3-5
「あなたは……!」
「一昨日ぶりだな、お嬢さん」
アズサは立ち上がり、腰の銃に手を伸ばす。……が、イナバは立ち上がりもせず、それどころか卓に座ったまま待っていましたと言わんばかりに油そばに手を伸ばしている。
「アズサさん、食事処で物騒なものを出すのはマナー違反っすよ」
「そんなこと言ってる場合じゃ――!!」
「それ、支給品の
「イナバさん、忘れたんですか! この人に殺されかけたんですよ!? 私たちは!!」
必死に叫ぶものの、イナバはまったくたじろぐことなく、麺を口に運んでいる。
「忘れてやせんよ」
「だったら――」
「私はここで油そばの屋台を営んでいる」
長い髪を隠すにタオルに黒いサロン。白のTシャツに筋骨隆々な見事の二の腕がよく映える。
アズサの声を遮って、声を出したのは店主――
一昨日ススキノに来たばかりのアズサを襲ったうちの一人であり、ススキノ三大悲劇の一人。聖剣だった。
「お嬢さんの怪訝はもっともだが、金がなければ食っていけないのはこの街でも同じさ。客を斬りはしないよ」
「ほら、大丈夫っすよ」
「貴様はもう少し弁えろ」
へらへらと麺をすするイナバを聖剣が睨み返す。
その様子を見て、とりあえず血なまぐさい展開にはならなそうだと、アズサも腰を下ろした。
「あの、聖剣さん……」
「アルヴェルトだ」
「佐藤健介じゃないっすか」
閃光が煌めく。
アルヴェルトはどこからともなく身の丈ほどもある両手剣を抜刀し、油そばをすするイナバに突きつけた。
「表に出ろ、糞ウサギ。ミンチにしてやる」
「その大剣でミンチにするんすか? 器用っすね」
「一太刀で藻屑にしてやる」
「客に剣を向けるとは上等っすね」
「客は斬らないって言ったじゃないですか!!」
アズサが必死に叫ぶと、アルヴェルトは小さく舌打ちをして剣を下げる。そこまで嫌そうなのに左胸の名札には佐藤の二文字があるのはなぜなのだろうか。
「それで、佐藤さ――」
「アルヴェルトだ」
「…………」
「…………」
アズサはコホンと咳払いをして、なかったことにした。多分それが一番平和だ。
「アルヴェルトさん、さっきの……『魔女』ってどういう意味ですか?」
「私より、そこのウサギの方がよほど詳しいがね。そのままの意味だよ。彼女は魔女だ」
「……それはアリスさんの、えっと、年齢のことですか?」
「それもあるが、それだけではない。……少なくとも、ススキノで魔女と言えば、彼女を思い浮かべる人間は多いだろう」
「魔女……」
魔術という技術は今や一般的に普及している。
使える魔術の得意不得意や魔術を使える許容量、〈ストレージ〉の大きさには個性があるが、ほとんど誰でもある程度の魔術は使えるといっていい。そんな時代だから、魔女なんて呼び方はなにか理由がなければしない。
問題なのは、アリスの何が特別なのか、だ。
「アリスさんの話は道すがらしやすよ。それより、せっかくっすから、食べたらどうっすか?」
「……いただきます」
それは、端的に言って、油まみれの麺だった。
麺の上には味玉、刻みネギ、メンマ、海苔とおなじみの具材になぜか細かく刻まれたチャーシューが乗っているが、最も必要だろう、スープがない。これではラーメンとは呼べないではないか。
だがアズサとて馬鹿ではない。
これでもついこの間まで大学に籍を置き、幼少から学業にはそれなりの自信があった。この麺がいったいどんな料理なのかは理解できていないが、それでも観察力と思考力を以てすればこの程度の障害、越えられないわけがない。
先ほどイナバはコレを「油そば」と呼んでいた。
このギットギトに油まみれの麺を見ればその単語の意味の半分は理解できたと言っても過言ではないだろう。だがスープがないことを除けば、これはラーメンそのものだ。
アズサはスープのないラーメンを知っている。
そう、つけ麺である。
つまり油そばとは、熱熱のスープにこの油まみれの麺を潜らせて食べる料理に違いない!!
……だが、スープが運ばれてくる気配はなかった。
「これ、かけるといいっすよ」
こんな単純なことに気づくことができなかった自分を恥ずる思いでいっぱいだが、最初からイナバの様子を見ればいいじゃないか。
ありがとうございます、とイナバが手渡してくれた二つのボトルを受け取りながらイナバのどんぶりに目をはせる。
そのまま、喰っている。
スープのないまま、そのまま。
どういうことだ、今イナバが手渡してくれたこのボトルが、実はスープなのか「お酢とラー油っす」では麺自体に味でも……。
そこでハッ、気が付く。
行動する前に考え過ぎていたんじゃないか?
食べ物に違いはないのだ。
まず口に運んで、それから考察してもいいんじゃないのか?
なにより、この食欲に訴えてくる暴力的な香りから、アズサは逃れることができなかった。
「おいしい……」
箸が唇を通った瞬間、アズサの口から言葉が漏れた。
「当然だ。私の作った油そばだからな」
アルヴェルトはニヤリと、満足そうにほくそ笑んだ。
味は、ある。
箸を入れてみて気が付いた。麺に隠れるように、少量ではあるがスープのような液体が器の底に確かにあるのである(これがスープではなくタレと呼ばれていることをアズサはまだ知らない)。
隣のイナバが「混ぜて」とジェスチャーを加えて促してくる。言われるがままに、具と麺とスープを、万遍なく混ぜ合わせ、再び口へ。
――うまい。
うま味を凝縮したかのような刺激が、下に触れた瞬間口いっぱいに広がる。
これは、確かに、美味い。
イナバが進めてくれたお酢とラー油に手を伸ばす。
ボトルをひと回し。
そして啜る!
これはまた違う食べ物だった。
「味が全然違う……」
「油そばの醍醐味は調味料での味の変化だな。お酢とラー油は基本だが、ニンニクやマヨネーズ、半熟卵なんかが入るとまた味が違ってくるんだ」
別料金もあるけどな、と自慢げに話す聖剣の言葉を聞いているうちに、トッピングも入れてみたくなる。半熟卵は絶対美味い。勤務中にニンニクはまずいし、大人しくマヨネーズを試すだけにした。
「でも……」
「でも?」
「カロリー高そう」
見るからに油の塊なのだ。これを毎日食べていればあっという間に脂肪はたまっていくだろう。
――でもしかし、この一食だけなら。
幸せそうにそばを啜るアズサには、そう思ってきた多くの人々の行く末を知る由はなかった。
「さっきの話っすけど、魔女と言えば、この街で魔女と言えばもう一人いるっす」
「もう一人?」
「ススキノ南東の主、きな粉さんっす」
***
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