第二章

2.1 非日常のはじまりは


 トラックにひかれそうになって気を失い、私の前世と思われる記憶が呼び起こされた次の日。あんなに色々なことが起こったにもかかわらず、朝はいつも通りやって来る。


 スマートフォンのアラームで目を覚ました私は、カーテンを開けて大きく伸びをした。強い日の光が、ぼんやりしている脳と、けだるさの残る体を始動させてゆく。


 どうやら昨日のことは丸ごと全部夢だった、なんてオチではないようだ。しっかり現実に起こった出来事として、覚醒した脳が認識している。擦りむいた膝に絆創膏が貼られているのが、何よりの証拠である。


 頭の整理は、全く追いついていなかった。

 幸いにも、今日から三日間はテストの返却のみの日程となっていて、学校はお昼頃に終わる。じっくり考えよう。


 歯を磨いて顔を洗い、軽くメイクを施す。髪をとかして、パジャマから制服に着替える。

琴葉ことは、もう大丈夫なの?」

 朝食の準備をしている母親から心配された。


「うん。むしろたくさん寝たから元気だよ」

「そう」

 キッチンでソーセージを炒める母が一瞬だけこちらを見て、すぐに視線をフライパンに戻す。


 私よりも早く起きて、朝ご飯を作ってくれている母。今まで当たり前だと思っていたけど、よく考えるとすごく大変なことだ。そんな母に、私は心配をかけてしまったのだ。


「あの……」私は姿勢を正して母の方を向いた。「心配かけてごめんなさい」

 まだ少し眠そうな横顔に向かって謝る。

「本当に心配したんだからね。でも、琴葉が無事で良かった」

 母の言葉には、優しさが溢れていた。


「それと、いつもありがとう」

「何よ、気持ち悪い。やっぱり頭でも強く打った?」

 いつもの私からは出てくることのない台詞に、母が怪訝そうに私をじろじろ見る。でも、少しだけ嬉しそうな表情は隠しきれていなかった。


 結局、母親には謎の記憶のことは言わないことにした。これ以上心配をかけたくないという配慮が半分と、言ったとしても信じてもらえないだろうという諦めが半分。




「行ってきます」

 学校の準備を終えて家を出る。

 七月の太陽は相変わらず眩しく、容赦ない暑さが私を襲う。制服の襟を掴んでパタパタと風を送りながら、駅まで歩いた。私の家から駅までは徒歩で五分とかなり近いが、それでも汗をかいてしまう。


 少しだけ短くしたスカートから伸びた私の脚。その膝の部分には、大きめの絆創膏が貼られている。昨日病院で貼ってもらったものはお風呂に入る際に剥がし、入浴後には新しいものを貼った。剥がすときは地味に痛かったし、貼り替えるのも面倒だった。かといって、絆創膏を貼らないわけにもいかない。


 膝という部位は、花の女子高生として常に外部に晒しておかなくてはならないものであるため、特に白いガーゼの部分が目立ってしまう。やはり、両膝に大きめの絆創膏というのは、決して見てくれが良いものではない。今日から何日かは、この状態だと思うと憂鬱な気分になる。スカートを長くしようかとも考えたけど、それだとかえって浮いてしまう。


 結局、両膝を同時に怪我したドジな女子高生という肩書を手に入れた私は、自宅の最寄り駅からいつもの電車に乗った。


 車内は冷房が効いていて、天国に足を踏み入れた気分だった。すし詰め状態とまではいかないものの、座れない程度には込んでいる。

 私はドアのそばに立ち、車窓から流れていく景色をぼんやりと眺める。

 電車ではいつも文庫本を読んでいるのだが、今日はそんな気分にもなれないし、文章を目で追っても内容が入ってこないだろう。


 謎の記憶について、少し整理をしたい。前世とかそういったものを信じるかどうかはこの際置いておく。生まれ変わりが起こりうるものとし、さらに私が月守風呼つきもりふうこの生まれ変わりだとして考えよう。


 まず、その記憶がいつのものかということ。

 月守風呼が中学三年生のときの修学旅行中の出来事だということは、記憶の断片から理解できた。正確なところはわからないけれど、だいたいの時期なら、

『……十五年と五か月後。二〇一五年の……四月だね。嶺明高校で、二人は再会するんだ』

 このシロちゃんの言葉を元に、引き算によって推測することができる。


 二〇一五年の四月から十五年と五か月を引いて……一九九九年の十一月か。私の誕生日が一九九九年の十二月二日だから、前世のわたし、月守風呼が死んでからわりとすぐに、現世の私、成瀬なるせ琴葉が生まれたことになる。

 時間的には矛盾はないように思える。


 次に、シロちゃんが何者かということだ。

 "シロちゃん"という呼び方を、記憶の中で月守風呼はしていた。残念ながら本名はわからないし、思い出せない。そのうえ、どんな顔をしていたかもわからない。記憶の中では、しっかりと彼の顔を認識していたはずなのに、今思い出そうとしても、顔の形を成す前にぼやけてしまう。これには、何か理由があるのだろうか。


 立場としては、シロちゃんは月守風呼の彼氏である。

 私は生まれてこのかた、誰とも付き合った経験がない。そのため、彼氏というものがどういった存在なのかは、本で得た知識や、友人から聞いたこと以上のことは、残念ながら理解できない。


 しかし、月守風呼が抱いていた、シロちゃんへの特別な想いは認識できた。

 言葉では言い表せないような、唯一無二の感情。月守風呼のシロちゃんに対するそれは、彼女の記憶を媒介として、私に伝わってきた。

 おそらく、人々が愛と呼んでいる感情なのだろう。私はまだ、誰に対しても抱いたことがない想いだった。


 とにかく、月守風呼が彼を大切に想っているということだけはわかった。

 まだ恋を経験したことのない私が、生まれる前に経験した恋を知っている。とても奇妙な感覚で、むず痒ささえ覚える。


 そして一番肝心な部分。

『嶺明高校で、二人は再会するんだ。見知らぬ他人同士だった二人は……運命に導かれて、ひかれ合う』

 もしも本当にこの台詞通りであれば、シロちゃんも私と同じように生まれ変わって、去年の四月に嶺明高校で私と会っているということになる。昨日の見解通り、私の嶺明高校への進学は運命によって決められていたというのだろうか。


 ボロボロで息も絶え絶えではあったけど、自信に満ちたシロちゃんの言葉には、妙な説得力があった。

 そして私は、直接会ったことのない男の人のその言葉を、なぜだか信じてしまっていた。


 考えれば考えるほど、モヤモヤした気持ちは大きくなる。

 そして、その気持ちの中には、シロちゃんの生まれ変わりに会ってみたい、という思いも含まれていた。


 前世の記憶だとか、生まれ変わりだとか、そんなのアリエナイ。そうやって常識に基づいて一蹴する以外に、否定する材料はない。何より、時間的なつじつまも合っている。

 やはりあの出来事は、私の前世の記憶なのだろうか。


 頭を悩ませた私を乗せた電車が、嶺明高校の最寄り駅に到着する。

 カメラとマイクを抱えたテレビ関係の人たちが「最新の記憶書き換えシステムによるドッキリでした~」なんて言いながら話しかけてきてくれたら、どれだけ楽だっただろう。改札を抜けてもそんなことは一切起こらず、ただいつも通りの風景が私を待ち受けていた。


 スクールバスの停まっているローターリーを通り過ぎて、駅前の駐輪場へと向かう。学校までの道を、いつもより注意深く自転車を漕いだことは言うまでもない。

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