第一章

1.1 運命の風は突如吹き


 校舎から出た瞬間、モワッとした熱気が私を襲う。

 七月のある日の昼下がり。見事に晴れ渡った青空が眩しい。


 遥か遠くの太陽から発せられた熱は、障害物が何一つない宇宙を超えて地球に届き、空間を暖める。じっとしたまま突っ立っていれば、数分で焦げてしまうのではないかとさえ思う。外は風もなく、冷房の効いた校内が愛しい。


琴葉ことは! じゃあね」

 昇降口を降りたところで、友人の藍梨あいりに別れの挨拶を告げられた。

「ん。じゃあね、藍梨」

 私は駐輪場へ、藍梨は校門のすぐ近くにあるバス停へと歩く。


 私たちの通う私立嶺明れいめい高校は、最寄りの駅からそれなりに離れた場所に建つ、ごく普通の高校だ。ほとんどの人が無料のスクールバスを利用する中、私はわざわざ自転車を使って、駅から学校までを往復している。


 なぜ私がバスを利用しないのかというと、その理由はいたって単純。バスが怖いからだ。どうしてかわからないけれど、小さい頃からなぜか、バスに対して体が拒否反応を起こしてしまう。


 別に、乗り物全般がダメだというわけでもない。実際、電車を使って通学しているし、車にも船にも、飛行機にだって乗れる。

 でもどうしても、バスだけはダメなのだ。


 その面積の二、三割程度しか使われていない、寂しい駐輪場にたどり着く。

 錆だらけの自転車や、どう見ても時代錯誤の暴走族が乗るようなバイクが放置されていて、高校の施設として機能しているとは言い難い。たしかに、使用するのはほんの一握りの生徒だけではあるのだが……。


 カチャン、と後輪に付けられた鍵を外し、私は自転車を引っ張り出す。

 正門とは別の、自転車通学の生徒が使う門をくぐり、ペダルに足を、サドルにお尻を乗せる。そして、駅へ向かって愛車を漕ぎ出した。


 解放感をエネルギーに変換し、ペダルを蹴ってぐんぐん進む。

 今日は、一学期の期末テストの最終日だった。明日から三日間、テスト返却が行われ、晴れて夏休みとなる。が、テストの解説をしっかり聞くような生徒は、ごく一部の真面目な人たちだけである。もちろん私は、そんな真面目な生徒には含まれない。


 そんなわけで、私の気持ちは一足先にサマーバケーション。肝心のテストも、そこそこできた自信がある。

 身も心も、羽が生えたように軽かった。


 嶺明高校は、それなりに偏差値が高い。いわゆる進学校というやつだ。

 そんな中で、私の成績はかなり上の方をキープしていた。これは、私の数少ない自慢の一つである。


 成績はそれなりに良好だけど、決して頭がいいというわけではない。

 私は文芸部に所属していて、その活動は週に二回。運動部に所属している大多数の同級生に比べて、普段から勉強する時間を確保することができている。それだけだ。


 記憶力が並外れているとか、勉学の神様に愛されているんじゃないかというレベルで天才だとか、残念ながらそういった事実はない。それに、人並みに勉強は嫌いだと思う。最低限やることはやっておかなくては、という不安だけが、小心者の私を毎日机に向かわせている。


 運動部や一部の活動的な文化部の生徒が引退して勉学に励むようになったら、私の順位は瞬く間に急降下するのではないかと、二年生である今でもすでにビクビクしている。


 自転車を漕ぎながら、頭が少しボーッとしてきた。暑さのせいもあるのだろうけど、それだけじゃない。昨日も徹夜でノートの見直しをしていたからだろうか。

 早く帰ってすぐに寝よう。そう心に決める。


 しかしこのあと、突然のアクシデントによって、私は真っ直ぐに家に帰ることはできなくなってしまった。

 そして、どこにでもいるような普通の女子高生である私を襲った、この非日常的な出来事は、全ての始まりに過ぎなかった。


 眠気と疲労による注意力と集中力の低下。この現象が、テストの最中に襲ってこなくてよかった。普通ならそう考えるだろう。

 だが、これから起こる悲劇に比べれば、そんなものはテスト中に襲ってきてくれた方がまだましだった。


 穏やかな天候であるにもかかわらず、突発的に吹いた強めの風。ただの自然現象とは思えない。その風には、私に危害を加える意志があったようにさえ感じる。

 自転車を漕いでいた私は、その風に煽られて、バランスを崩してしまった。歩道と車道を分割する縁石に、自転車の前輪がぶつかる。


「おっと!」

 ボーッとしていた脳も覚醒し、咄嗟に縁石に足をつく。しかし、自転車はこのときすでに、リカバリー不能なほどに傾いていた。


 慣性の法則は無情にも、私を歩道から車道へと押し出す。その結果、勢い余って地面に体が投げ出された。

 ザリッ、と両膝と両手をコンクリートの地面で擦ってしまう。ここまでであれば、自転車で転んだという、ただそれだけの笑い話である。が、このとき不運にも、後ろからトラックが迫っていた。


 意識のある私が最後に聞いたのは、鳴り響くクラクションの音だった。

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