読み終えた手紙は雨玉模様を無数に作っていた。握った拳を意志とは関係なく郵便受けに強打させ、歯茎が麻痺するほど奥歯を噛みしめた。


「おい……やめとけ」


 福田は俺を羽交い締めにするが、それを目一杯の力で振り払う。


「うるさい。俺は……俺には有紀が必要なんだ……」


 なぜ行ってしまうと言うのか。なぜこれが最後でなければならないのか。有紀も俺の事を想ってくれているのであれば、ずっと……ずっと文通を続けてくれればいいではないか。


 近くで温もりを感じることができなかったとしても。


 歳をとって少し低くなった声を聞けなかったとしても。


 唯一、あいつと繋がれる手段を失うことが怖かった。結局、俺はなにも変わってはいないのだ。手紙のやりとりをしていることで、自分自身の心を麻痺させることができただけだったのだ。


「好きにしろよ。情けない……死ぬまで有紀ちゃんの亡霊にすがってるんだな」


 その一言に溜まらず福田の胸ぐらを掴み、家の外壁に背中を叩きつけた。


「きさま……」


 振り上げた拳は言葉と共に宙で止まる。


「なんで福田が泣いてるんだよ」


 福田の両の瞳からは、汗と汚れが混じった濁流が頬を濡らしていた。鼻をすすりながら、唇をヘの字に曲げた表情にいたたまれない気持ちになる。


「おみゃえはさ……有紀ちゃんの気持ちじぇんじぇんわかってない……俺やしゃきちゃんの気持ちもだ。皆、昔のお前に戻ってほしいんだよ……確かに難しいかもしれない。それでもしゃ……また一緒に馬鹿やって、笑いあって、生きていきたいって思ってんだよ」


 自然と力が抜け、福田はそのまま地面に崩れ落ちた。


「すまん……」


 それ以外、なにも言葉を発することはできなかった。居心地の悪くなった空間から逃げるようにして自室へと戻り、ベッドに飛び込むと布団を亀の甲羅のように頭までかぶり、枕に額を押しつけた。


 何をどうすればよいかもわからない。

 俺はどうあるべきなのか……。

 その答えが見つからないまま、気がつけば朝を迎えていた。



 いつも通りに出社する気分になれず、会社に遅刻すると電話を入れる。上島が受話器越しに騒いでいたが、聞こえないふりをして総務部の吉山さんによろしく伝えた。


「安藤さん大丈夫? 上島は黙らせるから無理しなくていいからね?」


「ありがとうございます。大丈夫です、昼までには出社します」


 その時、こんな俺にも優しい言葉をかけてくれる人が居たことに初めて気がついた。


 虚無感の中、十時過ぎまで時間をかけてゆっくりと朝食を食べ、身支度が整ったところで自転車に跨がった。


 会社までのお決まりのサイクリングコースも真っ白い背景色で塗りつぶされ、別次元にいるような感覚を覚える。空気は澱み、風が吹くと吐き気を催した。


 途中、何度かコンビニエンスストアのトイレに立ち寄り、なんとか会社へとたどり着く。失神しそうなほどの強烈な目眩に襲われながら、すがるようにエレベーターに乗り込んだ。


 誰も乗っていないエレベーターは静かにオフィスのある6階へと到着する。


「あ、おはようございます安藤さん」

「あぁ、おはよう」


 この子は誰だったかな。確か新入社員の……ダメだ思い出せない。


「安藤さん課長がおかんむりですよー」

 

 俺の背後から後輩の竹林が大量の書類を抱えながら過ぎ去っていった。


「安藤さん、今日も自転車ですか? 凄い汗ですよ? 体調悪いんだから無理しちゃだめですって……」


 総務部の若手、栗平の大きな声に吉山さんが反応する。


「あぁん? 安藤さん、あんた熱あるんじゃないの? 帰りな! しっし!」


 吉山さんは病原菌をみるような目で俺を見ると野犬を威嚇するように手の甲を払い出した。


「いや、でも仕事が……」


「仕事なんて上島にやらせときゃいいでしょうが! なー上島聞いた通りだよ!」


 吉山さんがオフィス中に聞こえる大声でそう叫ぶと、上島は吉山さんに頭が上がらないためオフィスチェアを半回転させて目をそらせた。


「……安藤さん休んでいいよ」


 そして少し裏返ったか細い声で許可をする。そんな上島と吉山さんのやりとりを見て、社員たちはクスクスと含み笑いした。


「でも……」

「でもじゃない! これは業務命令だよ、社員に菌をうつされちゃ大打撃なの! あんたらが稼がないと総務部のあたしたちは食い上げだよ!」


 風邪ではないとわかってはいるが、そこまで言われてしまっては帰らないわけにもいかなかった。


 会社からの帰り道。自転車を漕ぎながら考え事をしていた。


 ──うちのオフィスっていつもあんな感じだったかな……。


 いつもより明るく見えた気がするのは、なぜだろうか。


 こんな俺が『おはよう』と挨拶すれば『おはよう』と返事がある。こんな俺が遅刻して出勤すれば、気にかけてくれる。


 皆が無理しているような様子はなかった……ように見えた。


 仮にだ。あれが普段のオフィスの様子だったとして、俺が気づかなかったのはなぜだ? なぜ、こんな俺に声をかけてくれる? 皆に迷惑しかかけていないというのに……。


 疑問符が重なり、複雑に絡み合った糸を解くように少しずつ、少しずつたどっていく。


 そして一つ答えが浮かび上がると、自転車のブレーキを思い切り握っていた。


「俺が見ようとしてこなかった……だけ?」


 『こんな俺に』何かと口癖になっていた言葉。他の人と関係を持つことが、会話をすることが怖かった。会話をした先に、意志とは反して笑ってしまうようなことにでもなれば……罰を受けている自分自身を更に追い込むことになっただろう。


 ──怖かった。


 責められるのが、責めるのが、怖かった。


「でも……現実は誰も責めようとはしなかった……」


 責めるどころか俺を気遣ってくれる。労ってくれる。同じ仕事をする仲間だと……認めてくれている。


 ──福田や早希は傍にいてくれる……。


「一人じゃなかった……」


 ──有紀は傍にいてくれる……。


 生きてきた過去がフラッシュバックするかのように鮮明にすべてを思い出した。


 街並みが色を取り戻し、空気はやはり澱んでいたけれど吐き気を催すほどではない。風は生ぬるく頬を撫で、隣に並んだトラックのエアブレーキに体をびくつかせる。


 ──俺は生きていた。


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