第一章:第三実験場、ススキノ
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北海道警察本部。
札幌のど真ん中を東西に延びる大通公園。西一丁目にある旧テレビ塔から西に五〇〇メートルほど進みそこから北に少し行くと、西七丁目から八丁目にまたがる道警本部に突き当たる。かつてはもっと小さな作りだったそうだが、大戦を機に現在の大きさに作り替えられたと聞く。
道警本部三階。階段を上がって廊下をまっすぐ歩いて突き当りが本部長室だ。
「ようこそ、北海道警察本部へ」
中で待っていたのは、初老の男。
この本部の主である、道警本部長、稲垣だ。
稲垣は椅子に座っまま机の上で指を組む。柔らかい眼差しと穏やかな声音が緊張をほぐしてくれる。
「本日付で魔術統治局、魔術開発特別区域管理課、現地第三係所属に配属されました、久坂部梓です」
うん、と稲垣は頷く。
話している分には初老の優しいおじさまにしか見えないが、稲垣は十五年前の大戦では最前線で戦い抜いたと聞く。自然と背筋が伸びてしまう。
「私はここの本部長、稲垣宗治です。よろしく」
稲垣は立ち上がり机を回って、アズサの前で手を差し出す。握手をすれば否応なしに経験の差が思い知らされてしまう。
すごく、ごつい手。
強い手だった。
「そう緊張しないで。堅苦しいのは得意じゃないんだ」
手を放してにこりとほほ笑む。握手のせいか緊張が伝わってしまったようだ。
「掛けてくれ」
「はい、失礼します」
ソファに腰を下ろすと柔らかいクッションに体が沈み込む。高そうだな、なんて思っている間に、稲垣が向かいに腰掛けた。
「出身は北海道……大学は札幌だったね」
「はい」
「名前は少し聞いているよ。優秀な魔術士だって」
「いえ、そんな」
確かに学生時代のアズサは客観的に優等生言って優等生だった。特に魔術の扱いに関してはその辺の学生には負けない自信もある。もちろんそれは学生という範疇の中での話ではあるが。
「君は、ススキノに立ち入ったことはあるかね?」
「いいえ。ありません」
「そうか」
ゆっくりと頷き、稲垣は肘を膝に乗せて指を組んだ。
「あの辺りに出入りしている若者も少なくないようだが、やはりと言うべきか、君のような人はあまりあの辺りには近づかないのかね」
「私のような、という括りはわかりませんが、少なくとも私の大学の友人で、ススキノに入ったことがあると明言しているような学生は居ませんでした」
「そうか。入ったからと言って咎めることは、私はおろかこの国の誰にもすることはできないのだがね。まあ、なんだ、君子危うきに近づかず、だ。入る必要がないのであれば、入らないに越したことはない」
――コンコンコン。
稲垣が言い切ると、ちょうどそこで部屋にノックの音が響いた。
入ってくれ、という稲垣の言葉を待って、女性がお盆を手に現れた。
「すみません、お茶なんて運んでもらって」
「構いませんよ。私も手が空いていましたから」
若い女性だった。もちろん若いといってもアズサのような卒業ほやほやのフレッシュマンのような幼さはないが、代わりに大人の女性らしい美しさを備えている。また若さとは裏腹に、この建物の中で最高位に位置付けられているはずの本部長の部屋にもかかわらず、毅然とした態度を崩さない姿がアズサにはかっこよく見えた。
「コーヒーでよかったかしら?」
「え、あ、はい」
アズサの前に音を立てずにティーカップを置くと、女性はにっこりと微笑んだ。ああ、こういう顔もできるんだ、と来客用の作り笑顔であろうその表情にも、アズサは憧れた。
一方で稲垣は女性の仕草を心配そうな表情で眺めていた。
「本部長、来客の前でおろおろしないでください」
稲垣の前には緑茶を置きながら、女性はそう言った。
「ああ、うん、そうだったね」
なんというか、尻に敷かれている旦那みたいだった。
「それでは、ごゆっくりと」
最期まで堂々としていながら美しい所作を崩さずに、女性は本部長室を出て行った。
「怖いでしょ? あれ、私の副官なんだ」
「怖い……というか、かっこいいですね」
「久坂部君まであんなふうにならないでおくれよ」
お茶をすすりながら稲垣は苦笑いを浮かべる。アズサもコーヒーで唇を湿らせた。砂糖もミルクも添えてあったが、アズサはそのままいただくことにした。
……苦い。
「ススキノは、怖いところだよ」
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