3.2 目前の錠に気づかぬ少女は


 昨日に続いて、浮かれた雰囲気が漂う教室。

 今日の最初の時間は、数学のテスト返却だった。数学が苦手である私にしては、今回は頑張ったと思う。勉強時間も数学に多くいたし、本番でもかなり手ごたえがあった。


 チャイムが鳴り、ワイシャツをぴしっと着こなした細身の男が教室に入って来る。榮槇華舞さかまきはるま先生。数学を担当する三十歳くらいの教師で、要点をしっかり押さえたわかりやすい授業に定評がある。


 授業中にはたまに脱線して、ピタゴラスやオイラーなどの数学界で有名な人物の逸話などを披露することもあり、それがまた面白かったりする。若々しくキリッとした外見と親しみやすさを兼ね備えた、生徒に人気の先生である。


 榮槇先生は、返却する答案用紙と思われる紙の束を教卓の真ん中に置き、両手をその脇についてこう言った。

「今回は残念ながら、思ったよりも平均点が低かった」

 いつも優しい榮槇先生にしては、珍しく厳しめな言葉。


 本当に出来が悪かったのだろう。いつもよりできていたというのは、私の錯覚だったのかもしれない。一度そう感じ始めると、そうとしか考えられなくなってきた。マイナス思考も、私のよくないところだ。


「僕の授業が悪かった、みたいな感じになると校長からクビ切られちゃうので、皆さん次はぜひ頑張ってください」

 榮槇先生がおどけてそう言うと、クラスが笑いに包まれる。こういったジョークも上手い。


「それじゃ、テスト返します。呼ばれた人から前に取りにきてください。一緒に模範解答も持って行くように」

 次々と名前が呼ばれ、答案が返却されていく。

 クラスの大半は、返ってきた答案を見てショックを受けている様子だった。

 藍梨にいたっては白目を剥いている。きっと補習に引っかかったんだろうな。ご愁傷様。


鳴瀬なるせさん」

「はい」

 いよいよ私の名前が呼ばれ、緊張しながら教壇へ向かう。テスト返却って、テスト本番よりもドキドキする。


 模範解答を一枚摘まみ、裏返ったままの答案を受け取る。

 耳元で「よく頑張ったね」と榮槇先生の声が聞こえた。そのささやきは、心拍数の上がっていた私の心臓を、さらに激しく鼓動させた。

 軽く頭を下げて、踵を返す。


 席に戻り、恐る恐る答案を表にする。九十点。信じられないような高得点だった。過去最高の点数でもある。バツがつけられているのは二問だけ。

 驚きが去ったあとに湧いてきたのは、嬉しさだった。頑張ったかいがあった。自然と頬が弛む。

 あれ、嬉しいのは良い点数だったから? それとも――。


「全体的に計算問題のケアレスミスが目立ってました」

 全員分の答案用紙を返し終わった榮槇先生が、解説を始める。


 私も一問だけケアレスミスをしている。計算の過程を見て、すぐに間違いに気づいた。なぜそこを間違えるんだ、というような初歩的なミス。今見てみると、どうしてこんなに馬鹿げた間違いをしたのか理解に苦しむ。でも、ケアレスミスといのはそういうものなのだ。


「それと、この最後の問題、残念ながらできた人はほとんどいませんでした。きっちり解説するので、ちゃんと聞くように」

 私も不正解だった証明問題だ。解答欄は空白で、手も足も出なかった。


√5ルートごが無理数であることを証明する問題ですね。このように、ある数が無理数であることを証明するときは、背理法を使うのが基本となります」

 背理法……ってなんだっけ?


「背理法というのは、証明したいことと逆のことを仮定し、そこから矛盾を導くことによって、目的の証明を果たす方法です。この問題の場合だと、√5が有理数である、と仮定します。そこから……」


 ああ、思い出した。授業でもたしかに習った。その場ではなんとなく理解したけれど、難しいからテストには出ないだろうと思って復習もしなかった部分だ。迂闊だった。

 でも今の解説で思い出せたし、解き方もわかる。家に帰ったら、もう一度解き直してみよう。今は点数が良かったことを喜んでもいいよね。


 ふと、隣の弓槻ゆづきくんに視線をやると、彼は涼しい顔で読書に励んでいた。

 数学のテストのことなど、まるで気にしていないかのように、目の前の本に集中していた。

 もしかすると、数学が苦手なのかもしれない。このときはそう思っていた。




 放課後、オカルト研究同好会の部室へ向かう途中のことだった。

 前方を、榮槇先生と一人の男子生徒が並んで歩いているのが視界に入る。なんとなく追い越すのも躊躇われて、同じくらいの速度を保ちながら歩くことにした。すると、二人の会話が耳に入ってくる。


「少しわからない数学の問題があって、お聞きしたいんですけど……」

 男子生徒の、低く落ち着いた声。

「相変わらず勤勉だね。もっと遊んだりとか、しなくていいの? 教師の僕が言うのもなんだけど」


「そんな……父に怒られます」

「厳しいもんね、あの人。元気でやってる?」

「はい、まあ」

「そっか。よろしく言っておいて」

「わかりました。それで、この問題なんですが――」


 ずいぶん真面目な生徒だなと思った。それに、榮槇先生と男子生徒の父親の間には、個人的な繋がりがあるように聞こえた。


 階段にさしかかると、彼らは下の階へ降りて行き、声も聞こえなくなった。職員室にでも向かったのだろう。

 私は階段の手前の通路を曲がって、オカルト研究同好会の部室へ向かった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る