第四章

4.1 全てを無力化する感情が


「つっ!」

 右手の中指を襲った激痛に、わたしは思わず顔をしかめる。

 次々と流れ込んでくる記憶。この感覚、まただ。月守風呼つきもりふうこの記憶。

 中学一年生の冬だった。正確な日にちなどは不明。


 体育館に張られたバレーボール用のネット。どうやらわたしはボールに当たり、怪我をしてしまったようだ。

「月守さん、大丈夫?」

 気が利く人間をアピールするのにちょうどいいから、一応声をかけておこう。そんな魂胆が透けて見えるようなクラスメイトの声。


「突き指しちゃったみたい。ちょっと保健室に行ってくる」

 わたしは申し訳程度の作り笑顔。


 クラスで孤立している女子が突き指をした。このタイミングで声をかけることで、“優しい人”の肩書きを手に入れることができる。そんなところだろう。声をかけてきたクラスメイトにとって、わたしは都合のよいアイテムにすぎない。

 

 わたしは、いつからこんなにゆがんでしまったのだろう。こんな考え方、自分でも最低だとわかっている。

 自己嫌悪の渦に呑まれそうになりながら、誰もいない廊下を下を向いて歩いた。


 ノックをして、保健室のドアを開ける。

「失礼します」


 様々な薬の置かれた棚、病人や怪我人が座るための椅子などが視界に入る。ベッドは三台置かれていて、そのうちの一台はカーテンに囲まれていた。そんな保健室の中を見回すも、養護教諭は見当たらない。保健室特有の、消毒液の匂いが漂ってくる。


 シャっと、突然カーテンが開き、ベッドに座った男子が現れた。わたしは驚いて固まる。

「先生なら、今はいないよ」

 彼はそう言った。


 その瞬間、わたしは恋に落ちた。

 このときに、本当の恋の前では、論理的思考も、今まで生きてきた経験も、何もかもが無力だということを知った。

 この人とわたしは、運命の赤い糸で結ばれている。そう確信した。


 運命を感じる、なんてことは、映画や小説の中だけでの出来事だと思っていた。彼との出逢いは、そんなわたしの考えを根底からひっくり返し、新しい世界の扉を開いた。


「ねえ、聞いてる? 先生はいないよ」

 その声で我に返る。指の痛みも忘れて、見とれてしまっていた。

「いない?」

 平静を装って聞き返す。


「うん、出張みたい。で、どうしたの?」

「え?」

「保健室に来たってことは、どこか悪いところがあるんでしょ?」

「あ、えっと、突き指を……」

 右手の中指を押さえながら、わたしは言った。


「んじゃ、そこ座って」

 彼はベッドから立ち上がって、わたしの方へ近づく。高まる心拍数を必死で抑えながら、言われた通り長椅子に座る。


「見せて」

 隣に座った彼は、そう言ってわたしの右手をとる。わたしの向かい側にも椅子はあり、そちらが明らかに治療者のポジションなのだが、わざわざ隣に座ってきたことに驚いて、鼓動は高鳴りを増す。ひんやりとした彼の手が、とても心地よかった。


「あぁ、ちょっと腫れてるね。今氷持ってくる」

 彼は立ち上がり、製氷機の方へと向かう。ガチャガチャと、氷をすくう音が聞こえた。


「ねぇ、あなたは大丈夫なの?」

「ん? 何が?」

「だって、ここ保健室だから……」

 制服を着ているため、この学校の生徒であることは間違いないはずだ。


「ああ、僕は体調も悪くないし、怪我もしてないよ」

 彼はわたしの言いたいことを理解してくれたらしく、そっけない返事をよこす。ビニール袋に氷を入れて、椅子へと戻ってきた。


「なにそれ。サボり?」

「そんな感じ。僕のクラスは今、家庭科の授業なんだけどね。はい、これ」

 氷を入れたビニール袋の口を縛って、わたしに渡す。


「ありがと」

「どういたしまして」

 律儀に返事をする彼と目が合い、慌てて伏せる。


「家庭科っていうと、今は裁縫だよね。男がそんな女っぽいものやってられるかってこと?」

「違うよ。というかその話、まだ続いてたの?」


「どうしても、あなたがサボるようなタイプには見えなくて、気になるから。で、本当の理由は何?」

 気になるのは、彼が授業を休んでいることについてではない。ただ単に、彼ともっと話していたい。それだけの理由だった。


「あはは。参ったな。じゃあ、僕が授業をサボった本当の理由を教えるよ。僕はね――」




 記憶はそこで途切れた。気づくと、私の部屋の見慣れた天井が視界にあった。

「シロちゃんと、初めて会ったときの、記憶……?」

 急いで起き上がり、カーテンを開く。眩しい朝日を浴びながら机に向かい、ノートにメモをとる。


 今回も、シロちゃんの本名は分からず終いだ。例によって、彼の顔はもやがかかっていたように脳内で再現されず、思い出すことができない。


 それでも、恋に落ちた感覚は残っていた。シロちゃんを見た瞬間、世界が一変した。心臓が高鳴り、全身を電流が走って、脳が動作を停止する。この人が運命の人だよ、と身体がその全ての機能を使って教えてくれているようだった。


 体が熱を帯びているのは、きっと夏の気温のせいだ。それか寝起きだから。左胸に手を当てる。まだ心臓が速かった。


 私は恋をしたことがないのに、月守風呼の記憶で、恋に落ちる瞬間を知っている。とても、不思議な気分。

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