5
俺と妻の文通はすでに三往復を過ぎていた。
内容は思い出話ばかりで、見失ってしまった『安藤 弘則』というパズルのピースを、一つ一つ見つけているような不思議な感覚が全身を包みこんだ。
本当に俺と有紀しか知らないような事も書いてある、これには驚きの連続だった。なんなら『今だから言うけど』なんて、俺の知らないことが書いてあることもあった。
そんな内容は妻に……許して貰えているような気がしたのだ。
「いってきます!」
俺の中で滅んだはずの感嘆符が自然とこぼれおち、会社を出発した。
程なくして春先にやってきた桜並木道へと到着する。水面に反射した文字ではなく、しっかりとその看板を見上げて背広の襟を正した。
「田中社長、この度は私にもう一度チャンスをいただけた事、大変感謝しております」
田中社長は少し綻んだ顔で俺を見ると、湯気のたつ薄い緑のお茶を差し出してくれた。
失ったはずの『安藤 弘則』が少しずつ色を取り戻していくにつれ、『昔ならこういった場面でどのように対応をしていたのか……』を考える機会が増えている。
その結果、縋るように手紙を何度もしたため、今回、田中社長との会談の場を設けることができたのだ。
「安藤くん、この間までと全然顔つきが違うじゃないか。その……なんだ、初めて契約した当初を思い出すよ」
田中社長は少し恥ずかしそうに視線をそらしながらそう呟くと、小さな咳払いをして真剣な表情へと変える。
「それではこちらから再提案をさせていただきます」
それに釣られるようにして、俺もしっかりと社長の目を見て語気を強めた。
商談の後、鉄工所の屋上へと誘われ、靴音をならしながら鉄階段を登る。靴音が反響するが、すぐに工場が発する定期的な機械音にかき消された。
アルミで出来た簡易扉を開けると視界には青空が広がる。室外機で蒸された風が顔に強く吹き付け、思わず片目をつむった。
──もう夏なんだな。
室外機による熱風帯を抜け、申し訳程度のフェンス近くに木製のベンチが一つ。社長はそこに腰掛けると二本持っていたうちの一本の缶コーヒーを俺に手渡した。
「夏は堪えるな、工場内に冷房を入れててもききゃしねぇ」
普通の会話なのに、なぜだか心を抉られているような感覚に陥る。
「そう……ですね、私も昔から暑いのは苦手でして」
二人そろって勢いよくプルタブを開ける。空気の抜ける音が心地よく、キンキンに冷えた缶コーヒーが喉を潤した。
「これがビールだったら最高なんだけどなっ」
豪快に笑い声をあげ、空を仰ぐ。
「安藤くんさ、何かあったの? ……つーのもさ、この数年間は元気なかったじゃないのさ」
流石に取引先の社長に『死んだはずの妻から手紙が』なんて答えられるわけもなく、少し考えた挙げ句、俺の口から出た言葉は嘘偽りであった。
「いやはや、流石にこのままではダメだと思って、とうとう吹っ切りました」
──そんなはずはない。我ながら酷い嘘だ。
そう考えるとまた妻への罪悪感という無数の腕が俺の胸をちぎれんばかりに締め付ける。
社長はどう返答していいのか困惑した表情で言葉を絞り出したように見えた。
「……元気になって嬉しいけどさ。この間突き放した俺が言うのもおかしな話だが……あんま無理はするなよ」
「はい……」
田中社長の目には無理をしているように映ったのだろうか? 俺の中では昔を思い出すことは、新入社員の頃のように新しい仕事のやり方を見つけたような気分なのだが……。
まだ断片的にしか色を取り戻していない今の俺には少し難しい話なのかもしれない。次の機会にまた妻に相談してみよう。昔もそうやって成長してきたのだから。
「じゃあいくよ!」
声高らかな娘のかけ声に俺は微笑んで頷く。大きく息を吸い込んで一拍置くと、無音の空間にクラリネットの柔らかな旋律が鳴り響いた。
中学生の演奏として、ところどころぎこちない箇所はあるがパートリーダーを務めているだけのことはある。
目を閉じ、奏でられるエーデルワイスの世界に浸る。
清らかで、それでいて力強く高原に咲くエーデルワイスはそっと白く雪化粧を纏わせる。
晴天が彼らを照らし、颯爽と吹く風にその身を揺らせた。
またその風に乗って花の香りを運び、心を穏やかにさせる。
