第三章
3.1 謎を解く鍵の鋭さと
「せんせー、バナナはおやつに入りますかー?」
漢字で"先生"ではなく、平仮名で"せんせー"と表記するのが相応しいような、軽薄な声。
これは……夢?
いや、違う。私はまた、
私とわたしの境界線が、ぐにゃりと歪んで消えた。
机と椅子が所狭しと並ぶ教室。その一番廊下側、前から三番目の席に、わたしは座っていた。
「バナナはおやつに入りません」若い女性のはきはきした声が答えた。「この前の職員会議でそう決まりました。修学旅行の
馬鹿な質問をしてきた生徒を呆れたように見ながら、若い女性は答えた。
何人かの生徒が、プッと吹き出す。
修学旅行についての学級活動中だった。黒板に書かれた日付は、十一月五日となっている。
修学旅行当日にあんな悲惨な事故が起こるなんて、このときは誰一人予想すらしていないのだろう。和気あいあいとした雰囲気だ。
「せんせー、綺麗で可愛いバスガイドさんは俺たちのバスに入りますかー?」
続けて発せられたその質問に、クラス中が笑いの渦に包まれる。発言したのは、先程も下らない質問をした彼。クラスでは、お調子者のポジションを定位置にしている。わたしは、面白くもなんとも思わなかった。ただ、こんな無駄な時間は早く終わってしまえとだけ感じていた。
「残念ながら入りません。バスに乗るのは皆さんと先生だけです」
担任の教師は、笑い声に負けないよう、声を張り上げて否定する。いつもこんな感じで苦労しているためか、慣れた様子だった。
「せんせー!」
またもや彼が挙手したところで担任が遮る。
「
どうやらお調子者の彼は、篠崎くんというらしい。そう言われてみればそんな気もする。十一月にもなってクラスメイトの顔と名前が一致しないのは、自分でもどうかと思うけど。
「いやでーす」
担任の若干怒気を孕んだ言葉にはそう答えつつも、篠崎くんはちょっと喜んでいたように見えた。きっと、若い教師である彼女の気を引きたいのだろう。中学生の男子は子供だ。
笑いに包まれる教室の前方で、担任は、パン、と手を叩いて注目を集める。
「じゃ、バスの席決めるよ。一番後ろの席が五人、それ以外は二人ずつ。自由に組み合わせを作ってください」
生徒たちは一斉に、仲の良い友人のところへ、席を立って急ぐ。
「一番後ろの五人の席は早い者勝ちだからね。五人揃って私のところに来たら、その時点で決定です」
先生のその言葉に、一段と教室は騒がしくなる。楽しそうな声が飛び交う中、わたしは、斜め後ろの席に座るシロちゃんとアイコンタクトを交わした。
『隣、いい?』
『もちろん』
そんな会話を、わたしたちは目を合わせた一瞬で行ったのだった。
言葉は口に出さなきゃ伝わらない、などというきれいごとは、このときのわたしたちの前では意味を持たなかった。
突然、視界と頭がぼやける。クラスメイトの声も途絶えた。
時空が
何もない空間を漂っているような浮遊感に、気分が悪くなる。時間の概念も曖昧で、どれほど経過したのか、もしくは時間など経っていないのか理解できないまま、私の目と耳には光と音が戻ってきた。
教室であることには変わりなかったけど、時期は先程よりも前らしい。クラスメイトはみんな、夏服を着ていた。わたしの座る席は、先ほどと同じ場所だ。
楽しそうに話す声があちこちで交わされる教室の中で、わたしは一人、本を読んでいた。月守風呼の体験した、また別の場面のようだった。
急に教室の後ろの方がざわめきに包まれる。
わたしが振り返ると、すぐにその理由がわかった。一人の女子が、猫を抱いて教室に入ってきたのである。
「この猫、今朝学校の前に捨てられてて。拾ってきちゃった」
猫を抱いた女子が言った。
すぐにクラスの女子が集まってくる。
