今日まで、四
「え、エトレって書いてあるところの入口?エトレって書いてある入口、新宿駅に幾つかあるんだよ?」
アルタ前の喫煙所で彼女を待っていた俺は慌てて周囲を見渡した。
「え、そうなんですか?えっと、どうしよう……。」
電話口の彼女の声は困惑していた。
ついに彼女が上京するということで、俺たちは新宿のアルタ前で待ち合わせしていたものの、彼女が肝心のアルタまで辿り着けずに新宿駅の周辺で迷っていた。しかしたとえ待ち合わせで待ちぼうけをさせられていたとしても、今の俺には時計が時間を刻む音すらも心地よく、電話口から聞こえてくる彼女のたどたどしい声も、本人には悪いが愛らしく聞こえていた。
「近くに何か見えない?」
「え~と、ストリートミュージシャンの人がいる……。」
「それじゃあ、わからないかな……。」
「あ、でもバイオリン弾いてますよっ。」
思わず口から飛沫が飛び出したので慌てて口を手で覆った。どうも彼女は典型的な方向音痴らしい。
「じゃあ俺がそっち向かうよ。そこから目に入る建物とかの情報を片っ端から教えて?」
「分かりました。……え~と、募金してる人たちがいますっ。」
「……よし、その調子でどんどん行こうかっ。」
「はい。今、私の前を救急車が通りましたよっ。」
「………。」
正直、俺も新宿とか詳しくないのだけれど、彼女にそんな一面を見せると不安がられるだろうし、何よりカッコ悪いので彼女の雑なナビだけを頼りに20分、彼女の待つJR南口まで手探りでなんとか到着することができた。
「あ、ああ園田さん久しぶりっ。」
「眞鍋さんもお久しぶりです。」
電話で言ったとおり、彼女は被災地のペット達のための募金をやっている集団の隣にいた。彼女はその集団と談話して馴染んでいたため、最初は彼女もボランティアの一団かと思って場所についてもすぐに探し当てることができなかったのだけれど、それを誤魔化すために「制服じゃないとちょっと気づかないね。」と言い訳をした。
「眞鍋さんだってパッと見気づかないですよぉ。」
勿論それだけじゃない。仙台のコンビニで見る彼女と違い、髪を根元まできちんと染め上げメイクを施し、制服ではなくクリーム色でファーの付いたポンチョを羽織ったりと女の子風に格好に気遣っているが、もっと根本的にあそこで見ていた彼女と何かのズレがあった。
「もしかして、あそこのレジって段差になってた?」
「いいえ?」
「いや、そうじゃないなら別にいいんだ……」
「そう、ですか?」
背が低い彼女は首を傾げ、俺を見上げるように言った。彼女の小動物みたいな愛らしさに胸をくすぐられる。
「それよりもすごい人ですね、平日なのに。今日は何かあるんですか?」
典型的なおのぼりさん発言に、くすぐったさを我慢できず大笑いをしてしまった。普段ならこんなことで大笑いはしないけど、幸せが行き過ぎて、箸が落ちても声を枯らすほどに笑える状態だったんだろう。
こっちの人間を気取ったものの、実際には立川在住の俺にも新宿周辺の店の事は詳しくは解らないのでとりあえず目についた喫茶店に入った。ツウを気取った店っぽかったから入ったのだけど、後から調べたら十分にチェーンな店だった。昼食時を少し過ぎていたせいか、店の中は空いていたので四人がけの席に通され、そこで俺は意図せずにタカがやるようにソファーの背に片腕をひっかけて体を大きく見せながら座っていた。結局、俺たちは男らしさをどこかで育て忘れているのだ。
彼女はウィンナーコーヒーを、俺はクリームソーダを頼み、そんな俺の注文を聞いて彼女がクスリと「可愛いですね。」と笑う。未だ童貞抜けやらぬ俺は、嬉しさの混じった笑顔を必死で抑えるために顔面を手のひらでクシャクシャに握りつぶすように抑えた。
「どうしたん……ですか?」
「いや、親知らずが痛くなって……。」
「え、なのにクリームソーダ頼んだんですか?」
「ああ、うううん。」
「あの、ホントに大丈夫ですか?」
「大丈夫、大丈夫よ。」
