているそうだ」
「え、それって大丈夫なの?」
「別に大丈夫じゃないか? 留年はしていないみたいだし」
「いや、そういうことじゃなくて。確かにそれも心配だけど。そんな夜遅くまで高校生がアルバイトなんて、法律とか条例とかで――」
「ああ、そういうことか。それなら問題ない」
「え?」
弓槻くんの言っていることが理解できないうちに、深く澄んだ声が私たちの会話を中断する。
「お待たせ致しました」
仙田朔矢と同じ制服を着用した店員が、二組のカップとソーサーを載せたお盆を持って一礼した。コーヒーのいい香りが鼻腔をくすぐる。
運んできたのは、あごに髭を蓄えた、いかにもマスターという感じの上品なオジサン、いや、オジサマだった。
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