1-5
「別にかまわんじゃろ」
沈黙を破ったのは、寝起きの頭を掻きながら湯呑にお茶を注いでいるアリスだった。急須を傾けながら言葉を続ける。
「何事も経験じゃろ。やってみなければわからんこともあるじゃろうし、やってみてもわからんこともある。じゃが、やってみんことには変化は得られん。まあ、死んだらそこまでじゃが」
「死なせやせんよ」
「なら、問題なんぞあるまい」
アズサ音も立てられずにいる緊張の中、小さな指で湯呑をもち気楽お茶を啜る姿は確かに、十歳かそこらの幼児には思えない。
「そうっすね」
イナバはそう言って笑った。
「はいはい、話はまとまったかしら?」
となりで興味なさそうに話を聞き流しておさかなが、マグカップに唇を添えながら言った。
「アズサちゃん。行くのね?」
アズサに向けられたのは視線だけだった。
「はい」
アズサには二人――イナバとおさかなが彼女の何を見定めようとしているのかがわからなかった。
覚悟だとか意志だとか、言葉にしてしまえば二文字で表せるようなそんなことではなくて、そもそも二人が考えていることが同じだとも限らない。
でも二人の視線に応えるには、行動を起こす他ないとアズサは思うのだ。その結果、何かを失敗したり挫けそうになったりすることもあるかもしれない。
けれどもそれも経験だ。
いつか踏み出さなければならない一歩なのだ。
「そう。じゃあ、こっちに来なさい。あ、イナバはいらない」
おさかなはカップをテーブルに戻すと、あっさりと承諾した。立ち上がるおさかなの後を追う前にカップを片づけようとするとイナバとアリスが二人そろって早く行けと手を振るので、会釈だけして資料室に向かう。
ソファやテレビがある客間兼居間には今朝から出入りしていたが、奥の資料室は昨日ぶりに入る。残念なことに昨日片づけておいた書籍や紙媒体の資料がすでに散乱し始めている。アズサが来る前の姿に戻るまで長くはなさそうだ。
「さて、アズサちゃん。そこ座って」
おさかなはホログラム・ディスプレイの前の椅子に座り、アズサにも椅子を勧めてくる。
一昨日イナバが勧めてきたゴミまみれのものではなく、昨日アズサ自身が発掘したものだ。キャスター、リクライニング付きの椅子で、座り心地は悪くない。
文字が滑るディスプレイを見つめたまま、おさかなはなかなか話を切り出そうとはしなかった。
「……まあ、あたしはさ。正直、アズサちゃんが行く必要はないと思う」
「それは、私では何の役にも立てないということですか?」
「そうは言ってない」
「なら――」
「確かにあなたの力が役に立つ機会はあるかもしれない。でもこれは、イナバが一人で行けば済む話だわ。わざわざ危険な道を選ぶ意味がない」
「でも危険だからって避けていたら、いつまで経っても変われないんじゃないでしょうか?」
アズサだって自分にはできることがあると自惚れているつもりはない。できないことばかりだから、変わりたいのだ。
自分の無力さを自覚しているからこそ、危険を承知で挑戦したいのだ。
「そりゃこんな仕事だからね。危ないことはいっぱいあるわよ。でもね、避けられる危険に身を投じることに、私は魅力を感じない」
おさかなは断言した。
あっさりと、さっぱりと、食い下がる余地もなく、切り捨てられた。
「アズサちゃん。あなたの経歴、ちょっと見させてもらったわ」
「……何か、問題がありましたか?」
「何も。優等生過ぎてびっくりしたくらい。高校でも大学でも実技も筆記も最優秀。問題といえばちょっと優等生過ぎることくらいよ」
「じゃあなぜ……」
「そりゃあ、ここが学校じゃないからよ」
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