1-2
「ススキノは、怖いところだよ」
湯呑を茶托に置き、稲垣は再び手を組んだ。
落ち着いた声だった。
「他の二つの実験場がどんな情勢下にあるのかは、まあ、私も正確には知らないんだけれど。少なくともススキノには、もう律すべき法がないんだ」
「魔術管理法第七条、ですね」
「そうだ」
魔術管理法第七条。日本に設置された魔術開発特別区域における、国家の不可侵制約。
「魔術開発特区における不干渉規定。……君はこの法律をどう考える?」
「……少なくとも今のこの時代において、魔術の開発が遅れるということは、それは国家の弱体化を意味すると思います。そしてそれを防ぐためには、一層の魔術開発の促進、またそれを可能とする実験施設が必要です」
「しかし不干渉である必要があるかね? かつてのこの国がそうだったのように、才能を持った人材が正規の手段を以て、管理された実験室で成果を上げれば解決できるのではないかね? 小さいとはいえ、街一つを丸ごと実験施設としていることになんの抵抗もないのかい?」
「善であれ悪であれ、急激な変化は社会にとって少なからず不利益を生み出します。そして現代における魔術という技術の成長速度は、あまりに早すぎます」
「そのためには仕方がない処置であったと」
「……私はそのように考えます」
稲垣は声に出さないまま、黙って頷いた。
柔和な顔はそのままだったが、何を考えているのか読み取れない表情だと思った。
「……教科書的な回答でしたでしょうか」
「いや、結構。限りなく正解だよ、久坂部君」
アズサは顔には出さないようにほっとした。
「そしてだからこそ、君は悩むかもしれない」
「それはどういう意味でしょう……?」
「ススキノに着いたら、同僚に同じ質問をしてみるといい。きっと驚く」
アズサには稲垣の言っている意味がよくわからなかった。
「ススキノは今や完全な無法地帯だ。法に従う人間も、法を守る人間もいない。魔術の使用も日常茶飯事だと聞く」
もちろんススキノは第三魔術開発特別区域――通称、第三実験場であり、新魔術開発のために魔術が行使されることは、日常であってなんら問題はない。
それが無関係な者を傷つけるような魔術でなければ。
「稲垣本部長はススキノに入られたことは……」
「あるさ、もちろん。だが日常的に出入りができるわけじゃあない。あくまであそこは君たち魔統局の管轄だ。僕らは上からの指示があって初めて動くことができる。君もそう習っただろう?」
ススキノに限らず日本に現存する三つの開発特区においては、通常政府の介入は許されていない。万が一政府の介入が必要とされた場合においても、その指示系統は現場の警察組織ではなく魔統局に一任されている。だからこそ魔統局の人間が、開発特区に在中しているのだ。
「ススキノに法はないが、我々道警は法に縛られる。……さっき久坂部君は、日本の魔術進歩のために、開発特区は必要だと言ったね」
「……はい」
「いや、そんなに怖がらないでくれ。別に否定しようってわけじゃない。君の言った通り、どこに行ってもそう教えられるだろうし、どの本を開いてもそう書いてあるだろうさ。……だが、そうは思ってない人間もいるってことさ」
「魔術開発特区をよく思っていない、ということですか?」
「そうさな。開発特区――ひいては魔術統治局そのものか。魔統局を好いてない奴らはどこにだっている。もちろんこの道警本部にだって少なからずいるだろうさ」
「それは……わかります」
「察しがよくて助かるよ」
道警からすれば目と鼻の先で犯罪が行われていたとしても目を瞑らなければならないのだ。もちろんこれは魔統局どうこうというより開発特区という制度と魔術管理法第七条をどうにかするべきではあるけれども、彼らからすればススキノで自由に振舞っている魔統局の人間は好ましくないかもしれない。
もっとも、そもそもそんなこと以前に、魔統局に所属している人間は嫌われ者が多い。
「まあ、そうはいっても、だ。少なくとも俺は君たちのことを嫌ってはいないよ。もしススキノで困ったことがあれば、遠慮なく道警を頼ってくれ」
実際のところ、開発特区内に一般警察が介入するような事態はそうそう起こることでもない。魔統局の駐在職員だけでどうにもならない状況なんて、来ない方がいいに決まっている。
「ああ、言い忘れていた」
「……なんでしょう?」
「ススキノまでは地下鉄を使った方がいい。南北線な」
ススキノには地下鉄南北線のすすきの駅、東西線の豊水すすきの駅が通っている。だが、今の時代、長距離の移動ならともかくわずか数百メートル程度の移動に、電車の類の乗り物は使う必要はほとんどない。魔力というエネルギーを利用した魔術という技術は十分に浸透しているし、魔力を使って移動速度を上げる方法はいくらでもあるからだ。
もちろん長距離の移動となれば疲労することなく移動できる公共交通機関は有用だが、道警本部からススキノ駐在所までは一キロもない。わざわざお金を払ってまで地下鉄に乗るメリットが少ないのだ。
「どうしてですか?」
「ススキノの街は危ないから。駅の周りは非戦闘区域になってる分、いくらかはましだから」
アズサは稲垣の勧めに従って、地下鉄に乗った。
稲垣の、「いくらかは」が本当に大した意味もないことを、アズサはすぐに思い知ることになる。
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