話の方は一方的に、今年中に上京したいという彼女からの質問の嵐だった。都内で生活していくには、仕事、住まいはどのように選んだらいいかと、気の早い新生活に眼を輝かせる。レジ打ちだったから当たり前と言えば当たり前なのだが、あまりにも被災地の記憶にある彼女と違い口数が多いのでいよいよ困惑してしまう。
「……ねぇ、でもどうして上京しようと思ってんの?」
その質問が、まるで急に俺が体に触れたように彼女をこわばらせた。彼女を覆っていた薄く輝いている被膜が剥がされ、そこには見覚えのある影が浮き出ていた。
「あ、まあ、そうだよね。うん、ごめん……。」
「どうして、あやまるんですか?」
彼女の表情が、鈍い音を立てながら光る。あまりにも華奢で小さい彼女から放たれる笑顔は、しかし攻撃的だった。
「いや、人生で一度は上京してみたいってのは誰でも一度は思う事らしいからさ、当たり前すぎたかなって……」
彼女は「やだなぁ、それじゃあわたしが典型的な田舎者みたいじゃないですかぁ。」と、より一層影を覆い隠すように笑い、もうミルクと砂糖が完全に溶けているはずのコーヒーをスプーンで何度もかき混ぜていた。茶色い液体が、ただまた茶色くなるだけだった。
「そういえば、皆さん今どうしてるんですか?」
「皆って?」
「ほら、一緒にコンビニに来てた、眞鍋さんの同僚ですよ。」
「ああ、あの人たちね……。」
「……どうしたんですか?」
「いや、実は俺、警備の仕事やめちゃってさ……。」
俺はメロンソーダをすすり、口の中に残ったシロップの香りを流すためグラスの水をすすった。
「え、そうなんですか………どうしてです?」
外角低めに少し反応が悪くなってしまった。というよりも、今の俺のストライクゾーンは無職に伴いかなり狭くなっているので仕方がないのだけれど。困ってる俺をよそに無垢に首をかしげる。
「まぁ、やっぱり長くやる仕事じゃないからね。そろそろ次のステップに繋げないとと思って……。」
彼女がそれを聞いて微笑みながら頷く。なんとかなったかと俺は右側の口角をつり上げた。
「え~、でもわたし、眞鍋さんってすごく警備員が似合うと思いますよ?」
あまりそう言われて喜ぶ警備員はいないだろうが、一応「ありがとう。」と礼を言っとく。
「それにすごいですよ、だって地震から全然たってないのに仙台まで来ちゃうなんて、皆さん勇気のある人ばかりだと思います、立派ですって。」
ふと、俺の中であの時の同僚たちの顔が一瞬だけ浮かんで消えた。俺たちは別に使命感があったわけでも勇敢だったわけでもない。俺たちはただ人生で流れに身を任せ続け、自分を大切にするやり方をとうに忘れてしまっていただけなんだ。けれど、それを言ったところで一体何の意味があるだろう。
「怖く、なかったんですか?」
「怖い?」
怖い……どうだろう。確かに一週間以上も風呂に入れずまともな飯ももらえず精神を壊した同僚を眺め、放射能に怯え余震に死を意識する、確かに恐ろしかったはずで、でも不思議なもので、ゆっくりと終わらせていく今の恐怖が、あのドカンと終わる恐怖を過去のモノしている。麻薬みてぇな作用がある恐怖と違って、この恐怖はまるで毒だ。そしてそれはタチの悪いことにすぐには作用しない。少しづつ、肉を腐らせていく。
「……そういうものだったからね、怖いなんて感じてる余裕なんてなかったよ。」
「すごぉい……。」
何も嬉しくなかった。けれど感心しながら彼女はコーヒーを飲んでいた。何かがのどにつかえたのか、「んっ」と左手で口元を抑えた。まるで一つ一つの所作が子供みたいだ。
「きっと皆さん、日本のどこかで何かあってもすぐに飛んで行っちゃうんでしょうね、尊敬します。」
「それじゃ自衛隊だよ……。」
思わず苦笑した。
「……でも。」
「でも?」
「……確かに何かあったらまた行くのかもしれない。」
口から出たのは自分にとっても思いがけない一言だったが、具体的にならなかった自分の中で散らかっていた感情が、彼女と話しているうちに整理されだのだろう。もう一度確認するように言った。