しかし、わたしは自分の席に座ったまま、傍観者となっていた。猫を拾ってきた彼女は、優しさをアピールしたいだけだ。本当に猫を助けたいのならば、教室になんか来ないはずだ。職員室に行って、教員に助けてもらうべきだろう。そんなことを思いながら、冷ややかな目で彼女たちを見ていた。
「え~、かわいそ~」
「飼い主さいて~」
猫への同情の言葉と、飼い主への罵倒が飛び交う。
女子たちが密集している場所は、ちょうどシロちゃんの席の近くだった。彼はわたしと同じように、彼女たちを眺めているだけだった。
「クラスで誰か飼ってくれる人いないかなぁ。あ、アタシ名前も付けたんだ!」
女子生徒は、猫の前足を摘まんで持ち上げると、
「初めまして、マサハルだにゃあ。よろしくにゃあ」
高い声で、猫に声を当てた。
そういえば彼女は、マサハルという男性アイドルが好きだった。休み時間に耳障りな声で、頻繁にマサハルの話をしているため、わたしは不本意にもそのことを覚えてしまった。まるでその男性についての知識量の多さが、そのまま人間としてのレベルの高さであるかのように話す彼女を、わたしはみっともないと思っていた。率直なネーミングも、彼女の頭の悪さを際立たせている。
「かわい~」だの「にゃ~」だのと、黄色い声が響く。
周りもそうだ。大人数で必要以上に親しさを演じることで、自分たちの持っている価値観を、絶対的なものとして撒き散らす。
どうしてこの世界は、バカがこんなに多いのだろう。
猫を抱いた彼女は周りに応えるように、摘まんだ猫の前足を振るように動かす。ほら。結局、自分たちが楽しくなっているじゃないか。
そんな中、シロちゃんがわたしの近くにやってくる。私の席は、猫と女子たちからある程度離れていた。
「どうしたの?」
少し青ざめた表情で、猫を抱いた女子生徒の方をちらちら見ている。どうやら怯えているらしい。
「いや、ダメなんだよ、あの――」
暗転。シロちゃんの台詞と共に、月守風呼の記憶は途切れた。
目を覚ました私は、忘れないうちに記憶の内容をメモすることにした。
白い未使用のノートを引っ張り出し、なるべく詳しく記入する。
学級活動での、修学旅行のバスの席決めの場面。女子生徒が猫を拾って来て、それに怯えたシロちゃんが、私の元へ避難してくる場面。今日の分だけでなく、一昨日の事故のものも書いておく。
事故の内容を書いているときに、ふと思った。同じクラスであるということは、あのバスに乗っていたということで。
それはつまり……。お調子者の篠崎くんも、担任の先生も、猫を拾った彼女も、みんな……。
いや、考えるのは止めよう。過去のことは、もうどうにもできない。
残念ながら今回も、シロちゃんの本名は分からず
月守風呼の軽蔑の裏側には、羨望が隠れていた。上手く周りと馴染めない自分に対する苛立ちを、羨望の対象であるはずの彼ら彼女らに向けることで、自分自身の孤独を正当化していた。
思春期の子供にありがちなことかもしれないが、自分の前世ということもあり、私は心配になってしまった。
心配などしなくても、月守風呼はすでにこの世にいないのだと気づいて、また少し気持ちが沈んだ。
それに、もう一つだけわからないことがあった。
シロちゃんの顔が思い出せないのは前回もそうだったのだが、他の人の顔は思い出せるのだ。篠崎くんの楽しそうな顔、猫を抱いた女子の得意げな顔。
そして――あれ? 担任の先生の顔を思い出そうとしたところ、シロちゃんと同じように、もやがかかって思い出せない。思い出せる人間と、そうじゃない人間に、何かそれぞれ共通しているものがあるのだろうか。
弓槻くんに相談することが一つ増えた。
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