1-3

  ***


「よかったんですか?」


 きな粉と千兵衛が立ち去り残された湯呑を片づけると、アズサは尋ねた。


「何がっすか?」


「依頼を受けて」


 イナバはソファに座りコーヒーを啜る。PHDをで何かの記事を読んでいるようだ。


「なんか、いいように使われてるみたいじゃないですか。私たちが」


「あれはあやつなりの譲歩じゃよ」


 そう言ったのははソファで涎を垂らしながら寝ていたはずのアリスだった。


「おはようございます、アリスさん」


「うぬ」


「きな粉さんがいらしてましたよ」


「知っとるよ。聞いてたからの」


 一体いつから起きていたのか定かではないが、あくびを噛みしめている辺り途中までは本当に寝ていたようだ。


「あの、譲歩って……」


「言葉通りの意味じゃよ」


 アリスはまだ少し眠そうに、ノースリーブのワンピース(多分部屋着)の裾をめくり、腹を掻いている。幼い容姿だからか、それともアズサの倍以上生きているからか、アズサも驚くほどの派手な紐パンが丸見えだが気にする様子は皆無である。


「あの女は魔術を使うことをためらったりはせん。貴様らでが止めねば、戦争は回避できぬ」


「戦争だなんて大げさな」


「ま、貴様が思っとる戦争――千や万の人が死ぬような殺し合いではないかもしれんの。それは儂も否定せぬ。じゃが少なくとも何人かは死ぬじゃろう。場合によっては数百かそれ以上の人が死ぬやもしれぬ。その可能性も否定はできぬ」


「そんなこと……許されません」


「誰が何を許さぬというのじゃ。少なくともこの街はそれを許す」


 それは法が――と口が開くが声は出ない。


 人が守り人を守る法律は、この街には存在しない。


 法律がこの街に保障しているものは、自由だけだ。


 だから法律は許している。


 じゃあ誰が――何が許さないのか。


 ――それを私は、私の正義だと言えるだろうか。


「……私は、それを許したくありません」


 精いっぱいだった。


 アズサにとってはそれを自分の正義だと誇ることはまだできないかもしれない。だけど無造作に人間が死んでいくことを容認できるほど、彼女の正義は落ちぶれてもいない。


 アリスはそれを笑うことはしなかった。


「然り。それもまた真じゃろう。貴様が貴様の正義を以て殺しを許さぬ、と。それは間違っておらんよ。この街に倣っている。じゃが、許さないというが、貴様はどうやって彼奴等を裁く?」


「それは……」


 暴力。


 この街にはそれ以外に法も方法も存在しないのだから。


「きな粉を止めようとすれば、貴様はきな粉と対峙せねばならん。彼奴は貴様を殺すつもりでくるじゃろう。それも一人ではなく『猫の目』の多くの人間に命を狙われるじゃろう。そうなったとき、貴様は一人で、彼奴等を殺すことなく捕らえられるか?」


 アリスの言い方は意地が悪い。


 たとえアズサの魔術が、『猫の目』の誰よりも――あの和装の魔女よりも卓越していたとしても、『猫の目』という街を相手取って勝ち星を挙げられるとは思えない。そこまで自分を過信してはいない。


「腹が立つのがわからんわけではない。じゃがの、お主らが彼奴を止めたところで『猫の目』の攻撃対象が、『蜂の巣』からこの場所に代わるだけなんじゃよ。きな粉としてはそれでも構わぬじゃろうが、イナバは殺し合いは避けたいと考えた。となれば、儂らが仲介して円満に解決できればそれが一番じゃろ」


「でも! だったらきな粉さんが自分でハチヤさんと話したらいいじゃないですか」


「すでにそんな状況はもう終わってるんじゃよ。きな粉は今すぐにでもハチヤを殺してやりたいのを抑えて、イナバの顔を立てに来たんじゃ。きな粉からしてみれば、『蜂の巣』を壊滅させるのが、もっとも簡単な手段なんじゃから」


「簡単って……」


 人の命を、『簡単』とか『面倒』とかで片づけてしまうことのできる街。それがこの自由の街の習わしだったとしても、アズサは納得ができなかった。


 そんな都合で命を数えられるほど、この街の命は軽い。


 そんな事実を認めたくなかった。


「まぁ、いいじゃないっすか」

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