「なんつーか、忘れたいくらい大変なことばっかりだったのに、今でもちょくちょく思い出すんだよね。日常の小さな一つ一つが前とは違ってるからさ、そういうのを見る度に、それが引き金になって、まだあそこでやるべきことがあるんじゃないかとか、もっとやれることがあるんじゃないかとか思っちゃうんだ。」
辿るように自分の気持ちを話していたけれど、でもそれは彼女には届かずに喫茶店に漂う煙に交じって霧散しているようだった。
「……園田さん?ちょっと臭かったかな?」
「う、ううん、やっぱり眞鍋さんはすごいなって。……でもどうだろ?」
「え?」
「結構わたしの近所とかあの時よりもきれいになりましたから。すごいですよ、人って。あそこで地震があったなんて分からないくらいに元通りにしちゃうんです。」
「へぇ……。」
「もう眞鍋さんたちがやってくれたような事が必要かっていうと、どうかなって思うんです。」
確かに俺が派遣されたのは比較的被害の少ない所だったけど、けれど未だ被災地の復興がままならないことをニュースでやっている。どうして彼女はまるで他人事のような言い方をするんだろうか。
「それにそんなにいろいろ変わってないと思いますよ、変わったかもしれないけどすぐに、わたしの街みたいに元通りになるんですって。」
気丈さかそれとも極度の楽観なのか、首を傾げ彼女が笑う。
笑顔を作りあっている俺たちの間にウェイトレスが割って入りグラスに水を注ぎながら彼女にコーヒーのおかわりを尋ねたが、彼女は「結構です。」とぎこちなく断った。
「……眞鍋さん、クリームソーダ飲まないんですか?虫歯気になります?」
「……クリームソーダはね、すぐに手を出しちゃいけないんだ。」
「どうしてです?」
彼女の目が無邪気にクリッと笑った。
「うん、すぐに手をつけずにステイして、周りのアイスクリームが溶けるのを待つんだ。」
「ステイ?」
「そう。するとね、溶けたアイスが今度は氷に触れてまた固まって軽ぅい感じの、サクサクしたシャーベット状になるんだよ。そしてそれを少しづつ崩しながら食べるんだ。」
「クリームソーダにそんなこだわりがっ。」
感心したのか呆れたのか、多分その両方が入り混じった目でくいるように俺を見る。いい感じだ。お互いの足が、絡まることなくスムーズにステップを踏んでいるようだ。
「それだけじゃないぜ。たまにメロンソーダとアイスクリームをかき混ぜる奴がいるけど、俺はあれはいただけないと思う。」
「へぇっ。」
「メロンソーダをクリームと混ぜちゃうと、味は寝ぼけた感じになるし何より見た目が悪い。メロンソーダの醍醐味は鋭いシロップの味とエメラルドグリーンのビジュアルなんだ、それを白く濁らせるなんて品がないよ。」
彼女は机に突っ伏して笑ってくれた。彼女から時折見えていたあの影が今は消えている。この調子で道化に徹してくるくる回ろう、そうすれば彼女はもっと笑ってくれるだろう。
「……そういえば、園田さんも中原中也知ってたんだね、びっくりした。」
この日のために、俺はきちんと中原中也を予習してきていたのだ、主にウィキペディアで。けれど俺はあらかじめ教養のごとく中原中也を知っていたように話す。
「たまたまですよぉ。てゆーか、いきなりあんなの引用されたら普通の人びっくりしますよ?眞鍋さんっていっつもああいうことするんですか?」
「いや、いつもというかなんというか……。」
紙一重かぁ、やっぱりあの人らのアドバイスは危うかったんだな……。
「まぁ、そうだよね、普通は知らないよね。確か本屋やってるおじさんが中原が好きだったんだよね?」
そう言うと、再び彼女の光が鈍った。
「……そうですね。」
「……園田さん?」
並んで歩くのに小慣れた矢先、彼女の足を踏んだ感覚があった。
「うん……中原中也以外にもいろんなこと教えてもらいました。わたし、子供のころに両親が離婚してて、そのおじさん、わたしの中でお父さんみたいな存在だったんです……。」