ほんの数分の演奏が終わり、現実に引き戻されると俺は娘に拍手を送った。
「ありがとう」
なぜその言葉が出たのかはわからない。それでも俺の頭に思い浮かぶ言葉は『ありがとう』であった。
「ありがとう」
繰り返し、繰り返し、その言葉を口にする。
知ってか知らずかわからないが、娘が選曲したエーデルワイスは夫婦の思い出の曲の一つであった事を思い出したのだ。
『弘則さん、エーデルワイスって曲しってる?』
『音楽の授業で習ったやつだろ?』
『そ、なぜだかわからないけど、あの曲を聞くと心が落ち着くの。苛立ってたりとか、ストレスが溜まってたりとかさ、日常の疲れが癒されるのよね』
まだ付き合ってすぐに聞かされた話だ。その影響で俺も久々にエーデルワイスを聴くようになり、ドライブデートの時なんかにもよくBGMとして採用していた。
二人とも眠たくなって危険運転になりかけたこともあったか……。
それも今では懐かしい、愛しい思い出。早希の演奏を聴いて、そんな他愛のないこと……それでも夫婦の大切な記憶を思い出すことができた。
「もう、そんなに言われたら照れるよ! それでさ……」
少し照れくさそうに俯く早希。俺は続く言葉を待った。
「次の発表会で演奏するの……よかったら見に来てくれる……?」
俺は深い瞬きの後、早希の頭を二度撫でて答えた。
「あぁ……必ず」
そんな出来事のすぐ後のことだ。夢に妻を見るようになったのは。
有紀は……いや、夢の中の有紀は無表情で俺を見つめている。
その夢を見る度に頭を下げた。
──許してくれ……。
何度も何度も頭を下げた。だが、有紀は見つめているだけで何も答えてはくれなかった。
そしてそのまま空へと消えていく。
──行かないでくれ……。
何度手を伸ばしても、どれだけ高く飛び上がろうとも、俺の手は有紀を掴むことはできない。
もどかしくて気が狂いそうだった。
夢の中の妻、文通をしている妻。
どちらが本当の妻なのだろうか……。
取り戻しかけていた色味は……また少し翳りを帯びると俺の心臓にシミをつくる。
俺は許してほしいのだろうか。早希と一緒に楽しい人生を送りたいのか?
それとも一緒に連れて行ってほしいのだろうか。死んで楽になりたいのか? それとも……
『自分を正当化したいだけ』なのだろうか──
「最近明るくなってきたな。ついに吹っ切れたか?」
馬鹿騒ぎをする大学生の隣の席。福田が三杯目のビールを注文したタイミングでいつもの調子のままそう問いかけてきた。
「妻から手紙がくるようになったんだ」
「そうかそうか有紀ちゃんから手紙が……って、ええええ!? なんだよ、頭のほうが先にイカれちまったのかよ」
目を丸くし、あからさまなオーバーリアクションに苦笑する。
「俺もそうかと思ったよ……最初は悪質な悪戯かと思った。だけど……」
そう言い掛けると福田は片手でストップの合図をだし、俺の口を制止すると届いたばかりのビールを勢いよく喉に流し込んだ。
「だけど……なんだよ」
「似てるんだ。有紀の筆跡に」
筆跡が似ていることくらいで信じるなと福田は俺を罵った。
「悪戯に決まってるだろ。死んだ人間が手紙をかけりゃ郵便局はぼろ儲けだよ!」
──そんな事はわかっている。
筆跡だけではなく、二人しか知らないような事まで書かれていることを説明するが、福田はまるで相手にしてくれなかった。
妻なわけがないと頭でわかっていても、これだけ妻である証拠が揃っていることも不可解だ。
悪戯だとしてもその意図がわからなければ、意味もわからない。
ここ数年で一番必死な姿が珍しかったのか、福田は両手でテーブルを叩きつけると一つの提案をした。
「よしわかった。それじゃあ手紙の差出人……つまり悪戯の犯人を見つけようじゃねーか」
「探してどうなる……」
すると福田は俺を挑発するように言い切った。
「それだけ証拠があるって言うんだ。有紀ちゃんが生きているかもしれないんだろ? やらない手はないね」
そんなはずはない……そんなはずは……妻は間違いなく死んだんだ──。
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