彼女はもうコーヒーの残り少ないカップの取っ手をつまんで軽く持ち上げたが、口には運ばずにまたソーサーの上にそれを置いた。その唇が、何かを言いたげに艶めかしく歪み、俺はその動きから次の言葉を読み取ろうと目を凝らす。しかし、一方で彼女の目は読み取らせるのを拒むように、窓の外の虚空に助けを求めていた。何をしたらいいのか、それとも何をして欲しいのか……。
「園田さん、どっか新宿で行きたい所とかある?」
優しさとかではなく、見てられなかったのでとりあえず手を差し伸べる。
「六本木ヒルズとか行ってみたいですねっ。」
その差し出された手を、彼女は驚くほどの速さと強さで握りしめた。
「そ、う……。まあ新宿からならすぐに行けるからね。でも言っとくけど、六本木ヒルズって見るところ何にもないんだぜ?飯もやたらたっかいし。」
「ええ、そうなんですかぁ。でもあそこ人も住んでるんですよね?ホリエモンとか。それだけでも見に行きたいかなって。」
「別にホリエモンがベランダで布団干してるわけじゃないから見れるかどうか……」
俺がそう言うと、彼女が笑った。純粋な、笑顔だった。それから俺は意図的に核心からそらした話をすることにした。母親が勝手に手紙を見たことや、この間面接を受けに行った会社の面接官がとてもキツイ女だったこと。具体的なことはわからなかったが、何かを秘めている彼女の輪郭に触れぬよう、用心深く、しかしそれに悟れらずに話を盛り上げた。コーヒー一杯での長居も限界に来たので取りあえず店から出ると、どこからか人の声が響いてきていた。
「どうする?やっぱり行きたい?六本木ヒルズ?」
「う~ん、あんまり眞鍋さんがお勧めしないなら別にいいですよ?」
「まぁそうだね、あんまりあそこのあたりの店知らないし、このあたりで美味しいガトーショコラ出す店知ってるんだ、グルメサイトで星3,5ついてるところ。」
「すごい、さすが東京の人ですねっ。」
後何回かデートを重ねてしまったらボロが出てしまうのだろうその羨望の眼差しに苦い思いを抱きながら、俺はサイトで知ったばかりのその店へと向かった。人ごみの中、はぐれぬように時折彼女のほうを振り向くと、彼女は前歯が強調された笑顔をかかさずに俺に向ける。甲州街道が近づくと、店を出るときに聞こえてきていた声がより大きくなるのに気づいた彼女が言う。
「何か、さっきから大きな声が聞こえてくるんですけど何なんですか?」
「ああ、デモだよ。週末だからね。」
「デモ、ですか?」
「そ、やっぱあの時大変だったじゃん。原発が壊れて放射能とかが漏れてさ。こっちでも水が買占めでなくなったり大変だったんだよ。だからさ、あれから頻繁にデモとかやってんだよね。俺も一回参加したことあるよ。さすがに声出すのはちょっとアレだったけど……」
彼女が返事をしたように聞こえたのでさらに続けた。
「俺の友達にもさ、沖縄に行っちゃった奴もいたし……やっぱ他人事じゃないんだよね。」
サイトで調べた店には甲州街道沿いに行くほうが、地理に明るくない俺にとっては助かるので、さらに声は大きくなり、次第に声だけではなく物々しい警察の機動隊員の姿も見えてきた。
「警察がいる……。」
「規模が大きいからね。凄いよ?あれから一年以上経つけど、全然少なくなんないみたい。」
振り向くと、そこにあったのは笑顔ではなかった。きっと見慣れない機動隊員に物怖じしているのだろうと、俺はまた前を向き歩き始めた。
――再稼動反対、子どもたちの未来を守れ
具体的に声、シュプレヒコールが聞こえるようになり、デモの参加者が二人の目に飛び込んでくる。そのうねりは集合した体温によって熱気を発していて、散漫な都会の賑やかさとは違って一つへと向かうエネルギーは、人の多い都市の中にあってとても非日常的な光景だった。
「すごいっしょ?もっと近くで見てみる?」
前に行こうとした俺の体がくるりと反転した。彼女が、俺のパーカーの袖を強くつかんでいたからだ。
「いいよ、やめよう。」
か細いはずの彼女の声が、デモ隊の声よりも大きく聞こえた。
「え?……うん、でもまぁ、この通り沿いに行かないとその店いけないし……」
「じゃあ、いいよ。別のところに行こう?」
「……そう。」
幼い子供のようなその声に、本能的に従うべきだと思った。もしかしたら彼女はタカのようにあまりデモの話などを好まないのかもしれない。けれど自分よりもはるかに原発に近い彼女がこういう問題に無関心というのも違和感を覚える。結局、俺たちは当てもなく新宿駅の周辺を歩き回ることになってしまった。さっきとは違い、今は彼女が俺の前を歩いていた。
「眞鍋さんは、ああいうの好きなんですか……。」
「いや、好きっていうか、ホント一回だけだよ?」
どうも彼女に対してこの件は選球を用心しなきゃいけないようだ。さっきおじさんのことを「だった」と過去形で話したことも気になる。
「さっきも言ったように、沖縄に行っちゃったダチがいるし、それに俺も向こうにいたとき凄い放射能とか怖かったからさ、飲んでる水が大丈夫かどうかもわからなくて……でも飲まなきゃ生きてらんないし……最近ニュースは減ったけど、別に問題が片付いたわけじゃないからね。」
彼女の背中に話しかけるが、しかし彼女は振り向かずに答える。
「そんな、もっと前向きになりましょうよ?眞鍋さんらしくないですよ。」
らしくない、そんなことを言い合えるほど当たり前の話俺たちはお互いのことを知らない。もちろん彼女だってそんなこと分かっているはずだ。どうも、彼女もどう球を投げていいかわかっていないようだ。
「前向きだからさ、前向いて、前に見えるものは見ていかないと、歩いてけないんじゃない?」
彼女の背中は何も答えなかった。
「……どうしよっか?どこいく?」
俺と彼女は二人で沈黙に寄り添えるほどの仲じゃないので、何かを言わないといけない。
「そういや、猫カフェとかは……仙台にもある?」
「ありますよーそこまで田舎じゃありませんからー。」
「そっか……」
「東京タワー。」
おもむろに彼女が言う。
「お、鉄板だけど良いんじゃない?」
「スカイツリー。」
「今ならそこだろうね。」
「お台場。」
「……。」
「ディズニーランド。」
「……千葉だよ。」
しかし彼女はただ歩き続ける。
「何でもあるんですよね。」
俺は相槌も打たなかった。彼女のそれは、もう独り言みたいだった。
「何でもあるから、何でもないものになれる……」
背中越しの俺には、その言葉が結論なのかまだ続くものなのか分からなかった。その背中が、一メートルも離れていないのに、彼女の背中がおぼろげなものに見えていた。
「何もなりたくないなら、それでもいいんじゃない。まだ園田さん若いし……」
可愛いし、と続けたかったが、いきなり告白っぽくするタイミングでもないな。そんなのはあの時で懲り懲りだ。
「それに時間がたてばなりたい物が見つかるし、ならなきゃいけないものも見つかるだろうから。」
「ならなきゃいけないもの?」
「うん。まぁ、いろいろあるでしょ。親だの友達だの仕事だの、何か生きていってたらそれが積み重なっていって、それがやんなきゃいけないことの理由になってくるんじゃない?」
「眞鍋さんって、ホント強いですよね……。」
「んなこたないよ、誰だって大なり小なりそういうのを引き受けながら生きてるんだから……。」
俺の中では、被災地で生き延びた同僚たちが、そしてそこで触れた彼らの人生と、変化していった周りの人生が浮かんでいた。積み重なったものを引き受けさせられて歩かされて潰されて、粉々になってしまった彼らに、強かったねと言葉をかけても何の慰めにもならないだろう。野ざらしになった欠片はまだ被災地に転がったままだ。気がつくと彼女が笑顔で振り向き立ち止まっていた。
彼女の笑顔が時間の流れを暖かく穏やかなものにした。デモに向かう人々とすれ違い喧噪に包まれ、ビル風の冷気にさらされながら、けれどその瞬間俺たちはその場所に二人きりだった。
そして俺は、彼女がもう俺の前からいなくなるのだということを知った。
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